疑似喪失。:蝕む静寂。






 出久と話したあの後、勝己はその足で病院に来た。
 面会受付を済ませて「●◎様」の名札が掛かった病室に入る。


 夕暮れの病室はやけに静かで、開けた窓から入る風が緩やかにカーテンを揺らしている。勝己の掻き乱れた心を嘲笑うかのように長閑な空気だった。

 横たわる◎の姿は、昨日と一昨日と変わっていない。病室に入った時から、そんな気はした。
 サイドテーブルに載った見舞いの品が昨日より賑やかになっているだけだった。


 リンゴと本とメモ。
 本を置いたのはおそらく◎の父で、剥いたリンゴを皿に載せてラップをかけたのはおそらく光己だ。◎の母はこんなに綺麗に剥けない。昨日と盛り方が違うから、勝己が来る前に来て取り替えたのだろう。◎が好みそうな外国写真のポストカードに「起きたら電話して」と書いてあるのは◎の母の字だ。リンゴの皿に立てかけてある。本とメモは昨日まではなかった。
 ◎の両親は普段放任しているくせに、土曜は病室に泊まったらしい。二人ともひどくぐったりしていた。母親の目は腫れて充血しているのを覚えている。今は自宅で休んでいるだろうか。



 パイプ椅子に腰掛けて、包帯が巻かれた腕と顔を見る。昨日も様子を見に来た。すぐ起きると思ったからだ。

 だが◎は起きなかった。丸二日眠りっぱなしだ。医者が命に別状はないと言っていたからすぐ目覚めるものだと思っていたのに。





 頬を柔らかい風が撫でる。
 溜息すら出ない。





「起きろよ…」





 口の中で呟いた声は、果たして確かな言葉として出たのか。







―――明日も起きなかったら。
―――もし、ずっとこのまま………。







 過ぎった思考を頭を振って消す。そんなこと考えんなと、勝手に湧いた他人のような思考に怒りをぶつける。
 ………そんなことあるわけねぇだろ。こいつがいなくなるなんて、ンなことあるわけねぇ。そんなん想像したことねぇんだよ。そんな必要もねえ。したくねぇ。させんな。

 抗うような思考に、また嫌なイメージが浮かぶ。
 掌で額を抑えて、堪え切れない呻きが漏れる。



 ―――フザけんな。



 食いしばった歯はその言葉を塞いだ。



 勝手に知らねぇところで大怪我しやがって。寝言一つなくいつまでも寝腐りやがって。てめぇのせいでこっちは。



 思考が絡み苛んでいく。今のこの状況を正確に理解しているのに落ち着くことができない。
 …なんでこいつが。

 幾度となく巡った疑問は、煙のような不安を勝己に吹きかけた。また意に反して視界が滲んでいく。うるせえ。邪魔だ。消えろ。殺すぞクソが。






 痙攣するほど強く握った拳は、震えそうな呼吸を押さえつけてくれなかった。





 改竄の記憶が閃光のように過ぎる。

 ―――その記憶の風景に◎はいなかった。







「っ……ぁ…」






 ガタン!

 パイプ椅子は立ち上がった勝己の膝に押し出されて傾き倒れた。

 鞄を置いたまま足早に病室を出た。スライド式のドアの開閉音が強い風のようにゴォッと大きく鳴り音を立てて跳ね返る。すれ違った誰かが勝己を目で追ったが、すべて無視して通り過ぎた。見られたことすら錯覚かもしれなかった。


(………クソッ…、クソ…!)

















 外は茜が差していた。
 正面玄関を数歩出た後、少し歩調を緩める。病院独特の匂いや空気から離れれば多少マシになるかと思ったが、気分は大して変わらない。いつまでも張り付いた思考が鉛の不安を落としたままでいる。

 好きでいつまでもこんな気持ちでいるわけではない。暗い気分にはうんざりしている。手で払って簡単に散るようなものなら、とっくにそうしていた。

 少しでも気が紛れることを期待して、そのまま道路を渡り、病院の向かいにある大きな公園に入った。芝生の広場と石畳の道と植木がほとんどで、数カ所にベンチが点在していた。病院の敷地内であるようでパジャマ姿の人やら車椅子に座って看護婦に押されている人やらがいる。遠くに遊具もあったが、夕暮れの中で遊ぶ子供はいない。


 ぽつぽつと見える人は、皆、病院に向かって歩いてくる。その流れに勝己だけが逆らうように、何人かとすれ違った。


 広場にあるベンチに座り、何か他のことを考えようと頭を巡らせる。しかし結局は、ここがあるべき場所だろうと何かに手を引かれ、◎への思考へ緩やかに連れ戻される。樹海で方向感覚を失って同じ場所を何度も歩かされているようだった。
 拳に力を込める。膝に肘を置いて深く俯き、拳を額に当てて震える息を零した。
 どんどん遠のいていく人の声や気配が、自分とは別の世界のことのように思える。

 仄暗い夕刻の闇が深くなっていく。

 暗い渦が、勝己を中心にして黒い蟻地獄を作っていた。

















(怖ぇ)















 それは、心の中ででもはっきりとした言葉にしたくなかった。



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