恋。






(お粗末/あつトド/苦しい)



 神なんていない。慈悲なんてない。神がいるのならば、どうしてこんなにもひどい仕打ちをしてくれるのだ。
 もとから神を信じている質じゃないけれど、自分の箍が外れてしまった腹いせを神に向けざるを得なかったのだ。

 好きなんだ、と、抑えられずにそう言ってしまった。
 その時の彼はきょとんとしていて、何が、と聞き返してきた。僕は彼の問いに素直に返答して、自分の心に確立してしまった感情を吐き出していった。彼は口元をぴくと痙攣させて、明らかに僕の言葉に引いていた。それでも彼は笑って「またまた〜」と茶化そうとしたけど、僕が笑わずに黙っているから彼も笑顔を収めて口を噤んでしまった。
 気まずく流れる沈黙に、やはり言わなければよかったと思った。僕は彼が何を思っているのか想像がついてしまって、だけどそれを聞くのが怖かった。あつしくん、と彼がゆっくり口を開いた時、僕は彼が言葉を続ける前に口早にごめんと言ってその場を立ち去った。彼は追い掛けて来なかった。
 悲しみと後悔が激しく胸を渦巻き、僕は情けないことに泣き出したい気持ちを延々と抱え続けていた。彼から僕へ向かう友情も、これで断たれてしまうだろう…。だって僕は、彼へ友情以外のものを抱いてしまったのだから。

 日常に彼がいなくなってしまった後、僕は「楽しみ」という概念がなんだかよくわからなくなってしまった。今まで鮮やかに美しく見えていた景色が、平坦なつまらないものに見える。何をしても満たされないから無心で仕事に向かっていた。そうする以外に意味があることを見つけられなかった。ただでさえ無関心な食事は更にどうでもよくなって、一日何も食べない日も珍しくはなくなった。仕事のために頭と体が動く程度には食べていたけれど、基本的に食欲はなかった。その代わりに酒に頼って少しでも余裕をなくそうとした。ふとした時に彼のことを思い出してしまうからだ。
 業務に支障は出さないように努めていたが、僕は痩せたのだろうか。普段は退社後にまっすぐ帰る同僚が飲みに誘ってきた。元気?飲みに行かないか?と。つまり僕に元気がないように見えたのだろう。実際、胸を張って元気とは言えなかった。心配をかけるわけにもいかないから同僚の誘いに乗って、今日の仕事終わりに軽く飲んで帰る約束をした。
 残業をしないように仕事を捌いて、定時を少し過ぎた時間に退勤した。ロッカールームで同僚と待ち合わせて会社を出た。
「最近なんかあった?」
 近況を聞く調子で同僚は言った。だけど真意は僕の心境の変化の原因を尋ねているのだ。僕は、うん、まあ、と曖昧に濁して、曖昧に笑った。言っていいものだろうか。相手が男とは口が裂けても言えないが、僕くらいの年齢の男が失恋して意気消沈しているなどと。僕が多く口を開かないのに対して同僚はそれ以上突き詰めずに、美味いもん食って気分入れ替えようぜ、最近お前頑張り過ぎてるからちょっと息抜けよ、と明るく言った。敢えて仕事の話に運ぼうとしてくれる同僚に優しさを感じざるを得ず、早く立ち直らなきゃなと自分に釘を刺した。
 社内で定番になっている居酒屋に向かっている途中、視界の端に見逃せない影が見えた。あれ、とそちらを見ると、ここにいないはずの松野がいた。え、と僕は動揺して足を止める。少し先まで歩いた同僚が振り返ってどうした?と尋ねる。
「あ、ごめん。今日用事があったの思い出したんだ。悪いけど飲み金曜とかでもいいかな?」
「あ、そうなの?わかったいいよ。あんまり詰め込みすぎるなよ?」
「うん。悪いね」
 この唐突すぎるドタキャンに同僚は怒りもせず、お疲れ〜と言って駅に向かって歩いて行った。背中が遠くなるのを見届けると、僕は松野がいる方に顔を向けた。松野は不機嫌というわけではなさそうだが、少し眉間を寄せて険しい顔をしている。僕が一人になると彼はこちらに歩いてきた。
