対岸。






(お粗末/一松/カラ松/コンプレックス/学生時代/腐要素なし)



 僕はこの世界に絶望していた。救いは求めていなかった。何故なら、救いとは大衆に向けられる安堵であるからだ。僕は他人に歴然とした差を感じている。他人が楽しいと思うものを僕は心から受け入れることができなかった。僕が心から愛するものを、周囲は興味のない目で遠巻きに眺めていた。僕と他人の間には、圧倒的な距離があるのだ。
 あちら側の大きなビルには大衆が賑わい、寂れたビルの上で僕はそれを眩しいと思いながらも羨望の眼差しで見つめている。ここには誰も来ない。僕もあちら側に行きたい。だけどこの距離はあまりにも遠い。僕があのビルに行くためには、地面が見えないくらい高いこの場所から、えいと谷を飛び越えなければならない。たかだか数メートル。向こう側に誰がいるのかが見えるくらいに近い。その程度の距離でも、僕の足では飛ぶことができない。死ぬ気にならなければ。自分を殺さなければ向こう側にいけないのだ。そのせいだろうか。寂しさを感じながらも、羨ましさを拭えないながらも、僕は向こう側へ行くだけの価値を見出すことができないでいた。ただ立ち寄れる程度の場所なら気軽に行っただろう。だけど、あそこに行ったら二度と此処には戻ってこられない。自分を失うとはそういうことだ。そして、この場所を飛んだとしても、あそこに行けるとは限らないのだ。僕が向こう側の人達へ強い憧れを抱いて飛び出して、谷底でトマトのように潰れても、誰も気にも留めないだろう。熟れすぎた果実が地面に落ちる程度のことだ。道端の果実が蟻に集られてもわざわざ足を止めることはない。他人への関心なんて所詮そんなものだ。
 袖が触れ合う縁もなく、ただ僕がそこから消えるだけ。誰にも気付かれずにひっそりと消えるだけだ。それはとてもとても寂しくて、怖いことだった。
 この孤独は、本を読んで擬似的に感じたことがある。きっとこのように感じるのは僕だけではないのだろう。それなのに、僕と他人の間に大きく開かれているこの距離が埋まることはないと僕は確信している。孤独とは、孤独というグループなのではなく、個があちこちに点在するものだ。僕が立っているような寂しいビルは、立ち寄れない場所に山程あるのだ。僕以外の孤独な人と出会っても、理解し合えることはできないだろう。孤独な人は他人と解け合うことができないと信じている。同一ではないから孤独なのだ。
 様々な感情と葛藤が渦巻く。僕は此処以外に行く場所を見つけられない。羨望と嫉妬を抱いて、ものぐさに、孤独に自分を愛するしかないのだ。
 これから一生そうして生きていくしかない。これまでずっとそう生きてきたのだから。

 そこまで書いて、松野一松は鉛筆を止めた。
 一松はふとした時、他人との温度差に思考を繰り返していた。成長すると物事が見れるようになる。物事が見れるようになると冷静な目を持つようになる。冷静な目は客観視を可能にして、客観視は主観的な人間との距離を持つ。客観視しながらも主観的な感情で笑う人たちと付き合える器用な人もいるようだが、自分には到底できない芸当だと一松は思っていた。
 他人を完全に理解することは不可能だし、仮に理解ができたとしても心から同調することは難しい。そんな中でみんなクラスで協調性を持ち、仲のいい友人を作り、学校の外でも遊んでる人達がいる。すごいことだ。きっと他人との温度差を感じていないか、感じていても気にしていないか、うまく隠しているのだろう。そのどれもが一松にはできなかった。
 どうしてこんなことを書き始めたかというと、暇だったのだ。一松のクラスを担当している数学教師は口調が平坦で説明が長くわかりにくい。大半の生徒が居眠りをしているような授業だ。大抵のことは教科書を読めば理解できたので、一松は授業を聞き流しながら、自分の感情を整理するためにノートの一番後ろに落書きするように文章を連ねている。それだけのことだ。誰かに知ってほしいメッセージでも、敢えて残す記録でもない。そうすることで自分のことを客観視して、冷静に見つめることで不安を払拭しようとしていた。ただそれだけのことだが、このノートを誰かに見られるわけにはいかないとは思っている。
(まあ、見る人なんていないだろうけど)
 一松には友達がいない。交流がある同い年の兄弟たちも、わざわざ人のノートを借りてまで勉強に勤しむような真面目なやつはいない。体裁を気にする末弟や一つ下の弟は自分で学習する賢さがあるし、一つ上の兄はそれなりに自立して他人を頼る傾向がないし、一番上の二人は0点でも笑っていられる馬鹿だから論外だ。だから提出の時に一番最後のページを破り捨てれば問題はない。
 催眠術のような授業を聴きながら、ぼんやりと頭の中から少しずつ文字を取り出して紡いでいく。数学の度にそんなことを繰り返して、ノートは一松の吐露を延々と引き受けていた。

「…あれ」
 ない。
 2時間目の移動教室の授業から戻り、次の数学の準備をしようと思ったらノートがなくなっていた。机の中と鞄とロッカーをひっくり返して探したが、数学のノートは見つからなかった。
(マジか落とした…!?)
