逆トリップして来た槍のスパダリ力が極まってて困ってます | ナノ


  縋るはいつも君ひとり



「おーい主ぃ?」
「んん゛…」
 体を揺すられ意識が強制的に呼び戻される。朝日が眩しい、身体を丸めて布団を深く被れば湯たんぽのようにぬくぬくとした暖かな温もりが。
「ねむ……」
 まだまだ薄ら寒い冬から春に変わりかけのこの時期の外気というのは耐え難いものだ。思わずすぐ側の熱に擦り寄れば「お、おーい?主?」とまた声が聞こえる。…あれ、湯たんぽって、こんな良い声で喋るようなもんだっけ。
「あー……どうしたもんかな…こんなんされちゃ叩き起こそうにも出来なくなっちまうんだが…」
 困りきったささやかな声がすぐ近くで聞こえる。
(…あれ?)
 いま、わたしは一体なにに擦り寄って……!?!
「っっ!?!?」
「あ、起きた」
 自分がやらかしたことに気付き一気に眠りの世界から意識を引っ張りあげられる。隣で寝ていたらしい御手杵は布団から飛び起きた私とは対照的にゆったりと身体を起こしてみせた。
「おはようさん」
「お、はようございます……」
 柔らかな笑みを浮かべる御手杵の顔は寝起きというのに憎らしいほどに整っていて心臓に悪い。なんで御手杵がここで寝てるの、なんて声を荒らげそうになるが自分の失態を思い出し息と一緒にそれを飲み込む。
 流石に今日は距離を置いて寝るか床で雑魚寝でもしようと意気込んでいたのに結局寝落ちしてしまったせいでこのざまだ。優しい優しい御手杵くんのことだ、きっと途中で寝てしまった私を布団までご丁寧に運んでくれたのだろう。また私の重すぎる巨体を運ばせてしまった罪悪感と羞恥で朝から頭がくらくらしてきた。

「もうちょっと寝かせといてやりたかったんだけどさ。今日仕事って言ってたろ?あんまりのんびりしてちゃまずいのかなと思って起こしちまったんだが良かったか?」
「アラームすらかけずに寝ちゃったから助かります…ほんとありがとね…」
「どういたしまして」
 ありがとうと感謝の言葉を口にすると甘い目元を細くして心底嬉しそうに微笑むから直視して居られなくて思わず視線を逸らしてしまう。そんな些細なことで、嬉しそうな顔をしないで欲しい。理不尽かもしれないが主の心臓をいたわるなら不意に優しい顔をするのは禁止にして頂きたい。
「私は仕事の支度するけど御手杵はもうちょっと休んでたっていいんだよ。」
 御手杵は寝るのが好きという勝手なイメージがあったからゆっくり寝てたいなら遠慮しなくていいからねという意味を込めてそう言ってみたのだが本人は「おー、」という曖昧な返事をするだけで。
 案の定洗面所まで付いてきて私の次に顔を洗い、横に立って同じような寝ぼけ眼のままぼけーっと歯を磨くのだった。洗面所の鏡越しに御手杵を盗み見るといつもより髪の毛のボリュームが凄い気がするのだが気のせいだろうか。というかこの光景
(なんだかまるで、)
 こうしてると同棲してる恋人にように見え、て…

「っ!!」
 さもありなんと言うように自然にそんな考えが浮かんできてしまう自分の浮かれきった脳に喝を入れるため、口をゆすいだ後に冷水でもう一度顔を洗う。
 心頭滅却。邪な気持ちは全部投げ捨てるべきだ!
 深い深い溜息をつきながらタオルで顔を拭いていると此方の動きにつられたのか御手杵も本日二回目の洗顔を行っていた。
 ようやく目が覚めてきたのかきょとりとしたまんまるの瞳がこちらを見つめながら瞬きを数回。
「…あれ、俺さっき顔洗った?」
「うん、洗ってた」
「だよなぁ。」
 なんかそんな気がしたんだよと気が抜けるくらいゆるい声で言う寝癖をこさえたままの御手杵に、思わず表情がだらしなくなってしまう。そして、与えられた感情に素直につられてしまうらしい真っ直ぐな槍はこれまた幸せそうな顔で頬を緩めてみせるものだからかわいくて仕方がない。自分が我慢のきかない人間だったら力いっぱい抱き締めているところだった。



