逆トリップして来た槍のスパダリ力が極まってて困ってます | ナノ


  勿忘草の懇願



 昨日酷い思いしながら頑張ったし今日こそはきっと良い一日になるだろう。そんな甘い考えを抱いた私が馬鹿だった。ただでさえ二日目でお腹は痛いのに、まともに休む時間もあまりなく、けれど舞い込んでくる仕事の量は増える一方。そんでもって極めつけには遠回しで粘着質な嫌味を含んだ「仕事が遅い」と言うお小言まで頂いてしまった。最悪な一日のテンプレートを一から十まで全てこなしたような日だった。それでも泣き出さず文句も言わず、残業までこなせたのは確実に『家に帰ったら御手杵が待っているから頑張ろう』と呪文のように唱え続けたからだろう。オタクなら誰しも、推しの為なら頑張れる。今日も今日とて人生を推しに支えられているなと強く実感すると共に感謝を込め、心の中で御手杵が待っているであろう家の方向に向かって合掌する。

「お疲れ様でしたー」
 早番の筈だったのに今日も外に出たら日が傾いてるのはなんでなんだろうな。悲しい気持ちになりながら会社を出て息を吸い込めば、だいぶ冷え込んできた夕方の空気が肺を冷やしていく。
「あれ、苗字今帰り?」
 やっと職場から開放されたと肩の荷を降ろし、車の鍵を探しながら駐車場までの道を歩いていると会社の中でも価値観が合うまともな先輩の姿が。
「あ、お疲れ様です。先輩今日夜勤ですか?」
「そうそう。人足りねえから夜勤だけど早めに来いって言われて早出。そっちは今日早番?」
「そうなんですよ…まじで昨日今日って最悪でした」
「まず早番と夜勤がすれ違うのがやべーわな」
「いやほんと…先輩の夜勤何事もないことを祈ってますよ…」
「おー、家で待ってる家族にために父ちゃん頑張るわ。」
「お父ちゃん私のことも養ってくれません?もう働くの疲れたんですけど」
「こんなでけえ子供産んだ覚えねえわ!若いやつはあそこに立ってるイケメンみたいな彼氏でも捕まえて癒してもらえよ」
「うわ余計なお世話…」
「つーかあのイケメンさっきからすげーこっち見てるけど苗字の知り合いだったりする?」
「え?」
 男性との交友関係など皆無に等しい自分にイケメンの知り合いなんて居ただろうかと頭を捻りながら指を刺された方に目を向ける。すると遠目からでもわかる長身の男が確かにこちらに向けて手を振った。日が傾き、夕日の淡い光に照らされた髪がいつもより赤みがかって見えるがあの栗色の髪に、中々周りでも見る機会が無い長身はもしかしなくても
「おぁ、!?」
「え、なにやっぱ知り合い?こっち来るみたいだけど」
 一歩、二歩。普通に歩いているだけなのに距離が詰まるスピードが早いのは持ち前の脚の長さゆえだろうか。遠くに見えていた人影がすぐ目の前まで近付いてきていて、十中八九御手杵とだという事が証明されてしまった。
「よっ、お疲れさん」
「お、…じゃなくて、なんで居るの!?」
 御手杵と呼びそうになって寸でのところで言葉を飲むこむ。親戚だとかありがちな誤魔化し方をするにも御手杵という名前は誰が聞いても違和感を抱くだろう。

「朝やっぱ体調悪そうだったから心配でさ。目に見えてそわそわしてたからか迎えに行ったらどうだってばあちゃんが」
 心配、してくれてたんだ…
 本当にもう、自惚れてしまいたくなるほどに優しく、相手をよく見ている男だ…ただの優しさから来る行動なんだろうけど、本当に勘違いしてしまいそうだ。
 荒ぶる自分の脳内を必死に押さえ込み、嬉しさと照れくさい気持ちでいっぱいになりながらなんとか頬の内側を噛み締めて耐える。
「スマホもないのに場所よくわかったね」
 確かに歩いて来れる距離ではあるがばあちゃんに道を教えて貰ったにせよ、歩いたことの無い場所に一発でたどり着けるとは。一人感心していると「んー、勘でなんとか?」となんともふわっとした解答が帰ってくる。流石刀剣男士と言ったところか。なんだろう、刀剣男士にしかわからない審神者専用GPS機能とか搭載されてたりするのかな。