「…久しぶり」
「う、ん」
 どうして?そんな思考が渦巻き、僕の喉は詰まっていた。
「よかったの。今の人」
「ああ、大丈夫…。松野、なに、どうしたの」
 本当にみっともないくらい動揺して、しどろもどろに口を開く。松野は僕を睨んだ。
「は?どうしたのとか聞く?最後に会った時さぁ…あつしくん僕に何言ったか覚えてないの?」
「覚えてる。覚えてるよ…」
 だから、もう会うことはないと思ったんじゃないか。
 松野は僕の様子を見て溜息をつくと、どこかに入ろうと言った。話す内容は明白だったから個室ブースのあるバーに松野を連れて行く。暗めの店内に洒落た間接照明のある店だ。他人の会話に聞き耳をたてるような不躾な客はいない印象があった。
 店に向かって十分くらい歩いている間、僕も松野も無言だった。友情を修復するつもりで来たのだろうか。それにしては雰囲気が強張っている気がする。それとも改めて振られてしまうのだろうか。そうしたら、本当にもう二度と会えなくなってしまうな、と思い、一瞬鼻先がツンとしたのを必死で堪えた。
 こぢんまりとした雑居ビルのエレベーターに入りフロアのボタンを押して階上に向かう。店内はまだ早い時間だからか客がほとんどいない。僕はコの字型のソファがあるブース席に向かう途中、マスターにビールを注文した。松野も「僕もビール」と言ったので少し意外に思う。席に座ると、松野は向かいに座った
「雰囲気ある店だね。よく来るの」
「たまにね」
「ふうん。女の子と?」
「いや。…まぁ、タイミングが合った時は。別に一人でも来るよ」
「へー」
 気のない返事だ。松野の真意が読めなかった。前から女の子の話をすると妬まれたけど、それとは違うように感じた。
 マスターがお通しのナッツとビールを運んできた。テーブルに物が揃った後、僕はブースの間口となるブラインドを閉めた。
 しばらく無言だったが、松野が先にグラスに手を伸ばして一気に半分以上飲み干した。
 普段はしないような飲み方だ。やけ酒のようにも見える。
 グラスから口を話すと、可愛らしさの欠片もなく「っあー」と低く吐き出してグラスを置く。グラスを置く音がやけに大きく聞こえた。松野は目を伏せている。首を下げたまま話した。
「あつしくん、痩せたよね」
「あー…そうかな。やっぱり」
「食べてないの?」
「いや、食べてるよ。食べないこともあるけど」
「…それってさ」
 その先に続く言葉は予想できた。「告白した日から?」と。緊張しながらその先を待ったけど、松野はそれ以上口を開かなかった。
 松野は溜められるだけ溜め込んだような、重く大きな溜息を吐いた。そして十分に心の準備をするような間を作ってから、口を開いた。
「…あつしくんさ、何で僕の返事聞かないで逃げたの」
 どく、と胸が動悸する。僕は言葉を選んだ。怖かったと素直に言うのははばかられた。
「松野、引いてただろ。あの時。わかってたから聞きたくなかった」
「わかってた?なにを」
「お前は俺と同じように思わないってこと」
「うん。そうだね。無理って言うつもりだったよ」
 ーーーこれは泣いてもいいだろうか。さすがに傷つく。みっともないとはわかるけれど、自分の力でどうしようもないことは苦しさも一入だ。
 つらい。それ以外になにもなかった。
 松野は続けた。
「あの時言っておけばさあ、僕たち終わることができたじゃん。二度と会わないし、気持ち悪って思えたじゃん。なのにさあ、なんで…」
 松野の声が震えて、止まる。僕は居たたまれない気持ちで見つめていた、汗をかいたグラスから視線をあげる。松野は苦悩するように額に手をあてて顔を伏せていた。はあ、と濡れたような溜息が漏れた。
「僕さ、あつしくんのこと嫌いじゃないんだよ…あつしくん優しいじゃん。嫌いになれなかったんだよ」
