逆トリップして来た槍のスパダリ力が極まってて困ってます | ナノ


  槍に願いを



 もうすぐ夜が明けるのだろう。カーテンの隙間からほんの少し覗ける空がかすかに明るんで見える。
 草木が芽吹く季節。弥生、桜月。青々しい暖かな雰囲気を想像出来そうな名のつく月ではあるがまだ三月も上旬。まだまだ早朝は肌寒く、布団に守られていない顔が随分と冷え切ってしまっている。御手杵がぴったりとくっついている背中は流石にぽかぽかと暖かいままであったが、如何せん頬が冷たくて仕方がない。身を縮込めるようにもそもそと布団を深く被ればぬくもりを移してやるかのように背後から軽く抱き寄せられる。まだ起きるような時間では無いのだけれど身動ぎしてしまったせいで起こしてしまったのだろうか。それとも暖かな湯たんぽが離れていくと勘違いし逃がすまいと手を伸ばしたのか。
 気になるところではあるが御手杵が目を覚ましているか向かい合って確認出来るほどの勇気はない。
 今は朝方の何時くらいだろうか。身体に重しのように乗っている御手杵の腕をかいくぐってスマホに手を伸ばすことも出来ず正しい時間を把握しきれないまま、まだもう少し眠っていられるだろうかとまぶたを再び静かに下ろす。眠りの世界に引きずり込まれるまま深く深呼吸をするとここ数日で覚えた御手杵の香りが鼻腔を擽る。
 思えば、御手杵が我が家に現れてから今日で早一週間が立つ。満たされる日々というものは本当にあっという間に過ぎていってしまうもので。


 この一週間なにもせず日々を過ごしていた訳では無い。毎日仕事があって力にはなれないとは言え、自分の本丸を開いて何か起こらないか試したりした。
 結果から言ってしまえば何も起こらなかった訳だけれど。アプリを立ち上げれば本丸には繋がるし遠征も内番も出陣も滞りなく行える。ただ一つ変わったことといえば、やはり本丸に御手杵の姿だけがない。本丸に繋がれば何かしらの手がかりか連絡手段でも手に入るのではないかと踏んでいたがその希望は泡と消えてしまった。

 帰って欲しくないがなんとか帰してあげなければいけない。それこそこんなイレギュラーに巻き込まれていつの間にか御手杵が刀壊扱いにでもなっていたら一大事くらいじゃすまされない。そんなことが起きれば私の心もぽっきり折れてしまうことだろう。
 御手杵の主は私で、御手杵の為にも早く帰る方法を見つけてあげなきゃいけないんだろうななんて考え事をしながら眉間に力を入れていると不意に耳朶へやわらかな感覚がぴとりとくっつき思わず「ひっ」と息が漏れる。
 耳の軸のすぐ裏辺りに、羨ましいほど筋の通った高い鼻の先が押し付けられているのがわかる。静かな呼吸を規則正しく繰り返すたびに息が弱い部分を掠め、腰の辺りが変に疼く。素っ頓狂な声を上げてしまわぬよう咄嗟に両手で口を抑え息を押し殺す努力も虚しく無遠慮に寄せられた御手杵の顔が隙間など無く後ろ首に押し付けられてしまい心臓が飛び出さん勢いで激しく跳ねる。
 誰か助けてくれ!と叫び出したくなりそうになった頃、耳のすぐ側ですぅと深く息を吸いこむ音が聞こえ、首の薄い皮の上に唇が触れた。

「ぅあ……ッ」
 顔が茹だるように熱い。起こしてはならないと言う親切心から耐え忍んできたが遂に甘ったるく、自分のものでは無いような気持ちの悪い声が出てしまった。半ば身を震わせながらされるがままにさせていると今度はその首の薄皮に乗せられていた唇がちぅと軽く吸いついて来て「うひぃ!!?」なんて色気がさっぱりない悲鳴を上げる。

「お、おてぎね!!起きてるでしょ?!」
「なんだバレたか」
「バレたかじゃないよ!!なにしてくれてんの…!?」
「途中からいつまで耐え忍んでるもんかと試して見たくなったんだが案外長いこと頑張ってたなぁ」
「んなっ…!?」
 ひ、人がせっかく起こさないように必死に気遣っていたと言うのに随分と酷いことを言う!
 この槍は…!!と恨めしくなり、こんな男と一緒の布団に居られるかと出ようとしたら首根っこを掴まれ「まだ起きるには早い。もうちょっとゆっくりしてなよ」と中に引き摺り戻される。貴方の側に居たら心臓が持たないから出たかったんですけどね!

