幸せの権利.3
体育の時間、他の生徒が来る前に彼女の放課後をもらう約束をした。図書室に来てもらうように頼むと、彼女は困惑しつつも頷いてくれた。
図書室にいる生徒は相変わらず疎らで、俺は図書室の奥の方の机に腰掛けていた。話をする場所として、自分がかつて告白された場所をチョイスするのはどうかと思ったが、人がいなくて静かなところを他に思いつかなかったのだ。別に内緒話をするつもりではないから、人なんていてもいなくても関係ないのだが。
しかし、おとなしく待っているというのは実に暇で、俺はぼんやりと図書室内の景色を見回した。ある本棚には随分分厚い本があり、そこは以前彼女が本を探していた棚だったと思い出した。自分の視力を凝らして背表紙のタイトルを読むと、見覚えがある本だったことに気付いた。キラが一日で返却した政治経済関係の本である。
ふと、彼女が歩いてきたのが見えて俺は立ち上がった。彼女は俺を見つけると、一直線に歩いてきた。それを見ながら、昨日キラに言われたことを思い出した。
―――早くレイにコクってね
俺は、彼女が好きだと自覚したことはない。無論今も自分が彼女に対して本当に恋愛感情を抱いているのか半信半疑だし、キラに告白しろと言われたからと言って、本当に言わなければならないわけはない。はっきりした気持ちと告白する理由がないのだから。
「すみません、お待たせさせてしまって」
申し訳なさそうに言う彼女に気にしないように言うと、どう話を切り出すか考えた。すぐには思いつかなくて、俺は「えっと…」と少し唸っていた。彼女がじっと見つめてくるのが照れ臭くて、耐え切れず直球でコンサートがある週末の彼女の予定を聞いた。彼女は休日はいつも家にいるとキラから聞いていたが、やはり順番を考えるとそれからだった。案の定、彼女は空いていると言ったが、俺はその返事を聞いてホッと安心した。不思議そうな表情をする彼女に、チケットが一枚入っている封筒を渡した、戸惑いながら受け取る彼女を見て、「開けてみて」と言った。彼女は俺の言う通りにして封筒の中を見ると、いつもより高い声で「あ!」と言い、すぐに口を押さえて周囲を見回した。周りに人がいないことに肩の力を抜くと、改めてチケットを見た。顔を綻ばせる彼女は今まで見たことのないくらい嬉しそうで、いつかのように俺の胸は高く鳴った。
「もともとキラが君と行くつもりだったらしいんだけど、違う予定が入ったみたいだから俺に渡したんだ。…俺と一緒でも良かったら、行く?」
問うと、彼女は花のように愛らしく微笑んで「はい」と答え、チケットを大切そうに胸に抱いた。それを見た俺の顔は熱くなって、今無償に彼女に触れたいと思ったのは、やはり俺の中にはキラが察した通りの気持ちがあるということなのだろう。彼女の頬に触れたがった手を我慢して、「週末に」と別れを告げて俺はその場を立ち去ろうと歩き始めた。それ以上彼女といると、触れたいと思う気持ちが増幅してとんでもないことをしそうだと思った。
嬉しさの名残のある声で「さようなら」と言われたのが少し照れ臭くて、俺は不器用な微笑みを彼女に向けただけだった。
*
当日、俺はなるべくフォーマルな服装になるように服を選んだ。といっても、彼女との待ち合わせから夕方のコンサートまでかなり時間があるため、街を歩ける程度のラフな格好だ。彼女は絶対に遅刻をしないだろうと予想して、約束の時間になる前に待ち合わせ場所に着くよう、早めに家を出た。財布の中にチケットがあるのを確認して、思わず口が緩んだ。
待ち合わせ場所には30分前に着いた。辺りを見回したが、流石に彼女はまだ来ていないようだ。ふと見上げると、ショッピングビルが掲げているテレビが見えた。画面の角に時計があり、それを見て早く時間にならないかと待ち兼ねた。
女の子は服装や髪型で、雰囲気がまったく変わってしまうらしい。彼女もそうなるのだろうかと思うが、全然想像できない。かなり浮かれているらしい俺は、そんな些細なことを考えるだけで、だらしない笑みを浮かべていた。
彼女が来たら、まず一緒に昼食を摂って、それからウインドウショッピングでもしようか。もし彼女に似合うアクセサリーでも見つかったならプレゼントしよう。普段街に出ないらしい彼女は、きっとアクセサリーなんて持っていないのだろうから。
まるでデートだな、と思い、俺はまたクスッと笑った。そして、コンサートが終わったら彼女に告白しよう。自覚して間もない恋だが、俺は確かに彼女に好意を持っているのだ。この恋が実る自信はないけれど。キラの言いなりになっているようで少しばかり癪だけど。でも、キラがいなければ、俺は自分の気持ちに気付くことはなかったのだ。
今日、彼女が少しでも楽しんでくれたらと思う。もし本当に彼女が病気だったのなら、その病気のことを一瞬でも忘れられるように。そして、チケットを受け取った時のような笑顔を俺に見せてくれたら、それは俺にとってこの上ない喜びだろう。あの時の嬉しそうな彼女の微笑みを思い出して、俺は心が温まるのを感じた。ああ、なんて愛しいんだろう。
約束の時間はまだだろうかと、俺は再びテレビを見上げた。テレビを見た瞬間、突然ニュース速報の帯が時計と被った。俺の目は自然と帯に流れる文字列を追い、ぼんやりとそれを読んで、静かに瞠目した。
―――『本日10:34ごろ、ディセンベルステーション前でレイ・ザ・バレル(16)さんが暴走車に跳ねられ即死』
epilogue
彼女は俺が好きだったらしい。
今思い返すと、友達を作ろうともしなかったらしい彼女が、俺を拒まなかったことは、俺への好意があったからだろう。キラに言われなければ、俺はそれを一生気付けなかった。
また、これもキラから聞いた話だが、彼女は生まれ持った病ゆえに、もう先が長くなかったらしい。
キラが彼女に告白出来なかったのは、従兄妹ながらに彼女の唯一の友達という存在を、彼女から奪いたくなかったからだという。
そして、俺に「早く告白しろ」と言ったのは、彼女からは決して告白しないと確信したからだ。けれど少しでも多くの彼女の幸せを望んで、キラは自分の気持ちを噛み殺して俺にそう言った。
彼女は「欠陥のある自分が誰かと一緒になっても、相手は幸せになれない」と言ったらしい。一緒になった者を置いて、自分だけが先に旅立ってしまうからだろう。それは、彼女自身が自分の幸せを諦めた発言だった。
彼女のその言葉が間違いだと伝えられなかったことが、一番の心残りかもしれない。
好きだとも言ってあげられなかった。
名前も呼んであげられなかった。
手も繋いであげられなかった。
満足に話すことも出来なかった。
抱き締めたかった。
何も始まらなかった。
未練はたくさんある。
嘘であってほしいと何度も思う。
どうして失ってから、伝えたいことが溢れるのだろう。
「…レイ」
生まれてきてくれてありがとう。
「レイ」
守れなくてごめんなさい。
「レイ」
出会えて良かった。
「レイ」
どうか、幸せになって。
「レイ…」
好きだよ。
「レイ…っ!」
俺は、きみを好きになって幸せだよ。