 移動教室の時に紛れて持って行って、その時に忘れたのかもしれない。そう思って一松は教室を飛び出した。万が一あれが誰かに見られてしまったら、絶対に引かれるに決まっているのだ。
 廊下に出た瞬間、盛大に誰かとぶつかった。衝撃で一瞬息が圧迫され、二、三歩よろめいた。相手も男子だ。強くぶつかったのに彼は踏み止まったようで、ぶつかった場所からほとんど動いていない。一松が噎せると相手は心配して声をかけてきた。顔を上げると、兄弟の中で一番体が強い兄だった。
「大丈夫か、一松」
「うん…カラ松兄さん、ごめん」
 ぐらついている視界が落ち着くのを待っていると、ふとカラ松の手にひどく見覚えのあるものが見えた。一松が探している数学のノートだ。一松は瞠目して、動揺と焦燥を感じた。何故。目が離せなくて凝視し続けていると、カラ松が一松の様子に気づき、気まずそうにノートを差し出した。
 気まずそうに。
「す、すまない。今日俺のクラス数学の小テストで、一松のノートは見やすいし綺麗にまとまっているから借りたんだ。もう、移動教室でいなくなってたから、悪いと思ったけど無断で…」
 言っていることは理解しているが、体が動かなかった。こいつ馬鹿だからやりそうだなとも思ったが、事態が信じられなかった。
 一松は理解してしまった。カラ松はあれを見たのだ。
「見るつもりは…」
 見られた。
 途端に足を上げてカラ松を思い切り蹴る。流石にカラ松はうっと苦しげに声を漏らしよろけた。一松は加減をしなかった。痛そうだ、程度のことは思ったが、人の物を勝手に持っていくこいつが悪いのだ、と一松は己を正当化した。いや、正当化ではない。そもそも、今の状況は完全にカラ松が悪である。少なくとも一松の中では。
 引ったくるようにノートを奪った。
「勝手に持ってってんじゃねーよ!!」
 怒鳴り散らし、一松はカラ松の横を通り抜けてズカズカと進んだ。声に驚いた生徒が何事かと歩く一松を見たが、一松はその一切を無視した。荒れている一松に声をかけようとするものは誰もいなかった。
 誰もいない場所に行きたい。屋上か、校舎裏か、裏庭か、空き教室、どこでもよかった。人がいなければ。
(見られた)
 怒りの中に、悲しみが膨らむ。他人からしたら大した内容ではないのかもしれない。しかし一松にとっては心の中を見られるのは重大なことだった。
 一松は屋上に向かうことにした。誰かがいれば引き返して場所を変えればいい。三階から屋上に続く階段は静まっておりいくらか落ち着く。これで誰もいなければ完璧だ。そう思って開けた扉の先には、コンクリートと青空しかなかった。周りを見たが誰もいない。出入り口になっている突き出た壁に寄りかかり、腰を落としたところで始業のチャイムが鳴った。当然ながら戻る気分ではない。まともに授業を受けられる気がしないし、一松の怒声を聞いたクラスメイトから好奇の目を向けられるのは目に見えている。そんな中で何事もない顔で耐えられるほど一松は神経が太くない。そう自覚している。
 いっそ泣いてすっきりしたい気分だったが、面白いくらい涙は出ない。いつしか悲しみが胸へ喉へ頭へ上ってきても、涙は出ない。涙腺が緩む気配もない。今は出るべきではないとでも言いたげだ。こんなにもどうしようもない状態だというのに。一松は呆然として、視界に映る空を見るともなくただ眺めていた。教室に戻れない。家に帰るのが怖い。カラ松は怒っただろうか。兄弟に言うだろうか。みんなに軽蔑されてしまったら、どうしたらいいのだろうか。あれはみんなを受け入れられない訳ではないのに。嫌いな訳ではないのに。そう解釈されてしまったら、弁明する言葉は何一つ出ない。そう思われるようなことを一松はずっと抱き続けていた。