「でも残業いつまで掛かるかなんてわかんなかったよね?もしかしてずっと外で待ってた…!?」
「ん。」
「だと思った!ほらもう手冷えちゃってるじゃん、せめてもっと暖かい格好して来なよ…」
「別に大丈夫だって。風邪引くような身体してないし」
「いやそれはそうかもしれないけどさぁ」
 そこまで分厚くない上着を適当に羽織ってきたんだろう。夕方になってぐっと気温が下がるというのに随分と軽装備な格好をしている。
 早く車で帰ろう、と声を掛けながら自分の手の熱を御手杵に移してるとにやにやとなにかものを言いたげな様子の先輩の姿が目に入り、慌てて御手杵の手を離す。

「ふーーーん?」
「先輩うるさい」
「おいまだなんも言ってないだろ」
「そのにやけ面が全てを物語ってるんですよ!お願いだからもうそれ以上喋んないでくださいねうるさいから」
「彼氏居たなら言えよ水臭い!しかも優しい上にイケメンと来たもんだ」
「ああもううるさいうるさい!喋んないでっつったのが聞こえなかったんですかね!?」
 言わんこっちゃない、面白いほど予想通りな勘違いをしてくれている。
「それにこの人は彼氏じゃなくて、」
「なぁ、名前寒い。」
「うぇ、!?あ、ごめん早く帰ろっか」
 不意打ちで御手杵に名前を呼ばれ心臓が予期せぬ動きを見せたせいで一気に脈が早る。この世で一番好きな人から呼ばれる自分の名前の破壊力に冗談抜きで心臓が飛び出そうになった。
「なになにお前、自分に彼氏なんて一生出来ないとか喚いてた割にいい男捕まえてんじゃん!」
「いだっ!先輩痛いって!」
 背中をバシバシと叩き長年の付き合いじゃなきゃあからさまに不機嫌になるぞと言いたくなるようなだる絡みをされ不服を訴えれば急にその攻撃が止み、腹が立つほどにやついていた表情が苦笑いに変わっていった。
「おっと悪、……あ、あー!なるほど?!やべ俺もそろそろ行かねえとやべえわ。」
「は?え、ちょっと」
「じゃあまたな!彼氏くんも!一応言っとくけど俺そういうんじゃねえから仲良くしろよ
「どーも」
 流石御手杵。さっきの私と同じようにバシバシと背中を叩かれても一切動じず、と言った感じだ。じゃなくて!
「だから、先輩!この人は」
「なあ名前早く。帰ろうぜ」
 彼氏じゃないんですって!と訂正しようとしたらくんと服の裾を摘まれ思わず続きを飲み込んでしまった。そんなかわいいお願いをされてしまっては先輩なんて放っておいて御手杵の言うことを優先させてしまいたくなるに決まってるじゃないか。推しの無意識に出来てしまうあざとい仕草に、かっとなっていた心が一気に鎮火されて行く。まぁ先輩の誤解は後日解けばいいし今日は素直に帰ることにしよう。
「じゃあ行きますか」
「車まで運ぼうか?」
「外では絶対辞めてね?」
 ここで頷いたら絶対姫抱きで運ばれるという確信があったので断固拒否の意向を示す。外に限らず家でも控えて頂けると主の心臓的にとても助かるんだけど。会社の目の前なんていつ誰が見てるかわからないのに抱き上げられでもしたら悪目立ちするに決まってる。
 保健体育の簡易授業をして貰ったのはかえって間違いだったのだろうか。御手杵の過保護具合に拍車がかかってしまった気がする。生理痛が酷いとは言え今回はまだ倒れたりまではしてないし、そんな大事にすることでもないのだけれど。
「迎えに来たのに運転させちまって悪いな」
「ううん、来てくれただけで凄い嬉しかったから。心配してくれてありがとね。あんまり寒いようだったら暖房付ける?」
 私だとちょうどいいサイズ感なのに御手杵が乗ると随分と助手席が窮屈そうで、笑ってしまいそうになりながら車のエンジンをかける。
「いんや、もう平気。」
「そ?寒くなったらここ勝手にいじって付けていいからね。」
「おー、」


