疑似喪失。:ヒーローの本分は。
ホームルーム終了と同時に、勝己は鞄を持ちいち早くドアに向かった。
「あっ、かっちゃん!」
「うるせぇ話しかけんな」
出久は慌てた声を発してリュックを背負いながら後を追う。それに返す声は静かだった。
教室に残っている他の者も勝己の普段とかけ離れた態度に気付いていた。好奇心の中に不安を垂らして、出て行った二人を目で追った。
何かあったのだと確信できた。何もないのに勝己がこんなに大人しいとは考えにくい。平素の粗野で乱暴な雰囲気は片鱗すらなかった。周りをクソゴミ扱いするような暴言すら。
あったのだ。きっと、彼の自尊心が傷つくような何かが。
十中八九勝己は出久の助けを受けないと承知している。それでもなんとかしたいと思う。緑谷出久はそういう性分の男なのだ。自分に何ができるかわからなくても御節介は蓋をしても溢れる。そもそも蓋をするつもりもなかった。
「かっちゃんってば!」
明らかに聞こえる距離と声量だったが、勝己は聞こえていないかのように進んだ。二度目以降の呼びかけには返事をしない。出久は勝己に追いつけるように歩調を早め距離を縮めていく。
本当は立ち止まって話をしたかったが、勝己は足を止める様子がない。ならばそのままでと出久は言葉を続けた。
「あ、あの…!土曜さ、地元で敵…出たよね」
瞼がぴくと震えた。それをなかったことにしようと閉口の中で奥歯を強く噛む。思い出したくないことがまた頭に降りかかる。それは一度頭に張り付くとなかなか消えず、しつこい余韻を残していった。
勝己は答えない。無視して歩を進め続ける。
出久は尚も足早に後を追う。勝己の様子に気づかないまま、本題にさしかかっていない問い掛けを続ける。
「今日、その、元気ないから…もしかしてって思ったんだけど、土曜の事で、なんかあっ」
続くはずの言葉は、振り返った瞬間に胸ぐらを掴んだ勝己に阻まれた。うっと息を詰めて、勝己を見ると、出久は瞠目した。
「うッせぇっつってんだよ!!!」
(―――、)
吐き捨てる声はひどく苛立っていた。強い拳に襟が絞られて苦しい。言葉も行動も過激且つ荒っぽい。
…なのに、どうしてこんなに。
眼に小さな光があるのを出久は見た。
涙が溜まっている時にそうなる反射光だった。
勝己の表情は歪んでいて、出久は閉口して息を飲む。それは涙を堪える表情だ。そう思うと同時に、なんで、違う、そんなはずない、と静かな衝撃。動揺は溢れて混乱を呼んだ。
―――だって、目の前にいるのはかっちゃんだぞ。そんなわけ。
初めての戦闘訓練で初めて出久に負けた日、涙ぐみながらここで一番になると宣言した時を思い出した。だけど似て異なる。あの時の勝己には強い意志があった。今はそうじゃない。それは原因と、勝己の意識の方向が、出久の知るところにないからそう思うのだろうか。
生きるために必要な酸素や食料を全て剥奪されて、どこにも明確な救済措置がない。日毎に飢えざるを得ない。その危機を自力で回避する術がない。
足がギリギリつかない宙に吊るして、地面に届かない己の足に耐えられず発狂する拷問があることを不意に思い出す。
今の勝己の垣間に、その危うさを見た。
勝己のあらゆる心情は行き場をなくして、八つ当たりのようにビリビリとした緊張感を零していた。指先に触れている空気の感触を錯覚する。一触即発と言葉が浮かぶ。
………なのに、軽く押してしまえばすぐに倒れてしまうような危うさを感じた。そんなことあるはずがないのに。
「なんかあったとして、てめェになんとかできんのかよ…!ああ!?無責任に温いこと言ってんならブッ殺すぞ!!!」
出久の制服が引きちぎれそうな勢いで、勝己は手を払った。そのまま出久に背中を向けて再び歩き出す。何かあった?なんて、もう訊くまでもない。
これ以上の発言は逆鱗に触れるかもしれない。だが勝己が一人で苦しみ続けてしまいそうな気がして引き下がることができなかった。
こんなに脆い印象を受けてしまうほど、それを隠せないほど、何をそんなに追い詰められているのかと。
「なっ、なんとか出来ないかもしれないけど、でも放っとけないよ!」
勝己はそのまま進んでいたが、歩調を緩めてやがて止まった。出久の言葉と、ずっと頭を占めていることが混ざる。ぐるぐると。溶け欠けのアイスクリームが混ざるように、それはドロドロと遠慮なく混ざり、分離した色の渦を作る。
ポケットの中で強く拳を作った。その力は平素より遥かに弱い。
発した声は、弱い風に攫われてしまいそうだった。
「じゃあ、てめぇが代われよ」
「え?」
「消えろっつったんだよクソが!ついて来やがったら殺すぞ!!」
首だけ僅かに横に向けて出久に言い放つと、勝己はまた歩き出した。出久はまた一歩だけ勝己に向けて足を進めたが、それ以上は追いかけられなかった。
振り返らなかった勝己の顔は、見えなかった。
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