正反対な彼。三









(♂夢/忍卵/黒門伝七)


翌日の朝食前、伝七は○の部屋に寄った。
戸を開けるとすでに布団は几帳面に畳まれていて、部屋を使わない用意が済んでいた。部屋を見回し○を探したが、やはりいない。
その部屋に些細な虚無を感じつつ、戸を閉めたところで、左吉が追い越していく。不思議そうに伝七を見やり、立ち止まって呼び掛けた。


「伝七、何やってるんだ?早く行こう」

「ん……うん」


名残惜しげにその戸を見ていたが、さっと軽やかに左吉に歩み寄っていった。その様子はいつもと変わりないものとして左吉の目に映り、●○の部屋で立ち止まっていた級友を特に気にするでもなく左吉は伝七と食堂へ歩を進めた。
だが、伝七の心境はまったくいつもどおりではなかった。舌打ちしたくなるのを抑えようと口の中で舌を噛んだ。


(………なんだよ)


友達がいないから、僕を好きって言うから、昨日友達になったと思ったから、
だから

わざわざ、一緒に朝食を食べようと思って、…迎えに来てやったのに。


「…ばぁか………」


俯いて囁いた言葉は、左吉には聞こえなかった。





○の朝は早かった。誰かが来る前に井戸で顔を洗い、誰かが、特に同級生が来る前に、ほとんど一番乗りで食堂で食事を済ませるのが常だった。理由は単純明快。必要以上に同級生と顔を合わせて嫌な顔をされるのを避けるためである。どんな陰口を言われて平気な顔をしていても、言葉の刄はやはり心を傷つけるのだ。本音を言えば傷つきたくはないし、更に言えば、自分がそこにいるせいで誰かに嫌な思いをさせたくはなかった。
幸いにも、他クラスには友達がいるし、親切で優しい先輩もいるので学園生活自体は苦痛ではない。

いま一番危惧していることは、伝七のことだ。昨日は言われるまま夕食を共にしたが、よくよく考えればそれは危険なことだった。もちろん、伝七の立場が、である。
自分と一緒にいることで、伝七まで同級生から嫌な目で見られるのではないかと○は思った。
できるだけ、伝七とは接触しないようにしよう、と思った。それではいつまでたっても楽しくお喋りしたりはできないだろうとは思うが、昨日話せただけで十分満たされた。それは本心でありつつも、隠れている本音もまたあるのだが仕方がない。自分が口下手だと○は自覚している。


今朝は出汁巻き玉子だった。本当はちまりちまりと一皮ずつ薄皮を剥いて食べるのが好きなのだが、学園に馴染んでからはその食べ方はしていない。時間を掛けて食べたくなかったし、他とは違うことが嫌われる対象だとはもうとっくにわかっているからだ。箸でさくさくと小分けにし、一口を作ると口に放り込んだ。美味しいが、やはり一皮ずつ剥かないと食べている気がしない。


「…ごちそうさまでした」


昼だと、伊助や先輩と同席する事があるが、朝は殆ど一人だ。寂しいけれど、誰かを待っていて結局一緒になれないとき、大勢の中でぽつんと一人で食べる方が苦痛だ。朝はやはり人が疎らな今のうちに済ませてしまうのが一番義務的で楽だ。

カウンターに食器を返す。食堂を出ようとしたら、死角の廊下から人が歩いてきていて危うくぶつかりそうになった。少しのんびり食べ過ぎたと、考え事を反省する前にピタッと呼吸が止まった。相手も同じように動きを止めた。


「…●」

「………に、任暁、くん」


○の語尾が萎むと、汚いものを見るように左吉の顔が歪む。胸にズキリと痛みが走る。怖くて直ぐ様俯いて、逃げるように二人の隣を擦り抜けた。
遠くなった○の背中を見送り、左吉はふん、と鼻をならした。


「なんだあいつ、挨拶もしないで。失礼な奴」

「…そうだな」


左吉に反応した伝七の声は不機嫌そうなものだった。左吉はそれを、伝七が自分と同じように感じているのだと思った。
だが、伝七のそれは、内心の胸の痛みを誤魔化すためのものだ。
○を傷つけたことを、まだ許されていないのではと伝七は少し悲しくなった。だけど○を追っていけないおかしなプライドが、○を拒否することでその悲しみを無理矢理解決させた。