「今日ねぇ、仕事凄いしんどかったの。」
「うん」
「仕事しんどいのなんて毎日なんだけどさ、今日は特にね。なんで私ばっか?って何回も思ったし早く帰りたいなって心折れそうになった。」
「ん、」
「でもねぇ、これ終わったら御手杵が家で待ってるしなぁとか仕事終わらせたら今日は一緒にお酒飲めるなぁって思ったら頑張れた」
「そっか。」
「うん、」
 話の組み立て方が対して上手くもない私の言葉を御手杵は優しく受け止めてくれる。聞き逃すことのないよう静かに。それでいて心地のいい穏やかな低音で相槌が打たれる。
 心が折れそうになる度「これ終われば御手杵と晩酌」と頭の中で唱えるくらいには楽しみにしていたものだからいつもより声色が弾んでしまった。
「お疲れさん」
「なんれほっぺたつまむの」
「んー、やわらかそうだなぁって思ってさ」
 普通ここは頭を撫でるとかそういう流れでは無いのか。いや別に、頭を撫でられることを期待している訳では無いが。
 何故ほっぺた?痛くないくらいの緩い力で摘まれてるだけだから別にいいけど遠回しに太ってるとでも言いたいのだろうか。

「悪いことしたかもなぁ」
「ん?」
「さっきの人。今度会ったら悪かったって謝っといてくれないか?」
「え?御手杵あの短時間でなんか失礼なことしたの?」
「してない。…って言いてぇけど…まぁ、ちょっとしちまった気はする」
「ええ…?まあでもあの人なら大抵許してくれるよ。多少鬱陶しいけど根は良い人だし」
「………やっぱいいや。俺の知らないこといっぱい知ってそうでムカつくし」
「??」
 先輩あの短時間で御手杵からの好感度地に落ちているのだけど何をしたの。もしかしてあの誰にでもあんな感じの軽いノリする人苦手だったりするのかな御手杵。どっちかと言うとコミュ強同士凄い打ち解けそうだけど。
「なんかつまみでも買って帰ろっか」
「お、いいなそれ」
「なにがいいかなぁ」
「俺プリンがいい。3つ入りのやつ」
「日本酒のつまみがプリンなの?まぁ別にいいけど…でも全部一気に食べちゃ駄目だよ」
「失礼だな。1個はちゃんとアンタにあげるよ」
「2個は自分で食べるのね…」