 いつまでも背後を取られていたらなにをされるもんかたまったもんじゃない。せめてもの抵抗として向かい合うように寝転べばこれでもかというほど目元を優しげにとろりと溶かし、柔らかな表情で微笑む御手杵が目に入ってしまいなんだか居た堪れない気持ちになる。蕩けたチョコレートミルクの甘さに毒されないうちに御手杵の眼差しから逃れるよう鈍い朱色のTシャツへ視線を落とす。

「んぇ、?」
 しかし、落としたはずの視線は御手杵の大きな手で覆われた両頬の感覚のせいで掬いあげられてしまった。視界まで覆われてしまいそうな御手杵の手の平。そして節がしっかりとしていて、自分のそれよりすらりと長い指先が頬、瞼、鼻、耳、顔を形成するパーツひとつひとつをぺたぺたと触り倒してくる。
「なにふんのおひぇぎね」
「んー」
 むにむにと頬を撫でくりまわしたかと思えば次は首、肩、と順当に下がっていく。本当に、何がしたいのか読めずただただ困惑するままその様子を眺めていると今度は胸、お腹周りまで無遠慮に触り、両手で輪っかを作るかのようにしてウエストをがっちり鷲掴みなにかを思案するように動きが一度止まる。
「ちょ、ちょっと…!!」
 服の上からとは言え流石に女の身体をまさぐるのは如何なものかと声を上げて見るもその御手杵の瞳は揺らがず、何処か真剣に此方の身体を頭の先から足の先まで食い入るように観察していた。そして何かを探し当てようとでもしているように見える御手杵の手の動きは留まることを知らずついには太腿にまで手が伸びてきた。こしょばゆい感覚に身を捩らせ、布団の中で引け腰になっていると片方の腕が腰に回されぐいと引き寄せられてしまう。逃がすものかと伸ばされた手の大きさと強引さに大きく鼓動を震わせていると空いている方の手が内腿の上を滑り、ついに我慢の限界に達する。
「お、御手杵!!!」
 叱りつけるような声色ではあるものの、おっかなびっくり叱りつけているものだから情けなく声が震えている。ぞわぞわする妙な感覚に息が、手が、震えてしまいほんの少しだが目尻に涙すら溜まっている。
 ふう、ふう、と息絶えだえながら御手杵の手首を掴んで止めれば「あ、」と短い音が目の前の男の口からぽとりとこぼれ落ちる。
「悪い、つい夢中になっちまって、…怖かったか?」
「こ、こわいっていうかなんていうか……」
 罰の悪そうな顔をする男と、思わず膝を擦り合わせたくなってしまいそうな妙な気持ちにさせられた女が布団の中で見つめ合う。もっとも、御手杵の方は此方の気持ちにこれっぽっちも気付いていないようでちょっとばかし安心するような残念なようななんとも言えない感情に苛まれる。
「いや怖かっただろ、男に身体こねくり回されてさ。」
「いや、…あー、うん…」
 べつに、御手杵だから嫌だとは思わなかったよとは口が裂けても言えるはずがなく曖昧な音で言葉を濁す。するとそれを肯定と受け取ったであろう御手杵はへにゃ、なんていう効果音をつけたくなるくらい情けなく、眉を八の字に下げてこう言うのだった。
「ごめんなぁ。別にあんたに酷いことしようと思ってたわけじゃないんだよ」
「うん…」
「許してくれるか?」
「許すも何も怒ってないよ」
「…俺が言うのもなんだが、こういうときは怒った方がいいと思うぞ。」
 酷い男に付け込まれたらどうするんだ。なんて娘を心配するお父さんみたいな口調で言うから思わずくすりと笑ってしまう。
「そんな私に好き好んで触れようとしてくる物好きな男の人いないよ。」
「あんた今さっき俺に触られたの忘れてないか…」
「はは、たしかに、そう考えたら唯一の物好きは御手杵だなぁ」
「………なんかすげぇ心配になってきたんだけどもしかしてアンタ今までもこうやって好きに触らせて来てやしないだろうな」
「まさか。御手杵だけだよこんなことするの」
「俺はいいのかよ」
「御手杵はいいんだよ」
「なんで?」
「御手杵は、」
 私の好きな人だから。そう言いたかった口の形を慌てて歪ませ、正しい答えを咄嗟に選ぶ。
「御手杵は大事だからいいの。たぶん、御手杵になら何されても許しちゃうかもなぁ」