 僕はなにも言えずにただ松野の言葉を聞いていた。
「なんであんなこと言ったの」
「…」
 好きだから、と気軽に言える空気じゃなかった。だけどそれ以外に言える言葉が見つからなくて僕は黙った。潤んだ松野の目に、ごめんなんて言いたくはなかった。
「そしたら、僕たち一緒にいれたじゃん。友達でいられたじゃん。なんで………。あつしくんが好きなんて言わなきゃ、僕はこんなに苦しむことがなかったのに」
 下睫を滑り、松野の目からつっと涙がこぼれて頬を流れる。松野はテーブルに肘をついて手を組んでそれに顔を隠したけど鼻を啜る音が聞こえた。隠しきれないと思ったのか、組んでいた手を解いて目を擦った。手の甲が涙に濡れて光って見える。
 ひどいよ。
 松野はそう言った。ひどい、とは、不本意な言葉だった。だって、そんなの僕だって。
「僕が好きで、君を好きになってると思ってるの」
 思いのほか批判的な声が出てしまった。松野は動かずに顔を伏せて、何も言わなかった。僕は続けた。自分が喋っているのではないと思えるくらい、淀みなく心の内を声に出していた。
「僕だって、恋愛したくて君のことを好きになった訳じゃない。こんな風に好きになるのを望んだ訳じゃない。本当は友達がよかったさ。気楽に付き合える男友達でいたかったよ。仕方ないだろ…!!」
 半ば勢いでそう吐き出して、自分の声を聞いていて苦しくなった。そう、こんな風になりたかったわけじゃない。何かを望んだ訳じゃない。ただ、僕は松野がどうしようもなく好きになってしまった。ただそれだけの話。それだけのことが僕の心を覆い尽くして、身体まで飲み込んで、誤摩化すことも仕舞い続けることもできなかった。
「寝ても覚めても君を忘れられない…」
 僕はもっと、理性的に人を好きになりたかった。こんな無防備に人に恋をしたくなかった。コントロール出来ない感情なんて持ちたくなかった。君のことをこんな風に好きになりたくなかった。だけど好きで好きで好きでたまらないんだ。少しでも近づきたくて、君の目に映ることを望んでしまう。君のことばかりを考えてしまう。
 視界が滲んで、僕まで涙を流してしまった。男二人が泣いているなんて情けない。腕で目を覆い歯を食いしばって、漏れそうになった嗚咽を必死に飲み込んだ。大丈夫だ、と思った時に素早く腕をグラスに伸ばして僕もビールを喉に流し込んだ。液体が喉元を過ぎ去った後、大きく息を吸って嗚咽を誤摩化し、一気に一息吐き出した。口元を押さえて、それ以上子供みたいな泣き方をしないように堪えた。
 二人ともしばらくそうして黙っていた。松野は声を出さなかったけど時折目を拭っていた。
 ブラインドの向こうに落ち着いたジャズソングと来店の鈴が鳴っているのが聞こえ始める。はじめから店内にBGMは流れていたけれど、耳から遥か遠い場所に聞こえていた。
 松野は息を吸って、ふーと息を吐いて、静かに口を開いた。
「………あつしくんは…さ、僕とどうなりたいの…?」
 弱々しく、自信なさげな声だった。僕の答えを聞くのが怖いのだろうか。
 松野とのこと、何も想像しなかったと言えば嘘になる。だけどそれを望んでいるのかといえば真実ではないと思えていた。
「別に、どうも」
 それが正しかった。
 ただ、ただ松野がいればよかった。それが僕の傍であるなら幸福だった。
「僕は本当に、好きなんだよ。君のことが。それだけなんだよ」
 松野からの返事はなく、店内の他の客の話し声が僕たちの空間に紛れ込んできている。雑音のような。そのままでいいと思う。僕は松野の返事は欲しくなかった。
「…あのさ」
「…ん」
「僕は、あつしくんと一緒にいたいよ…?」
「…ありがとう」
 自分の口元が緩んで、また目から涙が落ちた。胸は温かく満たされている。嬉しかった。