どこから来ましたか。六
(♂夢/忍卵/五年)
目はしばらく前から覚めていたんだろう。ぼんやりそんな記憶はある。だけどちゃんと意識が起きたのはたった今だ。それより前は靄がかかったように白んでいて、多くは大胆に白く抜け落ちている。
「○、俺手拭い持ってきちゃったから、一回戻る。あとでまた迎えに来るから」
「え、ああ…うん。わかった」
話し掛けられるまで兵助が話し掛けてくるなんて思ってなくて、咄嗟に返した。迎えに来るのか。じゃあさっさと準備しないと。
兵助が部屋を出るときに、昨日のことをまだ謝ってないことを思い出したけど、口を開いたと同時に部屋の戸は閉まった。ああ言い損ねたと思ったけど、後でみんなと会ったときまとめて謝ろう。兵助は至って普通だったからあとの奴らももしかしたら気にしていないのかもしれない。だけど、この体がまだ借り物のような気がするのは相変わらずだから、昨日彼らを置き去りにしたことを、何も言わずにやり過ごすわけにはいかないような気がする。
ああ、もう。どうすりゃ戻るんだろうこの現象。今日も一日が始まるのか。
記憶にはないのに体は覚えてて、実際に初めて会う奴のはずなのに知っていて、しかも親しいのだとわかる。
はじめは蓄積されたものの名残であるはずのそれも、感覚はどんどん自分のものになって頼りが無くなった。今はもう既に夢みたいに消え失せて、ただ意味も因果もわからず俺だけがここに残されている。
一番怖いのは、他人のような以前の俺が大事にしてたものを、今の俺はぞんざいに扱うのではないかということだ。
兵助も、勘右衛門も、三郎も雷蔵も八左ヱ門も、きっと俺は大事にしてたんだろう。たぶん今の俺も、俺の感覚としてあいつらのことが好きなんだろうけど、丸二日しか生きていない俺があいつらに絆なんて持てるわけが無い。
それが怖い。
「○ー、準備終わったかー?」
「え…あれ、勘右衛門?」
準備を終わらせて、授業の予習をしておこうと忍たまの友を眺めていたら、兵助ではなく勘右衛門が来た。不意を突かれて間抜けな声が出たが、気にする間もなく「兵助なら場所取り行った。今から混むから」と勘右衛門が教えてくれた。そうか、と返事をすると俺は教科書を閉じて部屋を出た。戸を閉めたが勘右衛門が歩きださなかったので、つられて俺もそのまま立ち止まり、思わず勘右衛門を見た。
「勘右衛門?」
「あ、いや、いつもどおりだなぁと思って」
あっけらかんとした顔で言われたそれは、特に色を見せなくて、昨日のことを言っているのだと気付くまでに妙に空白ができてしまった。あ、と思った俺の顔を見て、勘右衛門は前言を訂正するような態度の改め方をし、謝罪の言葉を言おうとした俺より先に口を開いた。
「ああ、○ってなんでも自分で処理しそうだから、昨日みたいに態度に出るの珍しいなぁと思ってさ」
「、…悪い」
「何謝ってんだよ、怒ってるんじゃないぜ?まあ驚きはしたけどな」
さくさくと気安い言葉を出す勘右衛門の表情は口調と同じように気安いもので、言うとおり怒っていないのだとわかる。昨日の俺を気にしている風でもないようだった。
有り難いけど申し訳なくて、俺はやはり謝罪して、そして少し曖昧に笑った。ありがと、と小さく礼を云うと、勘右衛門はやはり明るく返してくれた。「気にしすぎだ」と。
勘右衛門が俺の背中を強く押して、その力のままに足を踏みだし俺たちはようやく歩きだした。
隣の勘右衛門が俺の肩を幾度か軽く叩き、先程と比べて言葉を選ぶ態度でゆっくり口を開いた。
「ま、一人でどうにもならなくなったら遠慮なく話してくれよ。俺たち同級生で、友達だろ」
「…、ああ」
声に出たそれはひどく薄っぺらい返事になってしまって、なんだか俺はまた浮いてしまっただろうかと思った。
このまま過ごしていくうちに俺という現象が浮いていって次第に濃度を薄くして、いつか消えてくれはしないだろうかと、密やかに思った。そうすれば、きっと何もかもが元通りなのに。
食堂に入ると兵助と、八左ヱ門と双子もいた。人数より余分に二つ朝食があったから待っていてくれたのだろう。一昨日のように先着の奴から食ってないのは昨日のことがあるからだろうか。
「あれー、なんだ先に食ってなかったのか兵助?お前等も」
「勘右衛門が○迎えに行ってるって兵助から聞いたから、じゃあ一緒にと思ってね」
雷蔵が勘右衛門に応えると、俺に視線を移して「おはよう○」と笑った。いつも通りかは分からないけど、穏やかでごく普通の様子はきっといつも通りなのだろう。こちらに背を向けて座っている八左ヱ門も振り返っておはようと笑った。
「おはよう」
俺も、きっといつも通りにそう応えた。
席に着くと、今日まだ言葉を交わしていない三郎が正面で俺のことをじっと見てくる。昨日一緒にいた五人のうち四人から恐らくいつもと同じように接してもらえたことで俺はだいぶ気が楽になっていた。だから三郎への申し訳なさの深刻さも軽くなり、存外に普通に笑いかけることができた。
「おはよ、三郎」
「………」
返事はなく、空振りの感触がした。あれ、と改めて三郎をちゃんと見ると、俺を見る目が探るようというか、疑わしげというか、なんとなく警戒のような色を含めたものだと気付く。
俺という現象がバレているのだろうかと咄嗟に思ったが、同時にそれは違うと、本能のような鋭敏な感覚が告げていた。そしてそれらの思考の一拍を経て、ああ、三郎は昨日のことを気にしていたのかと先とは違う直感が告げた。きっと彼はこのメンバーの中で一番繊細なのかもしれない、と流れるような思考が言った。
俺には随分と余裕が戻ってきて、先刻まで確かにあった不安は殆どなくなっている。三郎がそれ以上気にしないようにと思い、俺自身が気にしていない態度を取ることと、笑顔を向けることを意識的に起こした。
「昨日は突然帰ってごめんな」
「………、別に気にしていない。昨日変なまま別れて間空けるのが嫌だっただけだ」
ほんの少し空白があったけれど、返事が返ってきたことと、気にしていないという言葉で俺は安堵した。拗ねている感じを三郎は隠そうとしていなかったけれど。
「気にしていない」という態度で同調を誘って、「昨日のことは大したことじゃない」と思わせようとした意識は確かにあったけれど、内心で三郎に対し、それは気にしているよなと思い苦笑した。三郎は意地っ張りなんだなぁと、なんだか可愛く思える。それと同時に、繊細な彼は俺にとって危ういかもしれないなとも思えたが。
「しかし、悩み事はいいが態度には出すのは頂けないぞ。忍たまならなんであろうと隠すべきだ」
「よく言うよ、昨日あの後一番動揺してたの三郎じゃん」
「うっ…してないって言ってるだろ!」
その場の空気が和やかなものになり、昨日町でそうしていたように俺たちは笑顔で話に花を咲かせた。
恐らくみんなが気持ちを誤魔化してくれたとなんとなく気付いてはいたけれど、とにかく誰からも昨日のことを深く追求されなくて、俺は有り難かった。
これは一応和解というのだろうか。
俺が一方的に彼らから逃げただけだけど、許されたのならばよかった。
しかし距離が近まったのならば、「警戒しなければならない」という彼らに対する拒否のような意識を強めなければならないと笑顔の裏で思った。