 誤魔化すように、飼い主が愛犬を愛でるように。下心など微塵もないように見せつける撫で方で御手杵の髪をわしゃわしゃと掻き回してやる。
「何されても、ね」
「御手杵も、割と何しても怒んないよね。こんな髪ぐしゃぐしゃにされてもなんも言わないし」
「アンタに触られんの気持ちぃからな」
「きっ、…そ、そっかぁ………」
 撫で回していた手を、すっぽりと隠してしまうくらい大きな御手杵の手が重ねられる。
「ほら、もっといっぱい触ってくれよ」
「ぅえ、っ?」
 自分が好き勝手する分にはいいが、当の本人から触ってくれと強請られると途端にいけない事をしているような気持ちになってきてしまい動きが止まる。
「そんで、ちゃんと俺がどう在ったか覚えてて」
 願うように伏せられた瞼。触れられることを望んでいるのだろうか。私が、御手杵の肌に触れてもいいのか。色々考えあぐねるままに手を止めていると重ねられていた御手杵の手が触ってくれと言わんばかりに頬へ誘導してくる。恐る恐ると言った感じではあるが先ほど彼が私にしたように頬やおでこ、目鼻立ちがくっきりとしていて彫りの深い顔をくまなくぺたぺたと触ってみる。耳を型どるその縁を指先でなぞれば「くすぐってぇ」とおかしそうに喉を鳴らしてみせる。大好きな御手杵の低い声が耳に響く度上下する喉仏の出っ張りをそっとなぞればびくりと身体が振れ、反射的にこっちまでびくりと身を震わせてしまう。
「ご、ごめん…?」
「いや、いいけどさぁ……あんま変な触り方するなよ」
「んなっ!?そんな触り方したつもりないんですけど…!!」
「もっとこう……がっ!と触りなよ。おっかなびっくり触られっと変な感じする」
 変な感じ、とは、つい先程自分が味わった感覚と同じものをさしているのだろうか。
 もしそうだとしたら、なんて邪な考えが喉奥の水分を全て奪い去っていく。恥ずかしついでに半ば無理やり力強くぺちぺちと音が立つくらい軽く叩いたり耳たぶを抓ったりしてやれば今度は「いでで」と情けない声が聞こえてきてなんとか平常心が取り戻される。
「なんか思ってたのとちげぇ」
「知りません」
「あ、冷たい言い方すんなよ傷付くぞ」
「どうぞ」
「もっぺん全身まさぐってやろうか」
「っ!?セクハラで訴えるよ!!」
「セクハラじゃなくてすきんしっぷって言ってくれ」
 この数日で横文字を結構覚えたもんだなと感心していればまたぎゅうと抱き寄せられ、御手杵の存外分厚い胸板に顔を押し付けてしまう羽目になる。
「…これもちゃんと覚えててくれよ」
 とくん、とくんと、鋼の身体の奥で、確かに今ここで御手杵が生きている音がする。誰がなんと言おうと、もし仮に、御手杵といた記憶が奪われようとも。今此処で、私の目の前で御手杵が生きていたことは紛れもない事実で、この記憶は私だけのもので。歴史を守る為にある刀剣男士の主としては失格かもしれないけれど歴史の渦にこの記憶を呑まれたくはないなと、そう思った。
 御手杵が此処に居て、私に触れて、私を主と呼んでくれたこと。それが『有り得ない』というのが正しい歴史だとしてもこの事実を誰にも奪われたくないなぁ。ああおかしい、私はこんなにも涙脆い性格をしていただろうか。じんわりと滲み始める視界を誤魔化すように御手杵の臙脂色に顔を擦り寄せ、少し皺になるくらいシャツを握り締めれば規則正しい心音がほんの少し駆け足になっていく。
「まだ目覚めるには早い、」
 寝ちまえよ。大丈夫、ちゃんと時間になったら起こしてやるからさ、
 穏やかでずっと聞いていたい御手杵の囁かな低い声がぽそりと呟かれる。好きな人に抱き締められて好きな人の声で起こされるなんて贅沢なこと、あっていいんだろうか。自分の気持ちを蔑ろにし、向き合うことから逃げている私には不釣り合いな程幸せで。また御手杵が居なくなったあとのことを考えて怖くてたまらない気持ちになった。目尻から零れた涙が頬を伝うことなくTシャツに滲んで行った。そのせいで泣いていることを御手杵には気付かれてしまったかもしれない。ずっと言えないでいるけれど、私も御手杵にこうして頭を撫でられるの本当は心地よくて、好きでたまらないんだ。


