橋渡し。:女の子同士の大事なお話。
◎は水無の腕を引いたまま、学校の裏門を抜けて更に更に進んでいった。足は淀みなく進んでいく。てっきり学校に戻るかと思っていた水無は、校内の敷地を通り過ぎ、初めて通る道を随分進んでいる現状に不安を抱き始めていた。
「ねえ、●さん。どこまでいくの」
「もう少し先」
振り返らずに言った。声音は柔らかいがどこか素っ気ない。水無は友人から、●さんなら優しいし協力してくれるよ、と言われていたし、実際に話してみて柔和な雰囲気を感じていた。だから今こうして自分の手を引いているのは、恋のアドバイスをしてくれると思ったのだ。困った顔をしていたけど、結局渡してくれたし、友人の言う通り優しい人だと思っていた。だが、今手を引かれているこの状況が怖い。何かアドバイスをしてくれるとしても、こんなに歩く必要はないのではないか。
せめて手を離してくれないかと腕を引いても、意外と◎の力は強くて振り払えない。道草を食う飼い犬が飼い主にリードを引かれるように、水無は強制的に進まされていた。周りの景色は見慣れた住宅街から離れていって人気がなくなっていく。胸中の不安を誤魔化したくて、何故自分がこんなところに連れて来られているのかを水無は考えた。
考えられる理由は爆豪勝己の存在だ。自分たちは昨日以前、一切の接触がない。◎が言っていた通り、昨日が正真正銘初対面で初めて会話した。友人に◎のことを教えてもらうまでは存在の認識自体があやふやだった。◎も同じはずだ。◎は一度も水無の名前を呼んでいない。名前を知らないのかもしれない。お互いへの関心がこんなにも希薄なのに、用があるということは。
「●さんって…もしかして爆豪くんのこと好きだったの…?」
考えたままを言った。それ以外にこの状況の理由が思いつかなかった。◎は答えずに、小さく溜息を漏らした。水無はそれを認めたが、肯定なのかは判断できなかった。だけどそれ以外に思いつかなかったので、どんな反応を返しても自分が指摘した内容が真実だと思った。
「それで私にとられると思ったの?」
◎は答えない。何も言わないことを肯定だと思い、水無は鼻で笑って勢いをつけて言葉を続けた。
「それ、嫉妬だよね。そんなことで私こんなところまで連れて来られてるの?別に、好きってことはいいと思うけど、自分は告白しないくせに仲良くなった女の子を引きずり出してるなんて、いい迷惑…」
「黙れる?」
◎の声ははっきりと吐き出され、水無は口を噤んだ。優しい人だと思っていただけに、聞いたことがないくらい淡白な声が威圧的に感じる。無感情な声。まるで叱責されているように思えて、歩いている間は口を開くことを控えた。
山のような粗大ゴミがある海浜公園まで辿り着くと、ようやく◎は足を止めた。手を離すと、水無を振り返ってにこりと微笑む。
「そうね。突然連れて来ちゃったものね。爆豪くんと一緒に帰るところだったのに、ごめんね」
柔らかい表情は手紙を渡した時と同じように優しげで、水無はそれまで抱えていた不安やら恐怖心が杞憂に思えてホッとした。なんで私怖がってたんだろう、馬鹿みたい。そうも思った。そしてようやくここに連れて来られた理由を話してもらえると思い、「ううん、別にいいけど」と返し、◎の言葉を待った。
季節外れに訪れた海は寒い。上着なしでは少し冷える。水無は両肩を寄せるように襟元を押さえた。◎は温度変化の個性を使って体温を上げており、寒そうな様子を全く見せずに口を開いた。
「私ね、あなたが推測してるような感情を爆豪くんに持ってないし、今は交流も無いんだけど、爆豪くんが嫌いなわけじゃないの。小さい時は仲良かったしね。昔のよしみってやつかしら」
水無は◎の言葉から、ここまで連れ出された理由を探した。だが自分が先程思い浮かべた理由が一度確定してしまったせいで、その他に妥当と思われるものは仮説一つ何も浮かばない。やっぱりアドバイス?と振り出しに戻り、今聞いた◎の台詞を二、三度反芻した。◎が勝己を好きという仮定と、アドバイスをしてくれる可能性の二つを頭の中に並べる。
好きでないのなら、わざわざ引き離す理由はないだろう。だが自分の感情を誤魔化している様子も感じられない。◎の言葉に嘘はないように思えた。
その先の言葉を待つ水無に、◎は続けた。
「だから、爆豪くんが嫌がることしてる人を見ていられなくて連れて来たの」
水無は硬直した。嫌がること、という言葉へ衝撃を受けた。意識があるまま、体の機能が一瞬ガンッとシャットダウンし、◎の台詞が頭の中で何度もエコーする。
