マフィン。:非日常が終わる帰路
その日は友人たちと帰る気が起きず、ホームルームの後は早々に一人で教室を出た。
あんな浮かれきった有象無象と一瞬でも同じ空間にいるなんて虫唾が走る。走りまくりだ。学校で体を動かすなんて選択肢は皆無だ。
やっと終わったとうんざりしながら、誰よりも早く下駄箱に向かった。だが隣のクラスの方がホームルームの終わりが早かったようだ。
下駄箱に辿り着くと、そこにまでマフィンが入っている。
流石にキレてそれを引っ掴むと、豪速球で友人の下駄箱に投げ入れた。当たりどころが良かったのかスチールの下駄箱がガコン!と小気味いい音を立てた。形が変わったかもしれないが、確認せずそのまま昇降口を出る。爆破しなかったのはなけなしの理性だ。
下らねぇ。
再三の思考が肥大する。恋愛には興味がない。そんなものは相手に関わらず異性に浮かれて、やるべきことを見失ってる連中がやることだ。
イライラするしムシャクシャする。タバコは吸わないが、恐らくニコチンが足りなくてイライラしている時は今のような感じなんだろうと思った。
帰ったらとにかく体を動かしてストレスを発散したい。筋トレとランニング、と努めて冷静になろうと考えていると、かなり前を歩く女子が目についた。瞬間、クソ、と溜息が出る。嫌なものを見た気になり反射的に舌打ちが出た。
が、歩き方を見てはたとわずかに冷静になり、髪型や後ろ姿を注視して幼馴染だと気付いた。
なんだ、と思い気が抜ける。はーと長い溜息を吐き、すっと腹に息を入れた。
「おい!」
遠くからの怒鳴り声にも関わらずぴたりと足を止め、振り返ったのはやはり◎だった。
勝己は振り返った顔を見て間違いなく◎だと認識するとずかずかと近付いていく。イライラして平素より目つきが悪くなっているが、◎は物怖じせずそのまま勝己が自分に追いつくのを待った。会話が不便でない距離まで近付くと、ただ意外そうに「勝己」と名前を呼んだ。
「どうかした?」
外で勝己に呼び止められるのは珍しい。一人でいるのも。用もなく呼び止める男でもない。
◎は素直に勝己の行動を待ち、勝己は◎の傍で足を止めるとイライラしたまま続けた。
「お前んとこ今日調理実習だったろ」
「うん。マフィン作った」
「お前のクラスの女子マジでウッゼェな」
「ああ…お疲れさま」
何があったのか察したのだろう。全てを把握しているような顔で微笑んで一言で済まされた。それにもまた眉間が寄る。他人事みたいにあしらいやがって。
「あげたい人は欲しい人に渡せばいいのにね」
含みのある声に聞こえて、勝己は妙な違和感を覚えて◎に顔を上げた。そして昼休みのことを思い出す。そういやこいつも絡まれてたな、と。思い出してそれにもわずかにイラっとした。
周りの浮かれた空気に巻き込まれていると感じたのは◎も同じらしい。二人とも色恋に於いては関心がないのだ。
目の前に同士がいることに落ち着いてきて、勝己は苛立ちを沈めて溜息を吐いた。まだ眉間に皺を寄せたままではあったが。
「…お前まだ持ってっか」
「うん」
「腹減った。寄越せ」
「いいよ」
一考もせずに鞄を開けて、出てきたマフィンは透明なビニールに無造作に二つ入れらている。ビニールごと渡されたのを受け取ると一つ取りだし、紙のカップを剥がしてかぶりついた。咀嚼しながら剥がしたカップをビニールに戻して◎に返す。受け取ると◎もあとの一つを取りだし、勝己と同じように紙のカップを剥がして食べ始めた。
少し潰れて口当たりがしっとりしている。いかにも手作り、という感じだった。そのまま二人で並んで歩き出す。
こうして二人で並んで帰るのはひどく久しぶりかもしれない。二人は学校では意識的に接触を避けている。お互いがお互いを最も親密な異性と自覚しているのと、一緒にいると周りが勝手な憶測を立てることを理解しているからだ。学校では他人のふり、家では家族。そう振る舞っていた。