 大衆がいる大きなビルには自分の兄弟もいる。おそ松は毎日楽しそうで、カラ松は部活で生き生きしていて、チョロ松は学級委員でみんなを纏めていて、十四松は一生懸命に野球の練習をして、トド松は友達がたくさんいる。みんなの輝きを誇らしく思いながらも、それに対して、何もない己に虚しさを感じてしまう。みんながいる場所に行きたくても、一松には行けないのだ。
 自分の場所を肯定することは、自分以外の場所を否定することだ。兄弟たちにそう思われるのが一松は怖かった。
 その後の授業もサボり、昼休みの時は流石に空腹に負けて教室に戻った。戻り道で遠巻きに一松を興味深そうに見る生徒が何人かいる。冷静さを取り戻した一松はそれらにいたたまれなく思った。教室に入っても特に注目されることはなかったが、「あ、戻ってきた」と言う女子の小声と、不穏に浮き足立った雰囲気にそれ以上その場に居続けたくなくて弁当が入ったカバンを持って教室を出た。
(…帰っかな)
 カラ松と顔を合わせても嫌だし、と階段を下る。すると下から何人かの生徒がぞろぞろと階段を上ってきた。間が悪いことにその中にカラ松の姿を見つけてしまい、一松は動揺して止まった足を慌てて引き返した。カラ松も一松の姿に気づいたようで、隣の友人にすまんと言って教科書類を押し付けて二段飛ばしで階段を駆け上がった。
「おい、一松!」
 カラ松の方が足が速い。一松は逃げきれなくて腕を掴まれた。そのまま廊下を突き進んで、人気のない突き当たりで止まるとカラ松は一松を見る。一松はカラ松を不機嫌そうに睨んでいる。
「一松。ノートを黙って持って行ったのは悪いと思ってる。でもあれ、ものすごく痛かったぞ」
 知るか、と一松は心の中で吐き捨てた。そのことについて一松は謝るつもりはなかった。よくない感情が迫り上がってきた。
「なに、説教するつもりでここまで連れてきたの。じゃあ俺も言わせてもらうけどさ、兄さんには人の物を取っちゃいけないって常識もないの。悪ガキの時のイタズラ根性が直ってないの。それとも弟のものだから兄は我が物面で持って行ってもいいとでも思ってるの。それで自分には非はないと思ってる?元はといえばお前がまともに勉強してないのを俺に頼ってきたくせに、偉そうなこと言ってんじゃねぇぞ。被害受けてるのはこっちだ」
 低い声で畳み掛けて言うと、カラ松は答える言葉が見つけられずに黙った。カラ松が「ごめん」と言ったのに対して、こいつちょろすぎるだろと一松はイラついた。一松の印象として、心が弱い人間は他人の秘密を守れないイメージがあった。こんな奴に心の内を知られてしまったのだ。見ようと思えば誰でも見れる場所、秘密が書いてあるとは微塵も感じさせないノートに、心の内を書いていた自分の管理については考えないことにしている。前提として、自分たちの兄弟、特にカラ松を含める上の兄二人は馬鹿なのだ。他人のノートを借りてまで勉強をするなんて夢にも思わなかったのだ。
「なあ、一松。別に俺はなんとも思ってないぞ?」
 そんなわけないだろ。他人がなに考えてるのか知って、何も思わないなんてある訳ない。しかも両親も兄弟もいて大きな問題もない家庭。しかも自分の兄弟だ。なんとも思わない訳ない。少なからずショックを受けるはずだ。本当に何も思ってないなら、はじめからカラ松は一松の孤独感を知っていたか、ショックを受けるほど一松に関心がないのだ。いずれにせよ、そのことは一松にとって軽くやり過ごせることじゃなかった。
 なんとも思ってないと言われて、なんて返事をするのが正しかったのだろうか。本当に?よかった。安心した。そう言えばいいのだろうか。それが人付き合いに於ける模範解答と言うならば、そう思えない自分はやはり人と関わる能力に欠陥があるのだ。一松はそう思った。
 目の前にいる兄への言葉を考えあぐねている間に、カラ松は続けた。
「何か悩みがあるなら相談してくれ。兄弟じゃないか」
 心配そうに言うカラ松に、こいつやっぱり優しい奴だなと思うと同時に絶望を感じていた。