 ◇

「お待たせ」
「ん、お待ちしてました」
 お風呂上がりの御手杵は見慣れなくてちょっとそわそわする。普段無造作に跳ねている髪がしっとりと濡れていて色男具合が割増で命が危ない。ほんの些細なことでも心臓がドキドキしてしまうのだから恋心というのは厄介だ。規則正しい呼吸を取り戻すためにも早く乾かしてあげなければ。
「なぁ早く飲もうぜ。髪乾かすのなんてさっとでいいからさ」
 ドライヤーをコンセントに指して待ち構えていた私の目の前に腰を降ろしそう急かす。待ちきれない様子を見るに今日を楽しみにしていたのが私だけではないことがなんとなく伝わり勝手に心が浮ついてしまう。
「せっかく暖かくしたんだからちゃんと乾かさなきゃ駄目だって。ほんとに風邪引くよ?」
「俺の主は過保護だなぁ。大丈夫だって。本丸に居た時なんて適当にタオルでがーってやってそのまま放置してたくらいだし」
 自然乾燥でこんなふんわりした髪質になるとは羨ましい。対して傷んでいるようにも見えないのだから刀剣男士というものはずるい。髪もそうだがなんの保湿もしなくても肌荒れはしないし顔立ちだって完璧なんだから。
「面倒くさがりなところは今の主に似ちゃった?もう、」
 私が居なくてもちゃんと髪乾かさなきゃ駄目だよ。と口を開きそうになって慌ててドライヤーのスイッチを入れる。熱いくらいの風が言の葉を攫っていった。
 危ない、せっかく楽しみにしてたのに自分の気持ちを自分で沈ませる所だった。今は悲しいことは無しにしよう。御手杵が居なくなる悲しみは居なくなった時に受け止めればいい。今から悲しいことを考えていては幸せすぎる今を邪魔することになるだけだから。ネガティブにすぐ陥る後ろ向きな自分とは今はおさらばだ。せっかく今日一日この時のために頑張ってきたんだから。楽しいことだけ考えて居ればいい。
「はい、出来たよ」
「ん、じゃあ俺酒取ってくる」
 ぽんと軽く肩に手を置いて乾いたことを伝えるやいなや、すくと立ち上がり台所へ向かう御手杵。そんなに急がなくてもお酒は逃げないと思うのだけれど。それほど楽しみにしてくれてたのかななんて深読みしてしまって口角が緩む。
 一度腰を降ろしてしまったら中々動きたく無くなるもので、張り切って取りに行ってくれた御手杵に全て任せて自分は何気なしに茶の間のテレビをボーッと見て待つことにした。
 昼の陽気と午後にかけて肌寒くなる曖昧な温度差に、終い時を見失ったまま放置されている炬燵に身を預けながら意味もなくTVへ目を向けると液晶の中には丁度自分と同じくらいの歳の男女が偶然にもお酒を嗜んでいるところだった。同じと言ってもこっちは寝巻きと狭い茶の間で日本酒を。あちらは煌びやかな夜景を見下ろせる小洒落たレストランでワイングラスを掲げ優雅に乾杯をしているから同等の扱いをしては失礼かもしれないけど。
 でも、
「私はこっちの方がずっと幸せだけどなぁ…」
「何の話だ?」
 台の上にごとりと一升瓶が置かれる。そしてその傍らには対になるふたつのお猪口。それとさっき買ってきたプリンが3つにスプーンが2つ。
「んー、御手杵が興味無さそうな恋愛ドラマの話?」
「別に興味無いこた無いけど」
「え、嘘意外すぎる」
 もしかして乱ちゃんあたりが読んでいた少女漫画を借りて読んだりする口なのだろうか。いや、乱が少女漫画を読んでいるかもわからないから全て想像の」うちではあるのだけれど。
「こいつら何やってるんだ?
 未開封でなかなかに重いはずの一升瓶を軽々片手で持ち、お猪口に注ぎながらそう尋ねる御手杵に慌てて2つ分のお猪口に手を添え支える。
「ほい、」
「ありがとう。じゃあ乾杯」
「乾杯」
 ドラマの中のドレスコードで着飾った男女の様にグラスを合わせる軽快な高い音はならなかった。くい、と一口煽ると喉の奥がかっと熱くなる。この日本酒中々に度数が強い気がする。そこまで酒が弱い訳じゃないが(自分で言うのもなんだが、むしろお酒には強い方だと思う)一口飲んだだけでだいぶ顔に熱が回ってきた。

