羨望の蓋の下に。:隙間仕様、その訳。
(♀夢/英雄学/爆豪勝己/『羨望の蓋の下に。』出久退室後)
椅子を並べて隣に座った◎の腕を取り、肘で腕ごと固定する。思いの外互いの距離は近く、広く接触している箇所からは相手の体温を感じた。
◎の手に刺さったトゲは、表に出ているのが一ミリにも満たないくらいわずかで、こんなんデクにゃ抜けねぇだろうな、と勝己は思った。
一点に目線を集中させながら、トゲとピンセットの角度を合わせる。平素の粗暴な振る舞いを感じさせない丁寧な作業だった。◎は勝己の集中を切らせないように黙ってじっとした。
手応えがあるが抜けない、ということを数度繰り返したが、やがてそう時間をおかずに勝己が「っし!」と達成感を含んだ声を出した。同時に、固定されていた腕の力が緩む。
「抜けた?」
何度もピンセットが当たって感覚が麻痺していたため実感がない。◎は自分の手の平を見た後、勝己の手元を見た。勝己は抜いたトゲを左手に載せ、おら、と◎に見せる。
「ありがとう」
「ちょれぇわ」
勝己は手を払い、床にトゲを落とした。◎は勝己の手からピンセットを取り、所定の位置であるペン立ての中に戻した。
「勝己は本当になんでもできるわね」
微笑みがそのまま乗った声に、てめぇらが雑魚なだけだろと返そうとしたが、僅かな違和感に声が堰き止められた。違和感。否、聞き慣れたことでは、ある。
ただ、◎は学校では「勝己」と呼ばない。
二人は学校と家では互いへの振るまい方を使い分けている。つい先刻までは学校仕様だった。当然だ。ここは学校なのだから。
出久の存在の有無で使い分けていたのかと勝己は気付いた。お互い以外に誰もいなければ、学校仕様の振る舞いは◎にとっては無用の長物らしい。
自分達が外で親しくしていた時分を出久は知っている。故にその切り替えの線引きが少し意外に思えた。
「お前デク相手でも俺にめんどくせぇ他人のふりしやがんだな」
「うん。出久くんとは必要以上に話す仲じゃないし、他の子と同じ。伸藤くんにもそうしてる」
そこで◎はふと何かに気付いたように顔を上げ、勝己に声を向けた。
「勝己は違うのね」
◎も同じ部分で、勝己に対して意外に思っていたらしい。
平素なら、◎が誰と話していても絡みに行くことはない。保健室に入って、自分の手当てをして、◎たちの存在を無視して退室、というのが勝己の学校仕様だ。勝己から話しかけることもなければ、問いに応じて怪我を見せることもなく、素直に手当てを受けることもない。ましてや、トゲを抜いてやるから来い、なんて言うわけがないのだ。学校にいる普段の勝己なら。
勝己が椅子から立ち上がる気配がないので、◎も元々座っていた場所の椅子を出して腰掛けた。先ほどまでは出久がいた場所だ。突然誰かが来ても他人のふりができる距離感を持つため、隣には座らなかった。
どうせこれから戻ってもやることはほとんどない。校舎に生徒が戻り始めた頃合いに教室に帰ろうと思った。少しだけ暇を潰す間に話すのも悪くないだろう。ここには二人しかいないのだから。
「勝己って出久くんに対して態度違うわよね」
「無個性のくせに調子こいてっからだよ」
「そうなの?大人しそうに見えるけど」
「まァ地味だけどよ」
そこじゃねェんだよ、と勝己は内心で続けた。
出久が思っている通りに、勝己は出久と◎が一緒にいるとき極端に機嫌が悪くなる。
出久が◎に好意を抱いているからではない。
◎が出久を憎からず思っているからだ。
四歳以降のいつかの話だ。
知る限りの連中にはもう個性が発現していた。出久が勝己以外の子供からも「ムコセー」と馬鹿にされ始めた時期だったことははっきり覚えている。
当時はまだ、勝己は◎を家から連れ出して遊んでいた。
男の子たちから尊敬の目を向けられてる自分や、物怖じしない勇敢さを◎に自慢したかった。子供ながらに、◎にも自分を尊敬させたいという思惑もあったかもしれない。
そしてそれは大抵勝己の思った通りになって、みんなが勝己を誉める度に◎は「勝己はすごいのね」と嬉しそうに笑った。◎自身が誉められてるわけでもないのに、ひどく弾んだ声で。その◎の言葉と笑顔は、勝己を心から喜ばせた。
◎が勝己を認める度に、誇らしく、より強い自信を持った。
外で遊んでいた時、◎はほとんど勝己の隣にいた。
家に帰った後、友人の名前をあげながら話したことが何度もあるが、◎はその殆どをきょとんとして聞いていた。接点のない者は存在すら認識していなかったかもしれない。◎にとって、勝己以外の男の子はみんなモブだったのだ。
その時の場所やら、誰といたか、何をしていたか等、どうでもいいことは忘れた。
ただ、◎が転んで怪我をしたのだ。子供なら誰でもするような、膝を擦りむいた小さな怪我。だから大したことはないと軽んじていた。