 一過性の悩みで孤独を感じているのではない。これは一松の本能に植え付けられている思考と生き方の問題なのだ。一松とカラ松は六つ子だ。同じ体を分け合って生まれてきた兄弟だ。元は同じなのに、一松が日々の些細なことに一喜一憂しては悩んでいる中で、カラ松は日常に何の疑問も持たないまま明るく楽しく生きている。その歴然とした差は、他人に対するコンプレックス以上に大きかった。きっとカラ松には一生わからない。どうしてこいつと兄弟なんだろう。そんなことまで思った。
 大衆がいる大きなビル。明るくて賑やかで眩しい憧れの場所。そこにはもしかしたら、一松がいる場所とを繋ぐ見えない橋があったのかもしれない。ただ気付かなかっただけで。それが全部崩れた気がした。やっぱり毎日を楽しく生きている人たちと自分の間には、途方もない溝がある。カラ松の言葉は一松にそれを思い知らせた。
「うるせえよ」
 腕を振りほどき、捻り出すように出した声は震えていた。それが怒りなのか悲しみなのか一松にはわからなかった。
 一松は一刻も早くカラ松から離れたかった。声も聞きたくない。触れられるのも我慢ならない。今は同じ空気を吸うのだって無理だ。
「おい、いちま」
 振り返った一松を見てカラ松は言葉を止めた。親の仇を見るような一松の目に、それ以上動くこともできなかった。怖かったのだ。だけど何故だ。自分は歩み寄ったはずだ。そうカラ松は混乱する。自分が何をしてしまったのか、一松がどうして自分を睨みつけているのか、カラ松には全くわからなかった。
 一松の目は不良から向けられる敵意に似ていた。
 自分のどんな行動が一松を動かしてしまうのかわからない。そう思ってカラ松はそれ以上口を開くことも動くこともやめた。しばらく二人はその場で目を合わせていたが、やがて一松が歩き出した。カラ松は追いかけなかった。
 以来、一松はカラ松とまともに話せなくなってしまった。カラ松は悪くない。それを十分にわかっていたけれど、一松はカラ松を許すことができなかった。
 カラ松もまた、一松に対する言動を極端に控えるようになった。畏怖と、弟を傷付けたくないという意思からであった。突然二人の間に生まれた確執に兄弟は疑問に思った。その中でおそ松だけは実情を察して「カラ松は馬鹿だからな」と溜息をついた。
 演劇部の名残だろうか、卒業後カラ松が「静寂と孤独」と言って気取り始めた。なんで軽率なやつだと一松は憤慨した。カラ松に対する風当たりが更に悪くなり、一松はいつまでもカラ松に対して攻撃的だった。一松とは何の関係もないところで何か影響を受けるものがあったのかもしれない。そう思うことは難しくなかったが、あのノートを見ているせいで、一松に対する当てつけは少なからずあると思えた。
 それから数年経っても、一松とカラ松の仲は穏便なものにならずにいる。だが、思春期の多感な時期と未成熟な若さを客観的に見れる年齢になった一松は、己の行いについてカラ松に罪悪感を抱き始めていた。けれども何年もこんな空気を保ち続けて、今更カラ松になんて声をかければいいのか全くわからずに現状維持を打破できずにいる。他の兄弟たちは、一松のカラ松に対しする神経質さがいくらか緩和していることを察していたが、当のカラ松はそれに気づかないままだ。カラ松の中で一松は、一線を置かなければならない存在なのだ。
「おい、クソ松」
 ビク。
「………」
 時折一松がこうして声をかけると、カラ松は肩を跳ねさせて、警戒した目で一松を見る。瞳には怯えがあるように見える。それを見ると一松は何も言えなくなってしまい、結局何の話もしないまま舌打ちをして立ち去る。
 カラ松は一松の意図がわからないまま疑問符を飛ばして、自分は一体いつ一松に許してもらえるのだろうかと思考する。一松の抱いている孤独を理解できない自分に対して、血も身体も分けた兄なのに、と嘆き続けた。