(いつか、貴方に好きと伝えられる日が来たら。なんて淡い期待、抱きたくないのにいつまでも捨てきれずにいる。)





 ◇



 夜明け間近の出来事は夢幻だったのだろうかと疑いをかけてしまいたくなるほど御手杵はいつもと変わらない様子で朝を過ごしていた。約束通り控えめに肩を揺すり、私を眠りから覚ましたあと、カルガモの親子宜しく後をとてとてと着いてきて洗面所に横並びで歯を磨く。顔を洗ったあとはお母さんとおばあちゃんと一緒に朝食を取り、頬杖をつきながらTVを見る振りをして軽くメイクを施す私の方へ熱心な視線を送る。
 そしてほぼ日課とかしているお見送りの為に玄関まで足を運ぶのだ。

「あ、待って忘れた!」
 靴を履き、さぁ今日も憂鬱な一日が始まるぞと意気込んですぐ、忘れ物をしていることに気付く。たしかあれは部屋のテーブルの上に置きっぱなしにしてしまっていたはずだ。

 どうせすぐ戻るしと言い訳をして乱雑に脱ぎ捨てた靴を揃えもせず家に上がり、真後ろでお見送りの準備をしていた御手杵の横を「ちょっとごめん」とすり抜ける。
 駆け足で階段を駆け上がり、先程まで横になっていた布団のすぐ横にあるサイドテーブルの上を見遣れば、予想通りぽつりと取り残されたお目当てのものが。
 今日の業務に使うものだから職場に着いてから気付かないでよかった。危うく二度手間になるとこだったと胸を撫で下ろしているとぱたんと静かにドアが閉まる音がした。
 音が聞こえた方を振り返ると御手杵が立っており、わざわざ着いてきてくれたのかと頬が緩みそうになる。心配しなくてもすぐ戻るのにと思っているとかちゃりと後ろ手に鍵をかける様子が見え、頭に疑問符が浮かび上がる。

「どうしたの御手杵」
 サイドテーブルの横にしゃがみ込んで居たおかげで、立ち上がるとほんの少し立ちくらみがした。すると視界が多少揺らいでいる数秒の間にすぐ目の前まで来ていたらしい御手杵が視界に現れ驚いてしまう。
 大して距離を開けず目の前に立たれると御手杵の顔が見づらくて仕方がない。これだけ身長差があるとほんとに首が痛いなぁなんて呑気に思いながら真上を見上げていると後頭部に手を回される。
 また髪を撫でられるのだろうなとおおよその予想はついていた。
 自分で言うのもなんだが御手杵は私の髪を触るのが随分とお気に入りらしい。
 受け入れていると優しく髪に触れられる、と思ったが髪は梳かれることなく、大きな手のひらがこちらを支える。いつもより強引に引き寄せられる。片方は頭を支えもう片方は腰に手を回される。
「おて、」
 ぎね、という音は私と彼の呼吸に飲まれる。自分のより幾分か大きな口がこちらの唇の動きを止めてしまったのだ。御手杵にキスをされた。そう理解出来るまでに数秒かかってしまった気がする。
「んぅ…!?」
 驚きのあまりあんぐりと口を開けようとしたのが悪手であった。ぬるりとした舌の生々しい感触が中まで侵入し、自分の舌先を攫っていく。先っちょを誘うように擽られたかと思えば自分のより幾分か分厚いそれが此方の舌を絡め取り、ぴちゃりと音を立てながら嬲られる。腰に回された手は身体を支えるばかりでやらしく撫で上げたりしていないのに、背筋の弱い部分をつぅと指先の皮でするりと撫でられるような感覚に襲われる。