「うーん…女を確実に仕留めたい時の常套手段?」
「は?」
「あー、なんて言ったらいいんだろ。まぁ見てればわかるかな。大抵こういう高級レストランに行く良い雰囲気の男女はこの後プロポーズしたりされたりするから」
「ぷろぽーずってなんだ」
「好きな人に好きって伝えること?この人となら生涯を共にしたいなって思う人にずっと一緒に居てくださいって言ったりするんだよ。…たぶん。私はされたことないからわかんないけどね…あ、ほらやっぱり指輪渡した」
「現代の男は女口説き落とす時酒の力を借りるのか?」
 ワイングラスとその中身と揃いの色したルージュが、女優さんの形の良い唇を彩っている。目に映る光景はフィクションのものだけれど現実でもこんなにしっかりプロポーズをする人はどのくらい居るのだろうか。
 こんなお高そうな場所かどうかはわからないけどこの前結婚するんだと幸せそうに語ってくれた友人はサプライズでプロポーズされたらしいから意外と少ないこともないのかもしれない。まあいい年こいて将来に目を瞑り、私には本丸があるしな…と現実から目を背けていた私には一生縁のない話だ。

「別に皆が皆そういう訳じゃないけど。こういうシュチュエーションは乙女の夢、みたいな認識が世の大半だからそう描かれてんのよたぶん。」
 自分の読み通り、作り物のお綺麗な恋愛ドラマでは王道と言っていいほどありがちな展開。予想当たったなぁなんて思いながら二人の行く末を何気なしに見守っていると横から「指になに嵌めてるんだ、あれ」と興味を示す声が。
「大抵の好き合った人間は結婚するとき付けたりするんだけどこの2人はまだ夫婦じゃないみたいだから婚約指輪ってやつかな。これからずっと人生を共にして欲しいって予約をするの。」
 別に酔っている訳では無いけどお酒がもたらすほろ酔い気分がいつもより自分を饒舌にさせる。人間のお付き合い事情を説いている割には表現が稚拙だが。御手杵は人としてならまだ6、7歳の幼子なのだからちょうどいいかもしれない。

「人は形が残るものが好きだからね。将来共にしたい大事な人にだけ指輪をはめるんだよ。」
「へぇ、なんかいいな」
「お、もしかして御手杵意外とロマンチスト?」
「そのロマ…?とかなんとかかどうかはわかんねえけどさ、どっか行っちまわないように枷を付けられるのはいいよな。」
 枷という恐ろしい単語がとんで来て思わずぎょっとする。エンゲージリングという神聖な名称が付くであろう指輪を枷と呼ぶとはあまり穏やかじゃない気がするのだけれどやはり刀剣男士と人とじゃものに対する認識が少しずれるのだろうか。それとも、
「御手杵ってもしかして束縛激しいタイプ……?」
「んぁ?んー、まあ目に見えて自分との繋がりが見えんのは確かにいいかもしんねえな。他の誰かに取られないような印付も出来るし」
 うん、わかった。爽やかな顔しといて結構独占欲が強いタイプだ。御手杵に惚れられる女の子(付喪神?)はきっとくっついたあと苦労しそうだ。見初められたら最後絶対逃がさなそう。それこそ御手杵の槍に一度刺さってしまえば鍔につっかえて、身を捩ろうがなにをしようが中々抜け出せないように。

「わ、っとと…ありがとう気が利くね」
 空いたお猪口に酒を注いでくれる御手杵に、私も注いであげようと、瓶を受け取るつもりで手を出したら何故か手首を軽く握られる。
「…御手杵?」
 ビー玉のようにまん丸で大きな瞳が不意にすぅと細められ、本能的なものからか背筋に緊張感が走る。
 此方へくべられるチョコレートミルクの視線が、液晶の中で仲睦まじく微笑み合う男女と、取られた左手の間を往復しているのがわかる。御手杵もお酒が回ってきたのか掌がじんわりと熱い。意図がわからぬまま視線が何往復かする所を見届けては見るものの、いつまでも手を触れられている状況というのはあまりにも耐え難いもので。たった数秒触れ合っているだけなのに手汗が凄い。もう、いい加減いいだろうと思い手を引こうとした瞬間、

