どこから来ましたか。四
(♂夢/忍卵/久々知視点)
暗い。どこだ?
探るように歩いても、障害物も誰かの気配もない。焦燥すべきであろうに、俺はなぜか落ち着いている。
(ああ、夢かこれは)
自覚すると夢としての実感が湧いてきた。
ふと、泣き声。
声の方を探すと、明るい窓があった。その明るさに俺の体は照らされたが、周囲は相変わらず闇。
窓に近づいて、それを見ると一年生がしゃがみこんで、こちらに背を向けて泣いている。癖のある黒髪。硝煙倉の裏で声を抑えて泣いている。その光景に、己の記憶が閃光を放った。知ってる。ここで泣いた一年生。なぜ泣いているのかも。
あれは俺だった。
郷愁に駆られて、友達を作れなくて、寂しくて、心細くて、誰もいないところを探した。泣いてるところは絶対誰にも見られたくなかった。みっともないから。自分だけ帰りたがってるなんて恥ずかしかった。
少し泣いて、すぐ戻るつもりだったんだ。でも思った通りにいかなくて、全然泣き止めなかった。
『………どうしたんだ…?』
はっとした。
声の方を見ると、現在の五年生の○。一年生の俺は慌てて涙を拭って、「なんでもない」と返した。俺の姿もお互いのやりとりも記憶のままだけど、○の年齢だけ違う。もしかしたら、このときの俺の○への印象が反映されているのかもしれない。
○は少し迷って俺の傍に近づいた。すぐ隣まで来ると俺と同様にしゃがんで顔を見ようとしてくる。俺は見られないように○とは反対側を向いた。
『泣いてるの?』
『…泣いてない』
『泣いてるじゃん』
喋ると○の年齢は退化した。一年生が二人並ぶ。
二人を見て記憶が徐々に鮮明に甦ってくる。あの時は、わかってるなら聞くな、と思っていた。でも、内心は傍に来てくれてとても嬉しかった。
○は俺の頭に手を置いて、掻き混ぜるように撫でた。俺の頭が左右に揺れる。「よしよし」と一言。
『誰にも言わないから、泣いちゃえ』
言われて、堪らなくなった俺はまた泣きはじめた。だけど郷愁じゃなくて、嬉しいから泣いたんだ。言葉が出ないくらい嗚咽を洩らして。
○はずっと隣にいてくれて、俺は安堵していた。忍術学園に入学して、その時初めて緊張の糸が解けた。
俺が落ち着いた頃に○は言った。
『ね、友達になろう?』
突拍子なく出たそれに、俺はまた泣き出しそうになりながら膝に顔を埋めて「うん」と答えた。
すごく嬉しかった。
目を開けて、ああやっぱり夢だったかと思った。
冷えた空気が陽にさらされて、朝が来たのを知った。外で雀が鳴いている。深呼吸するように息を深く吐いて、腕で額と目を覆った。寝間着の袖がずり下がって、二の腕まで冷たい空気が触れた。
夢に引き出された思い出と現われたのは、昨日の情景。
―――『別に大したことじゃねえよ』
嘘だ。
あんなに動揺して、見たことないくらい平静を崩したくせに、大したことじゃないって………。
あれは本心じゃない。何か隠してる。だけどそれを話さなかった。
もしかしたら、俺………俺たちは○に心を開かれてないのかもしれない。その直感に衝撃が大きく全身にぶつかって、だから咄嗟に反応出来なかった。きっと皆。
でもそれを言う○が消え入りそうで、辛そうで、堪らなくなって、焦って、ほとんど勢いで声が出た。
―――『っ、○!』
いつもと違う○に、喪失感に似た不安を刺激されたのかもしれない。
―――『俺たちには、言えないことなのか…?………誰にも』
○は何も言わなかった。無言は肯定………いや、違うっ。違うに決まってる。
俺たちを必要としていないなんて、嘘だ。
………それは事実じゃなくて、願望だけど。
だってずっと仲良くしてきた。信頼してるし、心を開いていた。きっと○だって。
いや、それこそ願望だ。
俺はただ○に頼りにされたいだけだ。
だからショックだった。○を追い詰めているものが何か、話してくれなかったのが。
………………。
「○………」
あの時救われた恩をいつか返したいと思っているのに、俺が○にしてあげられることなんて足しにならないくらい些細なんだ。○が本当に困ってるときに助けてあげられない。
だから言わないのか?