「ふぅ、っ…」
 未体験の感覚に、襲われ自分がどういう状況に置かれているのか理解するまでに時間がかかる。
 くちゅりと耳を塞いでしまいたくなるほどの水温が脳を痺れさせ、正常な意識を奪っていく。甘すぎる甘味を食べた時のように歯奥の神経がじんとして力が抜けてしまいそうだ。
 頬は発火しているのではないかと疑ってしまうほど熱い。
 気持ちいい、苦しい、恥ずかしい、様々な感情がごちゃごちゃになって、一刻も早く開放されたい気持ちでたまらなくなった。
 ぎゅっと目を瞑り襲い来る『未体験の気持ち良さ』に耐えているのを何とか辞め、そろりと瞼をこじ開ければ、当たり前のことではあるのだけれど整った御手杵のご尊顔が目の前にありこれまた悲鳴をあげそうになる。その悲鳴も、上げることは叶わなかったけれど。どんどんと胸を叩き、訴えるような目線を送れば伏せられていた瞼が持ち上がり甘さの増したハイミルクのチョコレート色をした双眸が此方を捉える。
 話せない代わりに身を捩り「ん、ん!」と喉の音を微かに鳴らして
 離して欲しいことを伝えてみるも非情なことにその訴えは受け入れられることはなく。収まる所か余すことなく堪能するように、丁寧に丁寧に、口内を余すことなく蹂躙していく。

 身体の力なんてとうに全部抜け落ちているはずなのに御手杵の逞しい腕が見事に支え、へたり込むことすら許されない。
 抵抗の意を示すため唇を柔く噛む。すると溶け合ってしまうのではないかと錯覚するほど近くで目を閉じることなくこちらの様子を見ていた御手杵の瞳が細められ、ふと微笑むような形をとる。
 まともに吸える酸素なんてなくて、臙脂色のシャツをくしゃりと握っていたはずの手はいつの間にか力を失っていた。生理的な涙のせいで歪む世界の中でこくりと、彼の男らしい喉が動くのが見えた。御手杵と私、間違いなく二人分の唾液を呑まれたのだ。熱い頬が更に羞恥でかっと熱を帯びる。
 ほんの少しの呼吸の為一瞬離れていった唇が再び重ねられる。もう見ていられなくて今度は舌の動きに好き勝手されないようがぶりと思いっきり下唇に噛み付いてやった。

「っは、ぁ…」
 とん、と御手杵を突き放し(もっとも力なんて入っていなかったから実際は手を少し添えた程度だったかもしれないけれど)肩で息をして、睨み付ければほんの少し唇が切れてしまったのだろうか、御手杵が口元を面倒くさそうに親指で拭っていた。戦で受けた傷はこんなもんじゃすまないかもしれないが御手杵の傷付いた姿を見たのは、これが初めてか、なんて現実逃避めいたことを思ってしまう。手入れ、してあげるべきなのかなぁ。ああでも手入れの仕方なんてさっぱりわからないから治してあげられないのかもしれない。
 自分の唇を軽く噛めば血の味がした。御手杵の味だ。
 鋼で出来た身体を持つ御手杵と人の身を持つ私は全くの別物の筈なのに、その内に流れているものは同じなんてなんだかおかしい。

「大丈夫か」
 大丈夫なんてものではない。身体を支えていた御手杵から開放されるとへにゃりと床にへたりこんでしまった。深く沈んで遠くなってしまった距離感を埋めるかのように御手杵は長い脚を折ってしゃがみこむ。
「はじめてがこんなのなんてあんまりだ…」
「へぇ、そりゃいいこと聞いた」
「反省して」
「主の歳で口付けもはじめてとはな」
「反省!して!!」
「あ、いや、別に馬鹿にしてる訳じゃなくて!……ただ安心したっつーか希望が見えたっつーか…」
「なにもにょもにょ言ってんの?乙女の唇奪った罪は深いからね」
「乙女っていう歳かぁ?」
「怒るよ?」
「悪かったって。ちゃんと責任取ってやるからさ、」
「…あのねぇ、ずっと思ってたけどそういうことあんま軽々しく言わない方がいいよ」
「軽々しく、言った覚えはないんだけどなぁ…」
「嘘ばっかり」
 頬をかいて眉を八の字にしてみせる無自覚でタチの悪い女…いや、人たらしにじとりとした疑いの眼差しを送ってやる。
「なんのつもりか知らないけど女の人に興味本位でこういうことしたり、過度にスキンシップしたら駄目だよ。」
 教育の仕方何処で間違えたかなぁと気を遠くしていると「…責任取って欲しいくらいだなぁ」と首を掻きながら言う御手杵。うん、見事に話聞いてないね。

