正反対な彼。五
(♂夢/忍卵/一い/五年)
それはとても小さいけれど、その場の誰もが受けとめた変化であった。
「○、今回はとても頑張りましたねぇ」
安藤先生の言葉に、一同は内心で「え?」と当惑した。○もそれに漏れず、答案用紙を受け取ろうとした手をぴたりと止めた。
安藤先生はそれ以上はただ満足そうな笑顔を浮かべるだけで、後は何も言わずに○に答案を返した。戸惑いつつ答案を受け取りそれを見ると、○はパッと表情を明るくした。安藤先生の発言の真意を理解し、体の中が暖かくなるのを感じた。
同級生には嬉しそうにしているのを見られたくなくて、いつもどおりにと思いながら振り返る。相変わらずの猫背を丸めてさらに顔を俯かせながら席に戻ったが、嬉しそうに上がっている口角は同級生の全員に見られた。
伝七も当然それを見て、ほんの一瞬注視する。教室でそんな温かい表情ができるのかと。そしてすぐ様に、いつもああいう顔をしていればいいのに、となんだか惜しい気持ちになった。俯いて空気みたいにそこにいるよりよっぽどいい。そうすれば話もしやすいはずなのに。
誰かがカンニング?と囁いたが、動揺の色に染まった声をないことにするかのように次の者の名前が呼ばれた。
成績が悪かった者が急に誉められた。
そんなことがあった後、もしかしたら話の標的は自分になるかもしれないと思った○は授業終了と同時に教室から逃げ出した。カンニングの囁きが聞こえなかったわけではない。せっかく一生懸命勉強した成果をズルとは思われたくなかったし、思われたとしてもそんなことは聞きたくなかった。
「彦四郎、●って何点だったの?」
真っ先に飛んできたのは一平だった。彦四郎と○は隣同士だ。答案が見えたのではないかと思ったのだろう。伝七は一平に続くかどうか迷ったが、自分も○が何点取ったのか気になるし、左吉も一平に釣られて彦四郎のところへ行ったのでそれに紛れて自分も続いた。
「ハナマルだった」
「えっ、じゃあ満点?あの●が?」
「っていうかハナマルなんてつけたことなかったよね今まで」
「安藤先生嬉しかったんじゃないか?●いっつも満点取れないし」
「ええー?なんか納得いかないなぁ。ずっと成績悪かったのに変だよー」
一平は怪訝そうにしていて、左吉も○の満点の事実に対し意外そうな顔を見せた。伝七もたいそう驚いたが、い組である○が努力したのであれば満点を取るのはありえないことじゃないと思った。だけど成績が悪いのが当たり前というのが○という印象は深く染み付いていて、頭で事実を理解しても、素直に認めるには事態が急すぎる、というのを伝七は心のどこかで思った。
「彦四郎どう思う?」
一平の問い掛けに、伝七も左吉も彦四郎へ視線をやった。彦四郎はうーんと軽く唸ったが、特に考えをまとめる間もなく率直に答えた。
「頑張ったんだろうな、●」
伝七はどきっと焦った。
○のことを素直に認められる彦四郎と自分を比較して、恥ずかしくなった。少なくともこの組の中では誰より○へ好意を向けているくせに、先入観に惑わされて○の功績をちゃんと受け止められない自分が。
しかし伝七は、はたと気付いた。
先入観でしか、自分は○のことを知らないのだ。
(そうか…僕、●のこと何も知らないんだ)
それを自覚するとなんだか虚しくなって、●は何処に行ったんだろうと、伝七はそっと○の席を見つめた。
渡り廊下の近くまで来て、○はようやく足を止めた。何もこんなところまで来る必要はなかったのだが、嬉しさの勢いでついこんなところまで来てしまった。
懐に大事にしまった解答用紙を取り出して、○は噛み締めるようにそれを見つめた。名前の脇に満点を示す百の数字があり、用紙いっぱいにはハナマルが書かれている。忍術学園に入学して初めてとれた満点だった。
(嬉しい…!)
