羨望の蓋の下に。:課外授業から。






 なんでこうなったんだっけ、と熱くなる背中を感じながら思う。
 僕の手の中には◎ちゃんの柔らかい手があって、何度もピンセットを当てた手の平は真っ赤になってしまった。すぐ終わると思っていたのに、もう何十分こうしているだろう。
 ◎ちゃんはずっとじっとしていたけど、不意に口を開いた。

「出久くん、少し休憩していい?痛くなってきちゃった」

「あっ!ご、ごめん!」

「ううん」

 ◎ちゃんは手を引くと、ブラブラと振ったり反対の手で伸ばしたりストレッチした。さっきまで僕が支えてずっと固定していたからだ。時計を見ると保健室に来てから三十分は経っていた。
 僕はすごい手汗をかいていた。当然だ。僕はこの状況に緊張している。

 だって、仕方ない。好きな女の子と二人っきりなんだから。







 僕と◎ちゃんはクラスが違うけど、学年ごとの課外授業班はクラスの垣根を超える。今日は学校全体で校内清掃をする日だ。
 僕らの持ち場は学校の裏庭。班の中で更にグループを分けて、広い範囲を手分けして清掃していた。

 まとめた落ち葉とかをこれからゴミ捨て場に持って行こうという段で、竹箒を片付けていた◎ちゃんの手にトゲが刺さった。僕らの班には保健委員がいなくて、他の班員はまだ手が空いていない。その状況を見て、◎ちゃんは僕に声を掛けた。

 その時点で僕は心臓バクバクだった。あとで気付いたけど、別にこの程度の怪我だったら付き添わなくてもよかったんじゃ…。だけどその時はそんなことに気付く余裕すらなかった。察してほしい。本当にドキドキしてたんだ。

 しかも保健室に先生はいなかった。
 え?二人きり?嘘でしょ?とか考えて僕は棒立ち。◎ちゃんもどうしようと考えてたみたいだけど、保健室に入るとペン立てからピンセットを漁り始めた。そして、トゲが刺さってるのは利き手だから、と僕に差し出す。
 抜いてくれる?と問われ断れるはずもなく、僕はしどろもどろに◎ちゃんからピンセットを受け取った。

 当然、手に触る。僕は女子の手を握ったことなんてない。トゲを抜くためのピンセットを持った手は、みっともなく震えた。








 ◎ちゃんは赤くなった手の平を見ている。僕が苦戦した甲斐なく、トゲは三十分前と変わりないまま皮膚の中に埋もれている。申し訳ない。
 僕もずっと同じ姿勢でいたから左手で右手を揉んだりしたんだけど、両の手はじっとりと湿っている。うわ、手汗やばい。

「あ、あのさ、やっぱり先生待った方がよくないかな?」

 正直、もう平静を保っているのが限界だ。いや、ずっと顔熱いし平静なんて最初っからないかもだけど。いやだって女子ってだけでアガるのに、相手は◎ちゃんなんだよ。本当ならきっと僕なんかが触っちゃいけないし、こうして話してることすら本当すみませんって感じで、悪いことをしている気分になる。

 綺麗な純白の布に、皮脂がついた手で触れて汚すような。日向の場所で日焼けして少しずつ劣化させるような。僕が◎ちゃんに触れるってことはそういうことだ。◎ちゃんは、特別なんだ。



―――(まるで女神様でも崇拝してるみたいだ)



 …どうして僕の中で◎ちゃんがそんなに清廉なのか。そんなの◎ちゃんがそういう人だからってことに他ならない。
 けど、僕が抱いてるこの印象が大袈裟だっては自分でもわかってる。だって相手は同い年の普通の女の子だ。どうしてこんな風に考えるようになったのか…。

 だけど、彼女を意識したきっかけはあった。まだ僕たちが一緒に遊んでいた時分に。
















 ◎ちゃんは、かっちゃんが連れてきた女の子だった。
 ほっそりしてて、大人しくて、絶対にかっちゃんから離れない可愛い女の子。

 初めて二人で公園に来た時、その手はかっちゃんに引かれていた。あいつは目ぇ離したらすぐどっか行くってかっちゃんは言ってたけど、二人は常に隣にいた印象がある。
 確かに、◎ちゃんは不意にどこかに行こうとすることがよくあった。何かに目を奪われて歩き出すたび、全部かっちゃんが引き止めて自分の傍に連れ戻す、というパターンが出来上がっていた。
 勝手にどっか行くなっつったろ!と言うかっちゃんに、◎ちゃんはごめんと素直に謝る。どうしてか、その時◎ちゃんはいつも嬉しそうに笑ってる。
 たまにそれを忘れてまたどこかに行きそうになる時があったけど、そうして何かに関心を奪われない限りは、かっちゃんから離れようとしなかった。かっちゃんが立入り禁止の獣道に進もうとすると、勝己待って、とかっちゃんを追い掛ける。そしてかっちゃんはそれを見ると満足そうに笑って、早く来いよ、と楽しそうな声で言った。

 だから、◎ちゃんはかっちゃんの妹だと思ってたんだ。



 だって、
 かっちゃんが遊び相手の誰かと手を繋いでいるのなんて初めて見た。

 ◎ちゃんと遊ぶ時、かっちゃんは「ついて来いよ◎!」と言う。僕はかっちゃんに、ついて来いよ出久、なんて言われたことない。他の子にそう言っているのも聞いたことない。かっちゃんが「行くぞ!」って言えばみんな勝手について行ったからかもしれないけど。