「立てるか?早く行かないと遅刻するぞ」
「それ御手杵が言う?」
「いや全くだ」
 手を差し伸べ軽く笑う御手杵の穏やかな顔を見ただけでされたこと全てに対する言及する気も失せ、もうなんでもいいかとすら思ってしまう辺り、私は相当御手杵に惚れ込んでいるのだなと自分で自分に呆れてしまう。御手杵の大きな手に手を重ねればぐいと頼もしい力で引き上げられる。までは良かったのだが、
「うわぁ!?」
「よし、行くぞ。主、落ちるなよ」
 ぐんと胃が不意に持ち上がるような慣れない感覚。またしてもデジャブだ。
「落ちるなよ、って!ッぎゃーーー!?おち、落ちる!!せめて階段は歩いてよ!!」
「っはは!ぎゃーって…すげえ声だな」
「笑い事じゃないよ…高所恐怖症なんだから勘弁して…」
 絶叫する私がツボに入ったのかからからと声を上げて笑う御手杵。前触れもなく人を俵担ぎにしたかと思えばあっという間に玄関まで駆け下りて見せた。
 死ぬかと思った…とぐったりしながら地に足をつけると「俺があんたを落とすわけないだろ?」さも当然だと言わんばかり返されるからまた心臓がどくりと不規則に揺れる。

