羨望の蓋の下に。:女神たる所以。
問答の間に離していた目を手の平に戻す。
トゲってどこに刺さってたんだっけ、とぼんやり見ていたら、遠くの廊下から足音が聞こえてきた。だんだんこっちに近づいてくるから先生かなって思ったけど、違った。ノックと同時に勢いよくドアを開けて、入ってきたのは。
「失礼しまー………、…あ?」
かっちゃん。
ダルそうな声は途中で止まって、僕らを注視した。僕らがいることに一瞬唖然として固まってた。それから目がある一点に集中すると顔が険しくなっていく。怖い顔でズカズカと近づいて来るから相当焦った。え、なんで、ってすごい動揺しながらかっちゃんが見ているものを探して目線を追う。そこには、◎ちゃんの手を掴んでいる僕の手があった。
こっ、これもしかしてすごくやばいやつじゃ…!
出入り口から机までの僅かな距離を縮められている間に、僕は慌てて手を離した。
「何してやがんだてめェ」
「か、かっちゃん…!いや、これは、その!」
「あア!?ハッキリ言えやクソゴミが!」
「ひっ…!」
ヤバいヤバいヤバいすごいキレてる…!!
かっちゃんは僕が◎ちゃんと一緒にいる時、物凄く機嫌が悪くなる。他の人と◎ちゃんが一緒にいても気にしないのに、僕に対してだけ扱いが酷い。たぶん、無個性の雑魚って馬鹿にしてる僕が、大事な幼馴染の◎ちゃんと一緒にいるのが気に入らないんだ。
やっぱり僕は、◎ちゃんと話しちゃいけないし、触るなんて以ての外だった。少なくともかっちゃんの前では。
ポケットに突っ込んでいた両手を動かすのが見えたから、殴られるか爆破される!って思って身構えた。肩がすくんで、座ってるけど膝は震えた。
「爆豪くん、怪我したの?」
かっちゃんとビビって答えられない僕の間に、◎ちゃんの声が介入した。苛立ちを収めさせようとか、手が出そうなのを止めようとかそういう意思は声から感じられなかった。ただかっちゃんを見上げて尋ねた。かっちゃんは目つきだけで人を殺せそうな表情のまま◎ちゃんを睨む。
でも◎ちゃんの声を聞いた途端、顔の険しさは僅かに緩和した…気がした。それでも怖い顔だったし、◎ちゃんが意に介さない様子だったからそう見えただけかもしれないけど。結果的にとりあえず動きは止まってくれた。
「じゃなきゃ来ねぇだろが」
「どこ」
「…、ん」
◎ちゃんが尋ねると荒かった語気は収まっていく。少し嫌そうな息を漏らし、少し間を置いてからポケットに入れてた手を抜いて◎ちゃんに差し出した。会話の往復ごとにかっちゃんはイラつきを落ち着かせてるみたいだった。意図してなのか無意識なのかはわからなかったけど。
かっちゃんの手にはハンカチが巻かれていて、少しだけ血が滲んでいる。
「わっ…かっちゃん大丈夫!?」
「うっせェんだよ!ヨユーだわ!」
「洗った?」
「ああ。つーか先生いねぇのかよ」
「うん。消毒液って薬棚にあるかしら」
◎ちゃんは立ち上がって戸棚に向かった。迷いなく行ったから、薬をもらいには何度か来たことがあるみたいだ。かっちゃんは眉間を寄せたまま◎ちゃんを目で追って、怪訝そうに口を開いた。
「おい、お前自分のこといいんかよ」
「私は手にトゲ刺さっただけだから」
振り返らないまま棚のガラス戸を開けて中身を物色してる。探している間に「ああ、あった」と小さく言って、消毒液とかガーゼとかを出す。
その間にかっちゃんは、僕と少し離れた場所の椅子を出して腰掛けた。苛立ちをどこかに追いやられたみたいな顔で◎ちゃんの後ろ姿を見ていた。
僕は呆然と二人のやりとりを見ていたんだけど、視線に気づいたらしいかっちゃんがこっちを見た。途端、ギッと睨み付けてくる。肩がビクッと跳ねた。
「何見てんだコラ」
「な、なんでもないよ!ごめん…」
裏返った声で返して俯いて視線を外す。◎ちゃんはすごいな。怒鳴り声にも全然萎縮しないし、普通に会話できちゃうんだもん。僕はかっちゃんと目が合うだけでもビビる有様なのに。