「い゛っ!?」
 噛まれた。犬にでは無く、御手杵に。
 左手の薬指を思いっきり。
「お、おてぎね!痛い!痛いってば!!」
「ん、」
「ひぁ、っ」
 噛み跡を慰めるように、分厚い舌で指周りをちろりと舐められ粟肌が立つ。背筋を走る妙な感覚に身を震わせながら御手杵の方へ目を向ければ甘味を口に含むかのように平然とした顔で舌を這わしていた。一生忘れる事が出来ないほどの衝撃的な絵面だ。目に毒過ぎる。あまりの衝撃に意識がすっ飛びそうになる。
「おおおおてぎねさん!?もしかして酔っていらっしゃる!?」
 御手杵がそこまで下戸だとは思ってなかった。痛みの反射で咄嗟に引いた手を目で見やれば、大きな歯型が痛々しいほどにくっきりと残されていた。

「そんな怒るなって」
「人の指思いっきり噛んどいてよくそんな物言いが出来ますね…」
 床にへたり込み、忙しなく脈を打ち付ける心臓と噛まれた指を守るように己を抱き込みながら御手杵との距離を取る私の動揺加減とは正反対なほどいつも通りの御手杵は、反省する様子など微塵も見せず、ゆるい表情で眉を下げていた。

「なにも意味もなく噛んだわけじゃないぞ」
「意味があるなし以前に、人の指は噛んじゃいけません」
「あ、あんたも噛みたかったか?」
「結構です!!!」
 噛んでいいぞとでも言いたげな御手杵が目の前に差し出す指をぺちりと叩いてもめげる様子は微塵もない。

「ただ予約しただけだよ」
「はい?」
「何処の馬の骨かわからんやつに大事な主を横取りされる訳には行かないからな」
 だから俺も。
 まあ指輪なんて大層なもん持ち合わせてないから今はこれで
 なんて、自分がとんでもない行動をしたと言うのに随分とまああっさりとした物言いでそう言ってのけるのだから恐れ入る。

 何が御手杵をそんなに焚き付けたのか、なんとなく予想が着いてしまった。もし、あらぬ勘違いを御手杵もしてるとしたら。
「…もしかしてそれ、先輩のこと言ってる?」
 何処ぞの馬の骨に当てはまる男性なんて御手杵の前で姿を見せたことは無い。恋人の一人もいないのだからそれは当たり前なのだけれど。
 夕方、仲良さげに喋っていたから恋仲とでも思われたのだろうか。本丸を担う大事な主が結婚でもして審神者業を引退するとでも考えたのだろう。御手杵の思考を読める訳では無いから全てを正しく汲み取れているかは定かではないがいつもよりむっすりとした不服そうな表情を見るにおおよそ予想は正解しているように思える。

「先輩はそんな人じゃないし、そもそもあの人もう結婚して子供さんもいるからね?」
「今がそうだってだけだろ?人の心は移ろうものだからな。」
「そんな泥沼展開求めないでよ…」
 浮気を示唆するような物言いに苦笑いしか出来ない。なんというか、先輩への信頼度が全くと言っていほどない。