「ほら、早く靴履きなよ。遅刻するぞ?」
「いやだから、御手杵のせいなんだけど…」
「そうだよなぁ、」
 俺のせいだ、
 ぽとりと零された一言が何処か引っ掛かり後ろ髪を引かれる。
「御手杵…?」
「どうした?」
 どうしたは此方の台詞だ。靴を履き、振り返って御手杵の顔を見れば今にも泣いてしまうのではないかと心配したくなるほど目元に力が入り、眉間にもぐっと皺が寄せられている。
「御手杵、」
 もしかして彼は、
「ああもう、気付いてくれるなよ…」
 先程まで遅刻するぞと急かしていたのとは打って変わって、今は引き止めるようにぎゅうときつく抱き締められる。息苦しいのはなにも抱き締められているからという理由だけではない。もしかしてという当たって欲しくない、信じ難い嫌な予感は、彼の様子を見るにどうやら物の見事に当たってしまっているらしい。冷静になって思い返してみればそうだ。朝方のおかしな様子の御手杵も、別れを惜しんでいるが故の行動だと思えば辻褄が合う。
「鈍いくせにそういうことは察しがいいんだから参るよなぁ」
「私結構察しがいい方だと思うんだけど。ねぇ、御手杵」
「早く行かないと遅刻するぞ」
 ねぇ、そういうんなら、離せるでしょう?でも私の身体を抱きしめて離そうとはしないのは御手杵がもうすぐ、在るべき場所に帰るからで。
「いいよ遅刻くらい。ちょっとくらい許される、」
「随分らしくないことを言うんだな」
「だって…だって、御手杵今日…!」
「言わないでくれ」
 帰るんでしょう、本丸に。そう尋ねたかったのに、その言葉は御手杵の縋り付くような弱々しい声に覆い隠される。
「言霊ってさ、結構ほんとにあるんだよ」
 両肩にそっと手を添えられたかと思えばぴったりとくっついていた距離が名残惜しくも離される。こうも身長差があっては腰を折るにもしんどいだろうにわざわざ目線を合わせ、子供を諭すようにこう言うのだった。
「だから、頼む。言わないでくれ。どうか、気付かないふりをして欲しい」
 頼む。念を押すように、切羽詰まった様子で頼み込まれては断る理由などない。
「ねぇ、やっぱり私今日仕事休むよ」
「だめだ」
「やだよ、ねえなんで?いいでしょう一日くらい」
 だって今日がお別れの日なんでしょう。今ここで御手杵と離れたらもう二度と会えないかもしれないってことじゃない。その訴えも声に出すのをぐっと堪え、ずっと自分から触れようとしなかった御手杵の手をようやっと握ってみせる。
「ずるいなぁあんたは」
「ずるいのは、御手杵の方だよ…!」
 ずるい。どうせ消えてしまうなら私が知らないうちに急にいなくなって欲しかった。嘘、言って欲しい、さよならくらい言わせて欲しい、いやちがう、そもそもさよならを言う日など来なければいいのに。様々な思いが混じりあってうまく言葉を口にすることが叶わない。言いたいことも、頭の中も、もうぐちゃぐちゃだ。泣きたくもないのに涙が溢れる、嫌だ、行かないで置いていかないで、そう言いたいのに喉がひくついてなんの言葉も話せないのが歯痒い。
「今日休んだとして、どっちにせよあんたは『いつも通り』に戻んなきゃならない。」
 なら、それは早い方がいい。大丈夫また明日からいつも通りに戻るだけだ。
 諭すように言う御手杵のチョコレートミルクの瞳の上にはつるりとした薄い膜が張っている。
「や、だ…」
「我儘言うなよ」
「やだ…!やだぁ…!」
 いい大人がみっともなく泣き喚き、背伸びをして御手杵の首に腕をかけ、縋り付くように抱き締める。今どき、保育所に預けられる子供と親でもこんなやり取りしないだろうなんて冷静な頭の自分は呆れるが冷静でなんていられないのだから体裁なんて二の次だ。
「あんまりかわいいことしないでくれ…」
 離せなくなる、
 独り言のように吐かれたその低音が耳のすぐ側で聞こえた。一方的に縋り付いていた私の背に御手杵の腕が周りそっと力が込められる。そのままずっと離さないでよ、ずっとそばに居てよ。本心が言の葉を紡げないかわりに大粒の涙がぼろぼろと私の元を離れていく。
「主、俺の目を見て」
 見上げれば、もう幾度となく涙を無理やり押し戻したのかほんの少し赤い鼻先と充血してる目が見て取れる。御手杵の姿を目に焼きつけるため、邪魔になる涙をぐしぐしと袖口で乱雑に拭うとそっと指先でなぞられる。
 おでことおでこがこつりとくっつく。いつもだったら近いと喚き、顔を張り手で押し退けているような近しい距離。
「覚えて。忘れないで、ずっと想っていてくれ、俺の事」
「…っ」
 うんうんと首を縦に振るだけで精一杯だった。とめどなく流れてくる涙のせいでもうずっと頭がふらふらする。
「俺も主のこと、ずっと覚えてるからさ」
 ふと力を抜き、頬を緩ませ困ったように笑う御手杵の顔を、声を、目に、耳に、脳に焼き付ける。
「時間だな、」
 身体の暖かさが離れて行き、くるりと外を向くように身体を半回転させられ両肩に手を添えられる。
 いつの日だったか、さぁ行った行ったと背中を押して送り出してくれた時のことを思い出す。たった数日、たった一週間。それだけの事なのに、ぜんぶ、全部、私の中で鮮明に覚えている。
 玄関を出たら、もう御手杵には会えない。そう思うと踏み出す一歩が鉛でも付けられているかのように重く、動かしたくない一歩だった。
「いいか、名残惜しくなっちまうからもう振り向くなよ」
「……わかったよ」
 物分りのいい振りを必死に取り繕った。これ以上御手杵の枷になりたくはなかったし、面倒も迷惑もかけちゃいけないと思ったから。明日からは御手杵が居なくてもちゃんと生きていかなきゃいけないんだから、だからいつまでも良い年した大人が子供のようにわんわん泣いてなどいられない。
 まだ出てこようとする涙を落ち着かせるため深く息を吸い込み、呼吸を整える。だいじょうぶ、いつも通りに戻るだけ、いつもの日常に戻るだけだ。そう自分に言い聞かせ一歩を踏み出す
「―――名前、好きだ」
 その大好きな声で名前を呼ばれたのは二度目の事だった。
「いってらっしゃい、もう振り返っちゃ駄目だぞ」
 くしゃりと頭を撫でられ、背中をとんと押される。ああもう本当に、最後まで私を滅茶苦茶にしてくれる。
「御手杵のばか…!…いってきます……っ…またね、」
 言霊はあると、神の端くれである彼が言ったから。神頼みのつもりでまたと願った。鼓膜にはまだ、自分の名前を呼び、残酷にも好きという呪いの言葉を吐いた御手杵の音の葉がこびりついていた。


 その日、腫れぼったい瞼のまま出社したおかげか遅刻したことは特に咎められず。
 ただ、いつも通り淡々と仕事をこなし、くたびれた身体を引き摺って家に帰っても、玄関先に腰掛け「おかえり、待ってたぜ」と出迎えてくれる御手杵の姿はなかった。彼は消えない枷を私に勝手に付けて、憎くも自分だけ綺麗さっぱり姿を消したのだ。



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