あの時○がしてくれたみたいに、一緒にいてあげることすら、俺にはさせてくれないのか。
泣きそうな顔してたくせに。
布団から起きて仕切りの向こうを覗くと、勘右衛門はまだ眠っていた。心の奥の方で俺はホッとして、引っ掛かっていたものがするっと出るように思った。
○に会いたい。
誰にも言ってはいけないような気がした。布団を畳んで早々に支度をすると、顔を洗った足で○の部屋に行こうと手拭いを持った。
起きている奴はいるかもしれない。だけどまだ誰も縁側に出ていないし、井戸に来てる奴もいなかった。
ふと、○は起きているのか初めて考えた。いや、そもそも何故会いたいんだ。
昨日のことを問い詰めるためでは、ない。話してくれないことは胸に痛いが、無理矢理話させてもそれは相談じゃない。
起きてから時間が経ち、顔を冷水で洗ったせいか頭が冴えてきた。そして、先ほど布団の中で考えていたことは少々混濁していたと気付く。
会いに行く理由はないのではないか。
その場に立ち止まり幾らか考えたが、何も出てこない。やがて考えることは諦めて、俺は衝動に任せた。
理由はいらない。顔が見たい。声が聞きたい。それで十分だ。
何も考えずに来たせいか、○の部屋を前にして緊張してきた。口が渇いた。唾を飲み込んで、唇を開く。
「○?」
返事を待ったが応答はない。寝ているのか、と戸に聞き耳を立てて気配を探る。………いる。
入るかどうか迷ったが、何度も出入りした部屋だ。無礼とは思いながらも戸を開けた。敷いた布団が目に入り、ほとんど布団の形を崩さず○は寝ているのが見えた。昨日俺たちから逃げるように帰ったなんて嘘のように安穏とした寝顔だった。それを見て少しホッとする。
「○………」
触れたら起きるだろうか、と。
思った後に`何故'と浮かんだが、どうして触れたいのかなんて一瞬前の自分に聞けと思った。
少しでも近しくなりたい。
○の心を知りたい。
髪に触れると、絹糸のようにサラサラだった。
「…ぅ……」
指が肌に触れると○の眉間がぴくりと痙攣した。そのまま指先で額や頬を撫でるとくすぐったそうに顔を背けた。忍たまのくせに、触れても起きないなんてどうかしてる。
顔が向こうを向くと綺麗な首がさらされた。そういえば、○の女装は綺麗だったと思い出す。首に指を這わせると高い体温を感じた。皮膚を指で観察するように、喉仏や筋やまっさらなところに無遠慮に触れた。耳の後ろや顎骨をなぞり、だんだん頭と焦点がぼんやりしてきた。襟足に触れていると、○の体がぴくりと仰け反った。俺は反射的に手の動きを止めた。やがて吐息と共に○は元通りに布団に体を沈めた。
俺は何かを考えたのかそれともその逆か、すくい上げるように首をなぞって押えるように顎に触れた。親指を伸ばし下唇を開けさせた。柔らかい。口の中に親指を入れると爪が歯に当たった。上下の歯の間にそのまま親指を差し込み押し込んだ。関節を通り過ぎると舌に触れた。
吸ってほしくなった。
そこまでして、自分のしていることが常軌を逸していると気付いて指を抜いた。指先が唾液で濡れていたから手拭いで拭いた。
○の体が収まっていない部分の布団の端を枕にして横になる。
変だ。
しばらく目を閉じて擬似的に睡眠した。目蓋を下ろしているだけで意識があるまま睡眠している気分になる。
ふと、動く気配で目を開けた。起きたのか?
体を起こすと○は寝転がったまま伸びをしていた。微睡んだ目がこちらを向き視線が合う。そしてぱちくりと見開き硬直した。
「…へいすけ…?」
寝起きの声が響き籠もって聞こえて、少し色っぽかった。
「おはよう」
「……うん」
茫然としてしばらくそうしていたが、○は冷静になったようで「どうした?」と尋ねてきた。それはいつもと同じ調子で俺は緊張が解けた。今朝は夢から引き続いて緊張と安堵を何回も繰り返してる気がする。
「会いたかったんだ」
「………変な奴」
教室行ったら会えるのに、と呟く○がいつも通りで、嬉しくて、俺は布団の上から○の胸に覆いかぶさった。まだ眠そうな声で「よしよし」と言いながら、俺の頭を撫でる○に、満たされてる俺がいた。