「不安なんだよ。…俺は、アンタにいつか見放されそうで怖い」
「ありえないことを言うね」
 こんなに入れ込んでいるのに。それこそ日常生活の片隅に必ずと言っていいほど御手杵が居るくらいの拗らせ具合だ。見放されると言うなら邪な感情を抱いていると知った御手杵が私を見放すくらいしか考えられない。見放されることはあっても私から御手杵を手放すことは万に一つもないだろう。
 それでも、その鬱陶しいほどの愛は口にも態度にも出せないから彼には伝わっていないも同然で。「あんたに忘れられるのが一番怖い」と今まで聞いた彼の声の中で最も弱々しい声が視線と共に床に伏せられる。
 怖い。恐れというものは刀剣男士として顕現しなければわかるはずもなかった感覚なのだろう。人と刀剣男士では価値観こそ違えど抱える感情は同じ。御手杵の口からころりと落ちた本心は、誰よりも自分の心に深く刺さった。怖い、それは御手杵が家にやってきた日から心の片隅に常に隠されていた感情だ。
 自分が知らない御手杵の一面を知っていくのが怖かった。もう取り返しのつかないくらい惚れているこの男へ、愛しさが募っていく度、このあやふやに残された不確かな時の中でいつか来る、切っても離せない「別れの時」を想像すると恐ろしくてたまらなかった。
 愛しい人との別れというものはどのようなものなのか。私には計り知れなかった。こんなにも心を乱され、頭のほとんどが彼を占めるくらい人を好きになったのは、御手杵が初めてだったから。
目の前から姿が消えるだけなら、深く心に傷を負うだけで済むだろう。でも、じゃあその姿が消えた事にすら気付けなかったら?御手杵はここに居て、言葉を交わし、約束だってした。その日々すら、正しい時の中に吸い込まれ、消し去られてしまったら?私はそれが恐ろしくて堪らなかった。
 御手杵が確かにここに居た記憶すら消されたらどうしよう、私を主と呼ぶ柔らかな声、画面越しで見るよりずっと綺麗な赤茶色の瞳、暖かな手、抱き締める時少しきゅっと口を結び身構えるぎこちのなさ、そして確かに感じた御手杵のぬくもり。それら全てがなかったことにされ、私と過ごした日々を、御手杵に忘れられるときが来ると思うと悲しくて、苦しくて、もういっその事こうして顔を合わせる機会すらなければこんな思いをせずに済んだのにと恨み言を言いたくなってしまうほどだった。あんなにも毎日「御手杵に会いたい」と望んでいたというのに。

「俺が此処に来た意味ってなんなんだろうな、」
 御手杵が来たのはたぶん、私のせいだよ。私が御手杵に会いたいなんて思っちゃったから。ごめんねと謝りたいのに何か言葉を発したら喉の奥から込み上げる出しては行けない感情を零してしまいそうで、はくはくと生き急ぐ呼吸をなだめるように深く息を吸い込むことしか出来ない。
「なぁ主、俺の事忘れてくれるなよ」
 独り言のような、小さな声。弾かれたように顔を上げ御手杵の方へ目を向ければあぐらをかいた猫背気味の御手杵が請い願うように上目遣いで此方を見ていた。
「……俺、アンタにだけは忘れられたくないなぁ…」
この上なく下手くそな笑みを浮かべて眉を下げる御手杵が視界に入り、胃の奥底が火で炙られているような、なんとも形容しがたい耐え難い感覚に陥る。そんな顔をさせてしまっている原因が自分だとはっきりとわかっているから余計に、
「…手、貸して」
「え?お、おう」
「そっちじゃなくて、左手。」
「うぇ、!?あ、おい!」
「いいから黙って!」
 さっきまでむっすりと口を閉ざしていた女が急に口を開いたかと思えば左手を無理矢理奪われ、御手杵は酷く動揺しているように見えた。そして先ほどされた仕打ちをそのまま返すように、節榑がしっかりとした御手杵の薬指に歯を立てる。もっとも、先の御手杵と比べたら甘噛みくらいのものだろうけど。