その言葉を落とし込んだ数秒の後、水無は目の前に立つ朗らかな少女を恋のライバルだと認識した。それは◎の言葉を正面から正しく処理できなかった水無が、傷つけられたプライドを守るために無理矢理屈折させた思い込みだった。客観的な視点から発せられた冷静な事実は、盲目的に浮かれた心を容赦なく突き刺す。それは恥だった。その恥を水無は認めたくなかった。
◎の言葉に反射的に否定したかったが、しかし勝己は水無の接触を無下にしたことも思い出す。いつもだったら、男子は口では嫌がりつつも照れ笑いを浮かべて嬉しそうな態度を滲ませるのに、勝己にはそれが一切なかった。だけどそれを認めるわけにはいかない、と水無は意固地になる。男子に好かれることに於いて、自分は学年で一番なのだから、と。
「別に、嫌がってなかったよ」
「…それ、本当にそう思って言ってる?」
虚勢で返した言葉は、少し困った声で返された。現実が見えていないと言われているようだった。水無の唇が引きつる。きっと◎は知っているのだ。爆豪勝己は何が嫌いで、何が好きなのか。どうすれば受け入れてくれるのか。他の男子が喜ぶようなことで、爆豪勝己は喜ばないのだ。きっと自分が爆豪勝己と唯一親しい女子であることも理解して言っている。…幼馴染だからって。
悔しさと恥で唇が痙攣する。この恋路に於いては◎の方が圧倒的に優勢だ。余裕の態度で対抗しようと思っても、口から出る声は自分で思ったよりも取り乱したもので、それを聞くと余計に余裕がなくなった。
「でも、●さんは別に爆豪くんの彼女じゃないよね?そんなこと言われる筋合いないよ!」
「彼女ではないけど、筋合いはあるわ。私はあなたの手紙を橋渡ししているんだもの。自分では渡せなかったから、私を頼ったのよね」
水無は口を開いたが、声は出なかった。言う通りだからだ。勝己と恋人になったら、という甘い恋物語は何度も想像した。が、そこに至るまでの行程が難関だということも理解していた。何せ水無は勝己と話したことがない。勝己に告白しても玉砕している噂しか聞いたことがない。好きになった理由なんて、面食い故に粗暴な性格を外見で帳消しにしたからだ。恋人に漕ぎ着けてしまえば、なんだかんだで受け入れてもらって、一緒に歩いたらみんなに羨ましがってもらえるし、難攻不落の爆豪勝己と付き合えるなんてやっぱりいい女なんだと思われるに決まってる。だって自分は学年で一番男子から好かれている。これは、好意というよりも見栄とプライドだ。
◎はじっと水無を見る。勝己を軽く見ていた考えが◎に見透かされているような気がして、水無は苦く顔を歪めた。
「好きだからって、相手の気持ちを無視していいってことにはならないでしょう?」
◎の声は柔らかいのに淡々としていて突き放すようだった。惨めさが広がっていく。
好きな人?別に本気じゃない。こんなこと言われなきゃなんないほど爆豪くんのこと好きなわけじゃない。
逃げるように胸の中に湧いたその言い訳は、口にすれば余計に言い返せない何かを言われそうで。水無はやけに海の気温の低さを痛切に感じた。ここから早く立ち去りたい。指先が震えている気がしたけど、よくわからなかった。
水無がそれ以上何も言わないことを察すると、◎はにっこりと微笑む。
「もう爆豪くんの嫌がること、しないでね」
優しく発せられたその言葉が、判としてポンと心に捺された気がした。つまり、近付くなと言っているのだ。それを理解した水無は、反論したかったが何も言葉が出て来なくて、開きかけた口をきつく閉じた。手紙を渡してくれたくせにと腹の中で八つ当たりをぐるぐる巡らせ、再び反論しようと思ったが、結局「…うん、わかった」と小さく呟いた。言わざるを得なかった。
「ふふ、よかった。ありがとう」
春の陽射しのような穏やかな笑顔を水無は威圧的に感じた。その裏に何かが潜んでいるように思えて仕方がなかった。「爆豪くんが嫌いなわけじゃないの」と◎は言ったが、嫌いじゃない程度の感情だけではない。本当はもっと別の気持ちがあるに決まってる。だけどそれを明かそうとするのは、本格的に◎を敵に回すことになると予感した。
会わないかもしれないけど、また明日。
◎はそう言って海浜公園を出て行った。
ふふ、という笑い声は、悪意の感じられない朗らかな笑い声なのに、何故かとても怖かった。水無は寒さで一刻も早くその場から離れたかったが、◎の姿が見えなくなるまでその場から動かないでいた。
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