彼方へのETUDE(後)








掴んだ腕は学生服に包まれている。
○はキョトン、とした顔で兵助を見ていたが兵助の焦ったような顔にふっと苦笑を浮かべた。
「…どうだった?」
感想を聞く○は普段兵助が教室で見掛ける○そのもので、兵助はげっそりしながら答えた。
「…心臓に悪い…」
「あはは、そりゃ役者冥利」
からからと笑う○と違い、兵助は今さっきの○が作り出した世界から抜け切れていなかった。それでも○が抜けた以上、兵助も現実へと立ち返らねばならない。
「今の、次の演劇部の芝居か…?」
問えばえ、と小さく驚いた様な応えが返る。バツが悪そうに○は頭を掻いた。
「いや、あれは…エチュード」
「えちゅーど…?」
「即興劇。まあ、すーっごく簡単に噛み砕いて言えば、…ごっこ遊び、みたいなもの…?一応アドリブに強くなるためや、他の役者との連携なんかを養うのに使ったりするんだよ」
「…アドリブであれだけ迫真の演技が出来る、なんて」
○は凄いなと素直に兵助が褒めると、○はいやあ、とへにゃりと笑った。
「あれは特別。…あれだけはね」
「そう言えば、お前さっきどうやって俺の名前を呼んだんだ?今まで○が名前を呼ぶと違和感があったんだけど、さっきはするっと耳に入ってきたぞ」
褒めるついでに違和感の理由を尋ねると、○は困ったように呻りながら兵助から離れた。
窓から入ってくる夕闇は眩しい位紅いのに、薄暗い。
落ち付いた色合いなのに胸をつく鮮やかさがある。
その中に身を置いて、○は「癖なんだ」と呟いた。
「癖?」
「そう。時々距離感が巧く取れなくなるんだよ」
距離感、と普段余り使わない単語を口の中で転がしてみる。良く分からないと首を傾げる兵助に、○が「じゃあ」と小さく笑った。
「目、閉じて」
「目?」
言われるままに兵助が目を閉じる。
少し間をおいて、「おおい、」と遠くから○に呼び掛けられた。
「目、開けて」
兵助が瞼を上げると、○は直ぐ傍に立っていた。
「なあ、さっき俺がおーいって呼び掛けたの、何処からだと思った?」
○の問い掛けに兵助は素直に、遠く、さっき○が立っていた場所を指差す。
してやったり、と○の顔が笑み崩れた。
「外れ。此処から声を掛けてたんだ」
此処から、というのは兵助の直ぐ手前、歩いて二、三歩の距離からという事か。
「これが距離感」
○は、怪訝な顔をしている兵助を納得させるように幾つか例を見せた。
兵助から離れて、大声で「おおい」と呼ぶのにそれは兵助まで届かない。
逆に兵助の傍まで来て、小声で呼んでみてもまるで遠くから声を掛けられているように聞こえる。
兵助は○が実演してみせる声と距離のちぐはぐさに眉間に皺を寄せた。
役者というのはこんな事も出来るのか、と感嘆の溜息を洩らす兵助に○は悪戯っぽく笑ってみせた。
「距離感って、結構大事なんだ。芝居なんかを観てる時にちょっと目を瞑ると、その役者の距離感の取り方が巧いかヘタか一発で分かるぞ」
「へー…」
兵助は○のしてやったりな顔をまじまじと見つめて思わず呟いた。
「という事は○は」
「それ以上言うな」
ぴしゃりと撥ねつけられた言葉にはプライドを傷付けるな、という年相応の幼い警告が込められている。
確かに○は自分で言っていた通り、距離感を取るのが下手なのだろう。だから久々知と名前を呼ぶ時も、兵助本人を素通りしてしまう。兵助が感じていた違和感はきっとそれだ。
あれ、と兵助は眉を寄せた。
「でもさっきは」
きちんと自分に届いていた。
「…あのエチュードの時は、大丈夫なんだよ」
○はぽつりと呟くと、一気にテンションを上げて兵助に喚き立てた。
「三郎なんか、酷いんだ!!俺が相手の練習の時も、容赦なくて!『お前は本当に器用に不器用な奴だな、どうして私の時だけ距離感が狂うんだ!』とか言って…!好きで狂わせてる訳じゃない!」
「そうなのかー…」
どう対応して良いか分からずにぼんやりと相槌を打てば、「そうそう!」と激しく頷かれる。
「大体あいつ絶対狡い、外面だけなら何かに成りきるとか絶対あいつの方が巧いのに、人にまでそのレベルを強要してくるなって!!いや、俺も頑張んなきゃいけないんだけど…!」
一頻り愚痴を吐きだすと、○ははぁー…と溜息を吐いてから不意に、にこりと笑った。
その笑顔に、兵助はどきりとした。
さっきの。
エチュードの中の、死にに行く○の笑顔と重なったそれは一瞬にして溶けて消え、兵助に言い知れない不安だけを残していく。
「俺はもう帰るよ」
鞄を手にして、○は兵助に軽く手を上げた。
「お前ももう帰れよ、もう真っ暗になるぞ久々知」

久々知、と○は呼んだ。
それはもう普段通りの、兵助を素通りしていく違和感のある呼び方。
だけど兵助の耳がもう少し、以前のような鋭敏さをもっていたのなら○が常に兵助より一人分後ろに声を掛けている事に気付けただろう。
兵助がもしもう少し、自分の心の機微というものを把握していたなら、胸をざわめかせるものが違和感だけではないと気付けた筈だ。
平成に育った兵助の耳は、心は、策略も騙りも全く無い安全な世界で育った為にそんな僅かな違いなど感じ取れる筈も無く。


教室から見える燃えるような夕暮れは、やがて静かに闇を幕引いた。





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(夢主が距離感を狂わせてしまうのは、同級生では雷蔵・三郎・八左衛門・兵助・勘右ヱ門の五人だけです。)

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鷲牙穴丑之丞さま
ありがとうございました!