 朝から結構な量ご飯を食べる御手杵に驚かされたあと身支度を整え玄関へ向かう。その後ろにはやっぱり雛鳥のように跡をついてくる御手杵の姿が。靴を履いて彼の方をくるりと振り向けばにこにこと人懐こい笑みを浮かべる御手杵の顔が自分よりだいぶ高い位置にあった。

「じゃあ、…行ってきます」
「いってらっしゃい」
 ただの挨拶を言うだけなのに、ほんの少し緊張するのはやはり愛してやまない最推しを前にしているからなのだろうか。
 御手杵に見送られるというのは変な感じだ。帰って来ても大好きなこの槍が待ち構えているのかと思うと更に変な感じがする。
(この非日常が日常になって行くのだろうか、)
 そうあればいいのにと願ってしまう。願うだけでその淡い願望は叶うことがないと頭の何処かで理解は出来ていた。
 このやり取りをこの先何度繰り返せるのだろう。一回?それとも何十回?考えてもこの問いの答えは誰も教えてくれやしない。名残惜しくて玄関の戸口の外へ一歩踏み出す前に、顔だけをちらりと後ろを振り向けば姿が見えなくなるまで見届けるつもりなのか、じぃとこちらを見据える御手杵と目線が重なり合う。

 私が振り返ったのがそんなに予想外だったのかほんの少し目が見開かれた。
「え、ちょ、御手杵、靴…!」
 目が合ったかと思えば戸惑いもせず土間に足を踏み入れ、素足でもおかまいなしにずかずかと此方へ詰め寄ってくる御手杵に思わず後退りしてしまう。
「参ったな」
「ひぇ、!?」
 圧に負け一歩二歩と後退してもそれは些細な障害にすらならず、御手杵の大きな手で引き寄せられぎゅうと抱き締められる。
「行かせたくなくなるからそんな顔しないでくれよ」
「そんな顔、とは…?」
「んー、離れたくないって思ってそうな顔?」
「そ、そんな顔したつもりは…!!」
 頭上から聞こえる低音のせいで火がついたように顔が熱くなる。顔を上げて反論したかったが自分の顔は御手杵の案外分厚い胸板に押し付けられており、脳天には御手杵の顎が乗せられていてそれは叶わない。
「そうだな。離れ難くてたまらないのは俺の方かもなぁ」
 ぼそりと呟かれた本音のように受け取れる一言を引き金に、刺激が強すぎる!と内心悲鳴を上げながら胸板を押し返す。なけなしの力を出して距離を取ると、眉を下げて寂しげに微笑む御手杵が目に入り「う゛っ」と心臓を鷲掴みにされたかのような声が出てしまった。捨てられた子犬のような目という典型的な比喩をここまで再現出来る人が居るとは……そんな顔をされてしまっては仕事になんか行きたくなくなってしまうじゃないかと文句を言おうとすると
「ぐぇ、」
 再び強い力で抱き締められる。ちょっと、いやだいぶ苦しい。でも抱き締めることを怖がっていた最初の日から比べたらかなり気を許してくれた気がして嬉しくなってしまう私はちょろい女だろうか。
「なぁ、アンタもぎゅってしてくれよ」
 手、回して?
 この男は、本当にわざとやっているのだろうか…!犬のかわいいおねだりだと流したいのに腰を折って抱き締めているせいでいつもより静かで幾分か低い声がダイレクトに耳を擽り、拒否権などあってないようなものにされてしまう。抗うことも出来ずに恐る恐る背中に手を回せば嬉しさを体現するかのように首元辺りに額を擦り付けるものだから変な声が出そうになる。
 もうギブ!!と叫ぼうとした瞬間、がっ!と両肩を掴まれ、密着していた身体を引き剥がされる。
「よし、充電完了」
「へ、」
「今度こそいってらっしゃい」
「あ、え、!?」
 掴んでいた手で身体の向きをぐるりと変えられ、御手杵の顔が見えなくなったかと思えば「さぁ行った行った」と外へぐいぐいと押し出される。
 名残惜しい雰囲気は嘘だったのかとちょっと文句を言いたくなってしまったのも束の間
「…なぁ、俺今すっげー我慢してるんだから行ってくれよ」
 次はほんとに行かせたくなくなっちまうから早く、な?
 背中を軽くトンと押され止まっていた思考がようやく動き出す。
「いいい、いってきます!!」
 御手杵がどんな顔をしているのか振り返って確認したくなるのをグッとこらえる。振り返ったら駄目だ。行かせたくなくなると彼は言うけれど、私だって、負けないくらい御手杵と離れたくないのだから。