血が出ている膝を見て座る◎に、バンソーコー貼ればすぐ治るだろ、と勝己は言った。◎は少し涙ぐみながらうん、と答えた。他の子供もいた手前気丈に振舞っていたが、泣いてしまいそうな◎にどうしていいかわからず、内心ではその状況に戸惑っていた。
これくらいで泣くなよ。そんなことを思った。それで終わるはずだった。
『◎ちゃん、大丈夫?』
心配そうに近付いてきた出久に、◎は顔を上げた。出久はおろおろと「早く洗わないとばい菌が入っちゃうよ」と言った。
◎は泣きそうだった顔を緩めて、少し嬉しそうに笑った。
『ありがとう…出久くん優しいね』
◎がそのたった一言を声にした瞬間、勝己は見知らぬ疎外感を感じた。
五秒にも満たない短い時間の中だが、この時、◎の意識から勝己が消えたのだ。
水道まで連れていこうとしたのだろう、出久は◎に手を差し出して、◎はその手を取ろうとした。
二人の手が触れる前に、勝己は「◎」と呼んだ。◎は手を止めて勝己の方を向く。恐らくその時、勝己の中には焦燥があったが、その時は自覚してなかった。ただ、その心情を周りに知られないように意識した覚えはある。情けない姿を見せてはいけないと思った。
『来い。しょーがねーからオレが治してやるよ』
いつもと同じような傲慢な態度で言うと、◎は嬉しそうに笑って「うん」と答えた。出久の手を取らないまま自分で立ち上がり、ひょこひょこと勝己の傍に寄った。◎の手を引いて、いつもより歩調を遅くして一緒に歩いた。
水道で傷を洗った後、少しだけ家に帰った。光己に救急箱を出させて、消毒液を吹きかけて膝に絆創膏を貼ってやった。その間、◎は言った。
『ねえ勝己。出久くんって優しいね』
それに対してなんと答えたのかは忘れた。
その後また一緒に外に出て遊んだが、◎を出久に近づけさせないように意識していた。
それから色々な理由を付けて、◎を外に連れて行かなくなった。
刹那的に蘇らせた記憶の後、勝己は保健室に入ったときの情景を思い出した。
勝己の感覚として、◎は自分の所有物のようなものだ。◎が一番親しいのは自分だし、◎の頭の大半は読書と家の中で埋まっている。家の中というカテゴリには当然勝己も含まれている。そして、それ以外のことは大抵どうでもいいと考えてることも理解している。
だからこそ、◎の中にそれ以外の存在が介入してくるのは不愉快だった。
「お前なんでデクといた」
「同じ班だから」
「他にもいんだろメンツは」
「手が空いてたのが出久くんだけだったの」
「そんなトゲくれぇ自分で抜けや」
出久といたことへの不満を一切収めない勝己に、◎は頭を起こし、疑問を浮かべて勝己を見た。何故こんなにも出久に対して否定的な態度なのだろうか、と。
「勝己って出久くんのことそんなに嫌いだった?」
「おめーがクソデクに甘ぇからヤローが調子こくんだよ。いいからあいつと一緒にいんな」
嫌いという感覚とは少し違うが、目障りであることに違いない。不愉快に思う理由を素直に言うつもりはなかった。適当な理由をつけ、勝己は◎にそう言い捨てた。
出久と勝己は同じクラスだし、知らないところで知らないことがあるのかしら、と◎は思考して、それ以上の追究は止めた。
「そうね…また同じ班になるかわからないし、一緒にいる機会はなくなるんじゃないかしら」
その声の中に、出久に対する執着は感じない。実際、勝己が思っているよりも二人は親密な関係ではない。
◎の中で出久は、子供の時から知っている他人、という感覚だ。これから仲良くなろうという意思もなく、敢えて遠ざけることもない。出久も必要以上には◎に近付かない。
顔と名前を知っていても、◎にとって勝己以外はやはりモブなのだ。
◎は時計を見上げ、椅子から立ち上がった。
「そろそろ戻るわ。トゲ抜いてくれてありがとう、爆豪くん」
「ん」
呼び方が爆豪くんになった。
勝己は手を払う動作をして返事の代わりにした。学校では見慣れた◎の姿に、勝己も感覚を取り戻す。無意識に湧いていた苛立ちは収まってきて、収まって初めて自分が苛立っていたことを自覚した。
保健室を出るまで、◎は勝己に目を向けなかった。勝己は戸が閉じるまでを見届けたが、頬杖をついてどうでもよさそうな態度の中へ、◎に対する執着を収めた。これが二人にとって定着した、学校での仕様だ。
少し経ったら自分も戻るか。そう思い、勝己は机上にある保健だよりを適当に手にとって時間を潰した。
四六時中自分を見てほしいわけではない。◎の根底の意識の中で、自分が一番であればいいのだ。
学校生活の中で◎のその根底の意識が左右されることはない。家族同然に共にいる勝己と、学級委員として当たり障りなく客観的に接しているモブを天秤にかけて、勝己が軽んじられるわけがない。それは絶対に覆らない事実として確信している。
勝己は小さく思考する。
◎が出久の呼び方をわざわざ変えないのは、親交が深くないからだ。わかってる。
あいつん中にデクはいらねぇ
時計を見る。◎が出てから長針が五分を過ぎたのを確認すると、勝己も立ち上がって保健室を出た。