「主、」
「うるさい、なんも聞かないで。言っとくけど私悪くないから、」
 だって、御手杵があんな顔するから。
 自分でもとんでもないことをした自覚はある。それでもなんだか全然信用されていないようで悔しくてほんのちょっと寂しくなったせいだ。
「絶対、忘れてなんか、あげないから…!」
「泣くなよ。あんたに泣かれたら俺、どうしていいかわからなくなっちまう」
「ないてないし…!」
 あんな全てを諦めたような、悲しげな表情されるなんて、たまったもんじゃない。私だって御手杵に忘れられられてしまうかもしれなくて、不安で、怖くて堪らないのに、
 御手杵だって、私を置いていつか本丸に帰っちゃう癖に、そんな自分だけが見捨てられるとでも言いたげな表情をされるのが、腹立たしくて怒りのあまり涙が溢れるだけだ。
「噛むんならもっとちゃんと噛んでくれよ」
「無茶言わないで」
「こんな弱っちぃ痛みじゃ俺忘れちまうよ。な、もっかい」
「いや!で!す!」
「どうせするんなら跡くらいつけてくれたらいいのに」
「やだよ私のせいで三名槍と名高い槍に傷付けちゃったら怖いし」
「傷、つけて欲しいんだけどな」
 そう言って愛しいものへキスするかのように噛まれた自分の薬指に軽く口付けを落とす御手杵にこれでもかと言うくらい目を見開く。そしてあろうことかまばたきをひとつした後、その指をぺろりとひと舐めするものだから悲鳴を上げる。
「んなっ!?な、なにしてんの…!?」
「アンタの味覚えてる」
「馬鹿!変態!!何考えてんの!!」
「あてて!頬つねるなよ、地味に痛え!!」
「そんな感覚で覚えられても嬉しくもなんともないから。痛みじゃなくてぬくもりとかで覚えてくれる?毎日一緒に寝てるんだか、ら」
 と言ったあとこれまた小っ恥ずかしい発言をしたことに気付き一人で勝手に自爆する。一緒に寝てることがさも当然とでも言うように自然に口から出てしまったことが何よりも恥ずかしい。耳どころか、首まで赤くなる勢いで。
「じゃあ、…ん。」
 ん、と口をひと結びにし、両手を広げて待ち構えている御手杵を目の前にし空白が数秒訪れる。
「おお…今日は素直だな」
 いろんな葛藤を経たあと、おずおずと腕の中に身を寄せれば少し動揺した声が耳の側で聞こえ、それと同時に優しく抱きしめられる。
「感動するのやめて。…今日だけだから」
「ん。やっぱあったけぇな」
 同意の言葉を並べる代わりに御手杵の広い背中に腕を回せばさらにきゅっと強く抱き締められる。
「ちゃんと覚えてよね」
「ああ。これならずっと忘れない。あんたの匂いも、やわこい肌の感触も、俺が触ると途端に赤くなる頬の色もな」
「だからほんといいからそういうの!」
「アンタがこの上なく照れ屋なことも忘れらんないだろうなぁ」
 本丸のやつらにしてやる土産話がいっぱい出来たと笑う御手杵にそんなことを嬉々として話すなと軽く小突いてやる。
「はいもうおしまい!御手杵がいつもより元気ないと思ったのに心配して損しました!!」
「怒るなよ。ほら、プリンもう一個やるからさ」
「ご機嫌取りのつもり?」
「こんなんでアンタの機嫌が取れるなら安いもんさ。3つ食べるか?」
「いいよ御手杵食べな。好きなんでしょプリン」
「うん、好き。」
 御手杵の口から聞こえた好きという二文字に翻弄され、スプーンを取ろうとした指がぶれる。一度からりと音を立てて机の上を転がった小さなスプーンを何事もなかったかのような表情を装い再び手に取る。
「じゃあやっぱり2個食べな。私は1個貰えただけでも嬉しいから」
「あんたも大概俺に甘いよな」
「そうかな?」
 そりゃそうでしょうよ。私は御手杵のことが好きなんだから、
 そのたった一言が、いつまで経っても言えないのは、どうしようもなく私が臆病だからで。
「御手杵こそ、大好物私なんかに分けちゃっていいの?」
 独り占めしちゃえば良かったのにと笑えば「アンタだから良いんだよ」なんて戸惑いなく言えてしまうのだから御手杵はずるい。いつだって、私が踏み出したくても踏み出せない一歩をゆうに超えてくる。
「プリンってさぁ、すげえ美味いだろ?」
「うん、美味しい」
「だからアンタにもあげる」
「うん」
「うん……?」
 空白。そして渾身のドヤ顔をしていた御手杵の表情がきょとりとしたものに変わっていく
「あれ俺今すげえいい事言ったつもりなんだけど」
「いやどういうこと?感性独特すぎて伝わらなかったわごめん」
「うぇ?」

 嘘だよ。御手杵が言わんとしていること、実は何となくわかってる。でもね、どうか気付かないふりをさせて頂戴ね。これは、最後の日が来てもちゃんと「いつも通り」に戻れる為に私が出来る、最後の予防線だから。



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