「はぁ……」
 少し早めに着いた職場の駐車場の車内に特大の溜め息が充満する。ハンドルに己の額を当て、先程までの出来事を冷静な頭で振り返ると恥ずかしすぎて死にたくなってきた。

 充電完了ってなに、離れ難いからってなに?今さっきした抱擁はいってきますのギューってこと?なんかもう、これ、
「やってること完全にアレなんですけど…!!」
 声に出すのも憚られるくらいアレだ。完全に、その付き合いたてのカップルというかべったべたに甘ったるい男女がやる行動に当てはまりすぎてて羞恥のあまり顔から火が出そう。
 朝から御手杵の刺激が強すぎというのも勿論あるが、彼のあのなんとも言えない雰囲気に流され、絆されて自分まで離れ難いとか仕事に行きたくないとか思ってしまった甘えが駄目だ。ない、もう、ほんと、自分がありえない。気持ち悪すぎて耐えられない。完全にやってしまった、学生のアオハル気分でもなしに、いい年した大人が、全く、何をしているんだか……

 御手杵の前だと、本当に自分が自分でなくなるみたいで怖い。抑えなきゃと思うのに、ほんの些細なことで感情が溢れそうになったり、今までの自分じゃ絶対しなかったようなことをしそうになったり、自分でも自分がこんなにおかしくなってることに戸惑いが隠しきれない。
「ほんと、なんでこんなに好きになっちゃったんだろう…」
 ああほらまただ、こんなことで目の奥が熱くなってしまう。こんなに女々しくて面倒臭い感情、どっかに捨てられれば楽なのに。




 ◇
 タイムカードを定刻ぴったりで切り、寄り道のひとつもせずに家へ直帰する。今朝も眠気と戦いながらようやっと家を出たというのに明日も早番かと思うと憂鬱で仕方がなかった。でもまぁ、何よりも効く御手杵という刺激が強い目覚まし時計が居たおかげでいつもよりはすんなり起きれはしたけれど。
 何はともあれ今日の仕事は終わった。家に着きエンジンを切れば自分の気力も連動するかのように切れ、どっと疲れが襲ってくる。丸一日よく頑張ったぞと自分を褒め称えながら車を降りると何処かから「おーい!」と呼ぶ声が聞こえる。