でももうだいぶ家が近い。ここから先の道に他の生徒の家がないことは知っている。
食べ歩きをしながら◎が言う。
「他の子からのは?」
「ねーわ」
「捨てたの?」
「ちげぇ。ダチにやった」
感覚的には捨てたも同然だが、そう答えた。
「下駄箱に入れられてたやつも?」
「ああ。…あ?んで知ってんだ」
「入れてるとこ見えたの。私と目が合うとそそくさと帰ってたけど。お腹空いてたならもらえば良かったのに」
「知らねーやつが作ったもんなんか食えっか」
勝己のイラついた言葉を聞いて、◎はちらと勝己を見た。元より潔癖なきらいはあるが、物の出所を気にしているよりあの雰囲気が心底鬱陶しかったんだろうなと思った。
ふうんと興味なさそうに相槌を打って、勝己のマフィン受け取り状況の確認はそれで終了した。
二人とも道中無言で食べていたが、不意に勝己は再度昼休みのことを思い出した。◎を見ないまま何となしに口を開く。
「お前昼休みにせびられてたよな。なんで断ったんだよ」
「んー…私に気があるみたいだったから、期待させたくなくて」
そりゃせびってんだから気はあんだろ、と思う。
「あと本当に自分で食べるつもりだったのよね。誰かに渡すとしても美味しいって思ってくれる人にあげたいし」
「はっ、俺がこれ美味いと思ってるってか?」
「うん。勝己は嫌いなもの寄越せなんて言わないもの」
鼻で笑ったのに即答されてしまい思わず見ると、◎も勝己を見た。勝己は瞠目したまま凝視していたが、◎は咀嚼して口を開けない代わりに「何か間違ってるかしら」とでも言いたげにじっと見つめてくる。確かにそうだけどよ、と思ったが、それを口にするのは悔しかったし、悔しいと思ったことも知られたくなかった。目をそらして小さく呟く。
「…なんかお前ムカつくな」
「ふふ、そう」
外方を向く勝己に◎は楽しげに笑った。腹の中を見透かされてるようで釈然としなかったが、見慣れた態度に対して怒鳴るほどのイラつきも湧かない。勝己は手の中のマフィンを口の中に放り込んで咀嚼する。
不味くはない。だけどやっぱり。
「買った方がうめえ」
「買った方が美味しいわね」
同時に口を開いて、思わず互いを見た。表情までもが二人ともきょとんとして、数秒後に◎が声を出して笑った。勝己もなんだか気が抜けて、口元を緩めながら◎の頭を小突く。
それぞれの家の門に入るまで、◎は始終笑っていた。門に手を掛けながら「笑い過ぎだわアホ」と言う勝己に、「だって、ふふ」と返す。
「じゃあ、また後でね」
「おう」
◎は爆豪家で夕飯を摂っている。自宅で着替えたらすぐに顔を合わせる。その時にまた笑い出すことを勝己は予想していた。
家に帰り「ただいま」と声を張ると、光己は驚いた顔で出迎えて「おかえり」と言った。いつも声だけしか寄越さないのに、顔を出した光己に勝己も怪訝に思って見返した。
「んっだよババア」
「ババアっつうな!あんたなんかいいことあった?」
「あ?別になんもねえよ」
「うっそ。笑ってる声してたわよ」
言われて勝己は眉間に皺を寄せる。何かあるとすれば先ほどのことしかない。知られたら光己は確実に弄ってくる。
子供の時から勝己が◎に対して優しくしたり女の子扱いするときがあるといつもそうだ。弄られるのはごめんだ。
頑に「なんでもねぇっつってんだろ!」と言い捨てて勝己は階段を上った。
部屋で着替えた後、門の前のことを思い出す。そんなに面白いことだったとは思わないが、ずっと笑っている◎を見るとつられて顔の筋肉が緩んだ。
別れてから数分経たない間に、下から玄関が開く音がして「ただいま」と◎の声がした。その声に反射的に動くように勝己は部屋のドアへ向う。
◎から光己に話が伝わらないように釘を刺しておかなければならない。そう思い、急ぎ足で階下に下りた。
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