 僕らを後ろに従えさせることはあっても、誰かを常に隣にいさせることはなかった。

 ◎ちゃんが「勝己はすごいのね」と言うと、かっちゃんはとても誇らしそうにしていた。僕らがかっちゃんを称賛した時よりも得意そうで嬉しそうだった。



 恐れ知らずのガキ大将は相変わらずだったけど、◎ちゃんと一緒にいる時のかっちゃんは、そうして何かが違っていた。その相違をなんか変だなと小さく思って、結果的に僕はかっちゃんの意外な一面として受け止めていたと思う。
 妹相手だったら、僕たちに対してのリーダーシップよりも、お兄ちゃんって感じが出るのかな。一人っ子の僕はそう想像した。

 かっちゃんは強くてかっこいいのに、妹の面倒もちゃんと見ててすごいなぁって思ってた。











 そうじゃないとわかったのは、小学校に上がって◎ちゃんの名字が「●」だって知った時だった。
 あれ?じゃあ、◎ちゃんはかっちゃんの妹じゃないんだ。僕らと同じで、幼馴染だったんだ、ってその時初めて知った。





 ………、あれ?



 じゃあ、◎ちゃんと僕たちの違いって、なんだ?























「出久くん、こういうの苦手だった?」

 思考に耽っていたのを、◎ちゃんの声で現実に引き戻される。

「あっ…う、うん、あんまりこういうのしたことなくて、ほら、時間もかかってるし、痛そうだし、僕がやるよりは先生にやってもらった方がいいんじゃないかな。あ、でもいつ戻ってくるんだろう…。行った方が早いのかな」

「うーん。私もそれ考えてたんだけど、戻ってくるのを待つのにも探すのにも時間かかるなら、出久くんにお願いした方がいいかなって思ってたの」

「あ、そうなんだ…」

「うん。でも、人のトゲ抜くのなんてあんまりないことよね。無理させた?」

「い、いや!全然、全然…!むしろ僕が心配してるのは◎ちゃんに負担かけてないかなってとこで…あっ、いま手ェ触ったら僕すごい手汗かいてたんだ。ごめん、アレだったら直接触らないようにティッシュとか当てたりするけど」

「やだ、そこまでしなくていいわよ。確かに手汗すごいけど」

「あう…」

 僕の下手くそなトゲ抜きとか、尋常じゃない手汗とか、普通だったら女子じゃなくても嫌になりそうなのに、◎ちゃんは朗らかに笑った。責めることなく、嫌な顔もせず、可笑しそうにそう返した。


 ◎ちゃんは優しいし、可愛い。そんなこともうずっと知ってるのに、なんだか僕はまた◎ちゃんに心惹かれた。胸が熱くなる。久々に話したからかもしれない。僕でなんとかできるなら、そりゃあ、してあげたい。


「あの…、◎ちゃんが嫌じゃなかったら…その、本当、僕でよければ、だけど」


 先生が来るまでの間、僕でよければトゲ抜くの頑張るよ。そういう意味の言葉を言おうとしたのに、声にするとうまく繋がらなくて、途切れ途切れにそう言った。
 ◎ちゃんは、お願い、と言ってまた手を差し出して来た。僕はジャージで手汗を拭いて、それからまた差し出された手を下から握る。手のひらの中に◎ちゃんの手の甲の感触がある。…柔らかい。小さいし、すべすべだ。女子の手ってすごい。改めて緊張する。首まで熱くなるのを感じた。












 沈黙の中でトゲ抜きに地味に奮闘していると、不意に◎ちゃんが喋った。

「出久くん優しいわよね」

「はひぁっ!?」


 その虚を突いた言葉に僕は過剰に反応した。自分でもびっくりするくらいの変な声が出たし、ボンッて出そうなくらい瞬間的に顔が熱くなったし、ピンセットは跳んでどっか行った。

 優しい…!?優しい!?わああああ嬉しいけどお願いだからそういうこと言わないで!なんでさらっと言えるの!あ、待って、いま絶対に顔が変だから!見ないで、見なっ…ああ見られた!

 机の端に跳んだピンセットに慌てて手を伸ばして手繰り寄せる間、◎ちゃんは緩く握った手で口元を隠しながら肩を震わせて愉快そうに笑った。ああ、なんだろう…すごく女の子だ …。当たり前だけど。

「ふふ、すごい驚き様…顔真っ赤よ。言われたことない?」

「な、ない…」

 お母さんからしか、と内心で付け足す。

「うそ、本当?私、子供の時からずっとそう思ってたけど」

「そ」



 う。



 声が続かなかった。
 だって、本当に意外そうに言うんだもの。

 ◎ちゃんは、かっちゃんとあんなに近くにいるのに、僕のことも見てくれてたのか。
 何に対して優しいって言ってくれたのかはわからないけど、◎ちゃんの中で僕はちゃんと認識されてたってことが嬉しかった。かっちゃん曰く、僕なんて道端の雑草なのに。

 きっと、◎ちゃんのことが嫌いな人なんていないんだろうな。きっとヒーローになっても、…





(あ)


 一瞬だけ現実に戻って、思考を改める。


 そうだ。
 ◎ちゃんはヒーローを目指してないんだ。



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