かっちゃんが◎ちゃんには優しいってのも、あると思うけど。
◎ちゃんはかっちゃんの手に消毒液を吹き掛けた。「って」とかっちゃんの小さな声が聞こえたけど、◎ちゃんは構わず続けてた。
かっちゃんは、校門の外だけど敷地内の川の掃除をしてて、ゴミ拾いしてたら割れたビンで手を切ったらしい。二人の会話からそんな話が耳に入ってきて、僕は一人蚊帳の外だった。入っていく勇気なんてない。どっちに話しかけてもかっちゃんは怒る。
手持ち無沙汰にピンセットを撫でるくらいしかすることがなかった。その中で、この二人はやっぱり仲が良いんだな、と改めて思い知っていた。
「先生が来たらちゃんと手当てしてもらってね」
かっちゃんの手にガーゼとテープを巻いて◎ちゃんは言った。かっちゃんは「充分だろ」と言って手当てされた右手を見た。◎ちゃんが消毒液とか出したものをしまっていると、不意にかっちゃんが机上を見回して、やがて僕の手を見た。途端に少し嫌そうな顔を見せる。でもそのまま口を開いた。
「おいデク」
「なっ、何…?」
「それ寄越せ」
「え?あ…はい」
それ、というのが未だに僕の右手にあるピンセットを指しているのだとわかり、立ち上がって身を乗り出すとかっちゃんに渡した。かっちゃんは乱暴に受け取ったけど、僕の体温が移って温かくなってる金属のピンセットに更に顔を歪めて、ジャージのズボンで強めに擦った。う、汗拭いてから渡せばよかった…。
かっちゃんは再び◎ちゃんに顔を向けた。
「おい、こっち座れ」
「ん?」
「トゲあんだろ。抜いたるわ」
「いいわよ。怪我してるでしょ」
「だァからヨユーだっつってんだろ!クソデクより俺がやった方が早えに決まってんだ!さっさと座れや!」
◎ちゃんはかっちゃんと目を合わせて会話していたけど、そう強く言われた後にちらと僕を見た。そして、またかっちゃんに顔を向けて「じゃあ、お願い」と言って微笑んだ。
かっちゃんの前の椅子に足を進めて、座る前に僕に顔を向ける。
「出久くん、付き添ってくれてありがとう。爆豪くんにお願いしちゃうから、先に戻ってて」
「あ、うん…」
自分でも思ったより残念そうな声が出て、ハッと我に返って慌てて立ち上がった。僕がもっと◎ちゃんといたかった、みたいな受け取られ方をしたらまずい。
使っていた椅子を机の下に戻す時、ちらとかっちゃんを見たらやっぱり僕を睨んでいた。
違う、違うんだよかっちゃん。◎ちゃんと一緒にいたかったんじゃなくて、僕が早くトゲ抜ければよかったのに途中で投げ出すことになって申し訳ないなって声なんだよ。
内心でそんな声にも出せない言い訳をして、僕はいそいそと保健室の入り口に向かった。たぶん、僕がかっちゃんにビビってるから、◎ちゃんは気を遣ってくれたんだと思う。その配慮は嬉しかった。だけど、ないがしろにされているような虚しさも感じた。
◎ちゃんはないがしろにしているつもりはないだろうし、優しさをそう受け止める僕が捻くれてるだけだとわかってはいたけど。
立ち去ろうとする僕の背後からは、「これ正面の角度じゃ無理だろ。横来い」って言ってるかっちゃんの声が聞こえた。
かっちゃんすごいな。女の子の隣に座った状態でトゲ抜けるのか…緊張しないのかな。でもかっちゃんってなんでもできるしな。それに、相手は◎ちゃんだし。
廊下に出て保健室の戸を閉めるとき、中にいる二人を見た。
かっちゃんは隣に移動した◎ちゃんの腕を肘の辺りで固定して、手をしっかり握ってトゲを抜こうとしていた。二人の距離はお互いの髪が触れてしまいそうなくらいにすごく近くて、僕は見てはいけないものを見たような気になって急いで戸を閉めた。胸がバクバクして、自分の鼓動が耳まで響いてきそうだった。
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