久々知先輩のおかげだ、と○は思った。昨日の勉強会がなかったらこんな点数はとれなかった。もちろん三郎次からも教わったけれども、勉強会の提案をしてくれた兵助に一番にお礼が言いたかった。
これからお昼だから、食堂で探してみようと思い、○は答案を懐にしまい直そうとした。その時、少し先の角から人が現われて○の足は反射的に止まった。あ、と気付く。兵助だ。○には気付かないで渡り廊下の方へ進んでいく。○は慌てて兵助の背中を追い掛けた。
「く、久々知先輩…!」
緊張で○の声は裏返った。兵助は聞こえなかったのか、振り返らずに歩みを進めている。が、兵助に追い付いて○が背中を掴んで引き止めると兵助はようやく自分が呼ばれたことに気が付いたらしく、○を見ると「おお」と声を発した。
「すまんすまん、ちょっと考え事をしていた。どうした?」
詫びるように頭を撫でてくる兵助に、○はいざこの時になって百点を取ったのを知らせるのがなんだか照れ臭くなった。ごにょごにょと声を籠もらせて、「あの…」と話し出すが、報告の言葉はどれも声にするのは恥ずかしくてただ○の頬は赤く染まった。そして、少し遠慮がちに答案を広げて、なんとかこの満点を兵助に知らせようと試みてみる。兵助はそれに気付いてくれたようで、視線を○の手元に下ろし、それをみて○はようやく口が開けた。
「あ、あの、僕、百点とれたんです…!久々知先輩にお礼を言いたくて、僕…」
「お礼?俺に?」
「き、昨日久々知先輩が勉強会開いてくださらなかったら、僕、絶対満点なんてとれなかったので…あの」
自信なさそうに語尾が萎みつつも、感謝を伝えたくてまくしたてるように話す姿は一生懸命で、兵助は可笑しそうに笑った。○は何か変なことを言ってしまっただろうかと俯いた顔を上げようとしたが、その前に兵助がまた○の頭を撫でたので、芽生えた疑問は直ぐ様散った。
「百点取れたのは○が頑張ったからだろ?よくやったな、次も頑張るんだぞ?」
「は、はい…!あの、でも、久々知先輩、ありがとうございました…っ」
誉められて顔を真っ赤にしながら、○は兵助に頭を下げた。兵助はその様子を見てくすくすと笑い、○は何だか今更になって、自分がとんでもなく恥ずかしいことをしてしまったように思った。そこで二人でいるのが居たたまれなくなって、○は「じゃあ、あの、僕…失礼します…っ」と言って、立ち去ろうとしようか少々足を迷わせていたものの、「おう」という兵助の返事を聞いてまたぺこりと一礼した。
そのまま立ち去ろうとしたが、不意にまた兵助を見て、○は緊張した様子で口を開いた。
「く、久々知先輩っ、また…勉強教えてくれますか…?」
兵助は不意を突かれたような顔をしたが、すぐにまた笑って「もちろん」と返した。○はぱぁっと笑顔になり、ありがとうございますっ、と頭を下げると、今度こそその場を走り去った。
○を見送った兵助は、ハーと長い溜息を吐いた。
「あー………焦った」
「何がだ?」
「いや、私いま兵助に変装してるってすっかり忘れてて………って、うわ本人!!」
「三郎!焦ったって、お前何したんだ!変なことしてないだろうな!」
「してない!してない!引っ張るなヘアピース取れるだろう!」
兵助に変装していた三郎が来た廊下から、今度は本物の兵助が現われた。三郎が洩らした溜息によからぬことを感じ取り、兵助は髪の毛を引っ掴んで三郎を捕獲し怒鳴った。戯れ程度の怒り方だったが、変装がひっぺがされそうな三郎は必死だった。一先ず兵助は手を放したが、目は相変わらず疑わしげである。
「何もしてないって!兵助のふりして誉めたよちゃんと!」
「誉める?誰を」
「なんだ、見てなかったのか…?一年の…名字は見なかったが、○だよ。満点取ったらしくてな」
三郎は先ほどが初対面の○を思い出しながら冷静に弁解した。名前は答案用紙に書かれたものを見たのだ。状況を理解すると兵助は落ち着いたが、引き替えに何か思っているような顔を見せた。なんだ?と三郎が兵助の様子を観察していると、突然顔面に兵助の拳が飛んできた。無表情の攻撃とはまったく予測できなかった。
「何をするんだ突然!」
「俺が誉めたかったんだよ!この馬鹿!」
「ちょっ、待て兵助!!面だけはやめろ!わーっ!助けてくれ雷蔵ー!!」
「うわー!何やってるの兵助!!」
「兵助が荒らぶってる!八左ヱ門押さえろー!」
「おおお!?なんだなんだどうしたんだこれ!」
ぞろぞろとやってきた雷蔵、勘右衛門、八左ヱ門が収拾をつけようと兵助と三郎を引き離し、とりあえずは落ち着いた。兵助は不機嫌そうだったが、それ以上の攻撃は止めたらしい。ひどい目に遭った、と三郎はぐったりとしつつ、変装をいつもの雷蔵のものに戻した。五人で食堂へ向かいながら、しかし、と三郎は思う。
兵助の気持ちもわからないでもないな、と三郎はひっそりと心の中で呟いた。