しかし、誰にも聞かれない胸中で思った。
挨拶を出来なかったのは自分もだ、と。










「●、いいか」

伝七が○に声をかけたのは、○が昼の食事を済ませ食堂を出たところでだった。声をかけられた瞬間○は跳ね上がった。不意に声をかけられたからというのが最初の理由だが、声の主が誰なのかわかるとそれにも驚いた。

「く、黒門くん…?」

おっかなびっくりに○は伝七を見た。伝七は平素より少し険しい顔をしていて、○は何か嫌われてしまうことをしてしまっただろうかと咄嗟に不安になった。だけど、今朝自分が思考したことを思い出して、そそくさと立ち去ろうとした。それに焦ったのは伝七で、反射的に○の腕を掴んでその歩みを止めさせた。そのあとどうするのか瞬間葛藤したが、伝七は手にある腕を強く引いて廊下をずんずん進みだした。
黒門くん、と小さな声が何度か聞こえたが、伝七は構わずに長屋を目指した。

○は困惑した。いつもならば、伝七は他の同級生と教室で予習をしているのではなかったか。
捕まれた腕は痛みよりもむしろ違う熱を持って、色白の○の顔は首まで真っ赤に染まった。伝七が前を歩いていてよかった。と、同時に、誰かに見られてしまう前に早く長屋に着いてほしいと思う。


○の部屋に着くと、伝七は自分達を隠すように素早く戸を閉めた。勢い任せで繋がった手はまだそのままで、○は伝七の行動を待った。
しかし伝七は、実は目的があって○を連れ出したのではない。とりあえず落ち着いて話せるところを、と○の部屋に来たが、一体何を話すのかは自分でもわかっていなかった。ただの衝動任せの行動であった。
い組の僕らしくない、と伝七は思った。自分で起こした行動に小さな屈辱を感じ、だから理由が見つかるまで伝七は口を開けなかった。
何かがあるはずだ、と焼けるほど頭を回転させる。
○は何も言わない伝七に何かただならぬものを感じ、助け船を出したい気持ちで口を開く。

「く、黒門くん…みんなと予習しなくていいの…?」

その言葉はむしろ伝七を焦らせた。…そうだ、次の授業のために予習しなくちゃいけないのに、なんで僕は●といるんだろう。なんで連れてきちゃったんだろう。

脳裏に浮かぶのは、今朝食堂から出てきた○。連想するように教室にいる○。この部屋で泣いていた○。そして、自分に好きと言う○。

(あ…)

そうだ、と。
自分を慕ってくれる○はひとりぼっちで。
僕は。

「なんで、今朝………僕を無視したんだ」

自分の中で結論は出たのに、声になるのはそんな言葉で。しかもその言葉も、○は決して自分を傷つける返答をしないと知っているから出たのだ。ずるい、と胸が渦を作る。○は左吉が怖かったから逃げたのだ。それを知っているのに。
ずるい、と繰り返す。

「ごめんね…」

ああ、違うんだ。
謝ることはないんだ。だって●は何も悪くないじゃないか。

「僕のこと、好きって言っておきながら…」

伝七の発言に○の顔は真っ赤に染まった。○としては早く忘れてほしい事件だった。だけど自分が伝七を好きだということを、伝七がちゃんと知ってくれていることが嬉しかった。結局どうしていいのかわからず、○はもう一度「ごめんね」と呟いた。


あと少し、あと少しで、心に引っ掛かって出られない言葉が声になるのに。心の中ですら照れ臭くて、はっきりとそれを言葉にすることができない。こんなに強く溢れそうなのに。

「謝るな…」

あと少し。

「僕はっ…」



(●と、仲良くなりたいんだ)



それは心で叫び、声には成らなかった。
悔しくて、伝七は○の腕を強く握る。○は困惑して、心配した顔つきで伝七を窺った。

(僕は)


「僕も………●が好きだ」


それは適切な言葉でないように伝七は感じたが、少しでも自分の気持ちを伝える言葉としてそれが出てきた。仲良くなりたい、よりも、その方が恥ずかしくなかった。好きというのは思考の伴わない感覚で、仲良くなりたいというのは欲求だからだ。
自分の、より強い気持ちを露呈させることが、形式的な生活に填まっている伝七にはとても莫大なことだった。

○はまた顔を真っ赤に染め、これ以上ないくらい緊張した。吃りながら、「ありがとう」と呟いた。