彼方へのETUDE(前)
(鷲牙穴丑之丞さま作/♂夢/忍卵/久々知兵助/現パロ)
兵助が同じクラスの○の事を気に掛けていたのは、彼が特別に優秀だったからではない。
特別に美形だった訳でもなければ、彼の心根が優しく穏やかだからでもない。
彼は特筆する事も無い同級生だった。成績も普通、容姿も普通性格も年頃としてはこれまた平凡。三郎と同じ演劇部に所属しているけれど、兵助と○自体の繋がりはクラスメートという事だけ。
ただその声が久々知、と自分の名前を象る度に、兵助は妙な感覚を覚えていた。
○の少し厚みのある唇に久々知の名を乗せると、心の表面にさざ波が立った。
ささやかな振動は、無視するには余りに繊細に兵助の心を撫でるのだ。
そろそろと東の地平線から伸びて来た朱色の光は、晴天を染め上げるべく空を歩む。
陽光に照らされ活気に満ちていた校舎も夕暮れに浸食されて、錆びと罅割れを露出し始めていた。
委員会が終わって、兵助は教室へ鞄を取りに戻るべく廊下を歩いていた。
陽光を取り入れる為に大きくとられた窓からは、次々と赤い光が差し込んでそれが廊下の果てまで続いている。身体に降り注ぐ朱色を気に留める事も無く兵助は歩き続けていた。
途中陸上部の生徒が廊下を走っているのと擦れ違い、図書室の扉の窓から文芸部が机に向かっている様子が見えるのを横目に通り過ぎた。
リノリウムの床はきゅう、きゅうと兵助が足を踏み出す度に上履きのゴムを引き留めるような音を立てた。
委員会の定例会議では、そろそろ予算会議に提出する予算を組み立てなければならず、その組み立てで委員会は紛糾した。
どうでも良い物に使う予算を計上しようとする後輩に、役に立たない先輩。少しでも無駄な物を計上してしまえば、予算会議を取り仕切る会計委員会に必要な予算ごとばっさり切られる可能性もある。
会計委員会に付け入る隙を見せない、びしっとした予算案を提出しなければならない。兵助は決して頭は悪くない。寧ろ優秀な方だったが、些か柔軟性に掛けているとは彼の同級生である生物委員会副委員長からの言である。
しっちゃかめっちゃかになった委員会をどうにか纏め上げて予算案の骨子を作った頃には、兵助の頭は普段の何倍も酷使されていた。
頭を使えば腹が減る。
「…今日の夕飯、何だろ…」
学生寮のメニューを想像して、兵助は咥内に溜まった唾を呑み込んだ。
豆腐だと良い、近くなってきた教室のドアプレートを眺めながらそう考えた。
「…東軍が勢力を増している。どうやら此処でお別れのようだ、」
室内から朗々とした声が聞こえてきて、兵助は思わず足を止めた。
「ああ、久方ぶりの再開だというのに、どうしてこんな所で会い、去らねばならないんだろう」
この声は○だ。
そう気付いて、兵助は暫し悩んだ。
○は演劇部の部員だ。しかし今日は演劇部の練習は無かった筈だ、だって○と同じ演劇部に所属している三郎は、早々に雷蔵と帰ったのだから。
では自主練か、と判断して兵助は止めていた身体を動かして教室の扉に手を掛けた。
どうせ教室内には人などほとんど残ってやしないのだろう。自分の演技を人に見せるのが好きな三郎と違い、○は人前で演技をして見せる事など、舞台以外ではほとんど無いに等しかった。
恥ずかしいのだ、と。
彼が三郎に言っていたのを、小耳にはさんだ事がある。
そんな彼が教室内で練習をしているというならば、其処には誰もいないという事になる。
兵助だって鞄を取りに来ただけだし、ぱっと入ってぱっと出てしまえばいい。
がらりと引き戸が音を立てて、同時に○の声が止んだ。兵助の温度の無い視線と驚いた○の視線がぶつかり合う。
○は教卓の真向かいの机に、寄り掛るようにして立っていた。
丸くなった○の目は、直ぐに困ったような笑みの形に細められた。
「…やあ、久々知」
聞かれてたのか、恥ずかしいなあ、ははは。
首を傾けながら少しばかり照れている○。
久々知、と呼ばれる事に何時もの妙な心地を抱きながらも、兵助は気にするなと言おうとした。
だが、兵助の口から出たのは全く違う言葉。
「…赤いな」
「え」
「…あ、いや…」
窓に背を向けていた○の後ろから差し込む光は、刻一刻と鮮やかになっていく。
まるで○を紅く照らしだすように。
思わず自分が言った事に兵助が目をぽちくりさせていると、○が苦笑を深めてから不意にその表情を一変させた。
「赤いな、この空は。まるでこの戦を映したようだ」
普段の軽い、高い響きとは違う腹から出した声。無邪気で幼い顔をきりりと引き締めて○は久々知を真っ直ぐに見据える。
急に態度を変えた○に兵助は虚を突かれたが直ぐにああ、と合点がいった。これは演技の練習の一環なのだろう。
三郎もよく、こうして急に芝居がかった仕草や台詞を披露してみせる。
けれど○がこういった事を兵助の前で行うのは初めてだった。
○は真面目な顔のままで続けている。
「東軍はもう直ぐそこまで来ている。俺が属している西軍は劣勢だ、敗れるのも時間の問題だろう」
総大将は捕らえられて一族郎党を始め、仕えている者は尽く粛清される。
「…無論、俺も殺される」
兵助から逸らされた厳しい横顔に、思わず息を呑んだ。演技とは分かっていても○の言葉は真に迫っており、その小柄な身体から発せられる雰囲気は一種異様な程だった。
「全く、分かっていたとはいえ嫌な時代だな。兄弟がいがみ合い、その為に多くの血が流れる」
俯いた○の黒髪がさらりと一房零れ落ちた。
「ただの兄弟喧嘩で済ませてくれりゃいいものを、戦になんかするから」
○の声には自嘲が滲んでいた。結局それに巻き込まれた自分を哂っているのだと、兵助は目の前の○を凝視しながら思った。
「…」
沈黙すら、○の描く世界のリアリティを深める。
兵助の喉が、小さく上下した。
此処は高等部校舎の二年の教室で、今は夕暮れ。○は黒い学生服を着ている。自分達以外に誰もいない放課後の教室で…兵助は知らず自分達を取り巻く状況を羅列していた。そうしないと、○の醸し出している空気に飲み込まれそうだった。
夕暮れの中で、○が現実と非現実を曖昧にしている。
彼は、これ程までに実力のある演劇部員だったのだろうか。兵助は彼の演劇の才能にそれ程注意を払った事は無かった。演技に関する天賦の才能は、寧ろ三郎が持っていると思っていた。
だが現に○は今兵助を圧倒している。
○の目が、兵助を見つめたので思わず肩をはっと息を呑んだ。そんな兵助の反応を見て、○はゆっくりと目を細めた。○の瞳に浮かんでいる感情の名前。憧憬、諦観、憧れ、切なさ…どんな単語を当て嵌めてみても、兵助の中に○の瞳を彩る感情に、ぴたりと合致する言葉は無かった。
「逃げろ」
○は告げた。間違いなく、目の前にいる兵助へ向けて。
「お前はこの戦いの情勢を調べに来ただけだろう?早く逃げないと、お前まで殺されるぞ」
兵助は自分が○の演技の練習に巻き込まれたと気付いたが、演劇を齧った事など無い自分にはその後どう動けばよいのか、何を言えば良いのかがさっぱり分からない。
かといって無視してしまうには、彼に呑まれ過ぎていた。
ただ立ち尽くしている兵助に、しかし○は動揺する素振りなど微塵も見せずに演技を続ける。
「東西両軍とも、忍びの存在には敏感になっているんだ。例えお前が両軍にとって無関係だと言っても、彼らは聞き入れない。忍びと分かれば即座に捕らえられて拷問に掛けられる」
「俺は西軍の忍びだから仕方ないが、お前は…逃げろ。…皆に、よろしくな。俺は一足先にあっちにいってるって、」
「三郎には上手く言っておいてくれ。あいつは一番駄々をこねそうだからなあ、この前別の任務で会ったけど、学園にいた時からちっとも変ってなかった。雷蔵も」
懐かしそうに話す○に兵助は漸く、今彼が演じている話の粗筋が把握できた。
どうやら彼と自分は忍者という設定で、○がいる西軍は負けるらしい。兵助は戦いに無関係な忍びだが、西軍は、間もなく東軍によって皆殺しにされる。○も例外ではなく。
「…」
だからといってどうという事も出来ずぼんやりと○を見ている兵助に、○は一瞬痛みを堪えるように微かに眉を顰めたけれど、それをゆるゆると解いて柔らかく笑った。
久々知
彼は、兵助を呼んだ。
それは初めて兵助の胸の中にすとん、と音を立てて落ちた。
今まで○が名を呼ぶ度に感じていたのは違和感だったのかと、兵助はやっと理解した。
そして○が今初めて、きちんと兵助の事を呼んだと。
兵助は、胸の中にぐるぐると渦巻く感情をどう言うべきか迷い、○を見詰め返した。知らず困ったような視線になっていた兵助に、○は仕様がない子だ、というようにもう少しだけ頬を緩めた。
「お前の事、ずっと名前で呼んでみたかったよ。あの頃からずっと」
寄り掛っていた机から離れて、○は兵助に向かい合った。○は笑みを崩さなかったけれど、感情の変化は手に取るように分かる。切なさ。
○は瞳の中に沢山の感情を垣間見せながら兵助を見つめていた。
その目を見ている兵助が胸を締め付けられて苦しくなる程に、複雑で鮮烈な感情を小さな黒目の奥に波立たせていた。
やがて、その顔がゆっくりと下がっていく。深く俯いた彼が今どんな顔をしているのか、兵助には分からなかった。
「……今更呼ぶのはきっと狡いだろうから、言わない」
言わないよ。
久々知。
……久々知。
「…」
兵助は、からからになっていた喉を反射的に鳴らし、唇を湿らせてからようよう応えた。
「…なん、だ、」
○の小さな頭がゆるりと上がった。
にこりと笑う彼に、彼の背負った運命に兵助は愕然とし、動く事も出来なかった。
○は覚悟を決めていた。
「さよなら」
それは余りに呆気無い言葉だった。
恐らく、もう二度と彼に会う事は無いと互いに知っているのに、○が告げたのは永訣には相応しくない別れの挨拶。
けれど○は兵助からゆっくりと身体を逸らすと、背中を向けた。
漆黒の装束に身を包んだ○は、目の前に広がる一面の赤、戦火に、飛び散る血飛沫の先へと飛び込んで行こうとしている。
兵助は咄嗟に、その腕を伸ばした。
「駄目だ、○!!」