「御手杵?」
 此方へ呼び掛ける声の持ち主を探そうと当たりを見渡せば御手杵が隣の家の畑の中からぶんぶんと手を振っているのが目に入った。
「おかえり」
「ただいま。なんで御手杵がおじちゃん家の畑に居るの?」
 畑の方まで足を運ぶと小走りでこちらへ近寄ってきた御手杵に抱いた疑問をそのままぶつける。すると御手杵が口を開く前に玄関からダンボールを手に持ったおじちゃんが出てきた。
「おー!名前ちゃんおかえり、今日は帰ってくんの早いんだな。あ、兄ちゃんのこと借りてたぞ」
 うん、相変わらず声が大きい。仕事終わりの私より断然元気な爺ちゃんだなと苦笑してしまう。おじちゃんは家が隣と言うだけで親戚でもなんでもないのだが長年の付き合いだけあって最早家族のようなものだ。朝も夕方もばあちゃんと立ち話をよくしているのを見掛ける。
「ただいま。今日は早番だったからね。もしかして畑仕事?」
「朝から腰痛くてよぉ。そっちのばあちゃんと朝話してたら暇してる若者いるからどうかって言われてさ。俺からしちゃ願ってもない申し出だったから手伝ってもらっちまった」
 今、さっき採ったやつ箱さ入れてやっからちょっと待ってろと言って次々ダンボールの中に野菜を詰め込んでいく。こんなにいっぱい貰ってしまって大丈夫なのかとも言おうかと思ったがほとんど毎日「これ食わねぇかい?」と白菜やらなにやら届けに来る姿を見てるから大丈夫なんだろうと勝手に自己解決する。本業じゃなく老後の趣味で畑をやってるらしいし。出不精の私からしたら自ら大変な畑仕事を好んでやるなんて物好きだなぁと思ってしまうのだけれど。
「丸一日畑仕事してたんだ?お疲れ様」
「おー、まぁ本丸に比べりゃ規模が小さいからなぁ。なんてこたない」
 得意げに言う御手杵は少し誇らしげでちょっとかわいい。こんなことを言ったら本人は拗ねそうだがお手伝いをして褒められたい小さな子供みたいだ。
「兄ちゃんよく働いてたよ。おかげでだいぶ助かった」
「ふふ、だから頑張った証拠が結構ついてんだね」
 鞄からハンカチを取り出し、少し背伸びをして土で汚れた頬を拭ってやると「んぉ?ああすまん、ありがとう」と照れ笑いと共に感謝の言葉が返って来た。
「にしてもいつのまに彼氏なんて作ってたんだい?いつまでも男の気配ねえからばあちゃんが心配してたし俺も気になってたんだがまさか隠してたとはねぇ」
 そうやってると若夫婦に見えるぞ。とからから笑うおじちゃんの言葉に甲斐甲斐しく御手杵の頬を拭いてやっていた動きがぴしりと固まる。
「いやいやいや彼氏じゃないからね!?」
「んなに照れなくてもいいって!俺が名前ちゃんのコレかい?って茶化したつもりがあんちゃんに『俺の大事な人だ』って言われちまってよ。あんまり良い顔しながらそう言うもんだからこっちが照れちまったわ!」
「だっ!?!」
「あ、そうだちっと待ってろ!」
 けらけらと笑うおじちゃんから投げられた殺傷力が高い悪意のない爆弾発言に絶句してるうちに何やら家の中に戻って行った。人の話はちゃんと聞いて欲しい。そう訴えたいのに頭の中をぐるぐると回る「大事な人」という破壊力が凄まじい言葉に邪魔され、胸を抑えるので精一杯だった。
「大丈夫かぁ?」
「お、おてぎね…」
「うん?」
「君、その、私の事大事な人って、言ったの…?」
「?間違ってないだろ」
「え、あ、うーーん………そっっか、そうだね、そうだよね……!!」
 御手杵が言わんとしてることがわかってしまった気がする。うん、そうだ。御手杵ならそう思うし思ったことをそのまま素直に口にしちゃうよなぁ。いや間違ってはない、間違っては。だからそんな「違ったか?」と不安げに言いたそうなしょんぼりした顔はしなくていいからね!ええ、ちゃんとわかってますよ。私は御手杵の大事な人(主)だからね。でも、残念ながらおじちゃんには絶対間違った伝わり方をしてしまったなぁこれ……まぁ、その言い回しをされたら誰だって好い仲であると言う意味に受け取ってしまうよなぁ。
 だがしかし、よりにもよって、運悪く顔が広いおじちゃんに勘違いされてしまったのがまずかった。田舎の情報の回る速さったらないんだから明日にでも近所の人から生暖かい眼差しを向けられそうで居た堪れない。深い深い溜息をつきながらどう訂正すれば信じて貰えるか考えあぐねていると渦中の人が玄関から顔を覗かせた。
「ほれ、これも持ってけ!」
「お酒?え、待ってなんか凄い高そうに見えるんだけど」
 鏡花水月と達筆な字で書かれた一升瓶をこちらに押し付けられ流石に焦る。
「美味そうだなと思って買ったらよぉ、酒と一緒にお猪口2つ付いて来たんだよ。俺じゃ注いでやる相手もいねぇし折角なら夫婦酒にしてもらった方がこいつらも喜ぶだろ!」
 いい事言ったと満面の笑みを浮かべるおじちゃんにもう、返す言葉もない。察してしまった。これは何を言ってももう手遅れだと、
「あー、うん。じゃあ、ありがたく頂いていきます…」
 短時間居ただけなのになんだかどっと疲れてしまった。肩を落として「そろそろ帰ろっか…」と力なく御手杵に声を掛ける。
「そうだな。じゃあありがとうな親父さん、手伝いに来たつもりが色々貰っちまって」
「いいっていいって!名前ちゃんは孫みてえなもんだからよ、あんちゃんももう俺の孫みてえなもんだ」
「御手杵帰るよ!」
「照れ屋だから色々手焼くかもしんねぇがまぁよろしく頼むわ」
「はは、まあそういうところが」
「か!え!る!よ!」
「ははっ!またこき使ってやっから遊びに来いよー」




「…つかれた」
 体力的にというよりは精神的に。
「それ俺が持とうか?」
 酒と桐箱乗っけていいぞと両手で抱えているダンボールを顎でさす御手杵に、持てるから大丈夫と断りを入れる。
「結構重いでしょそれ」
「んー、持つのは苦じゃないが、こんなに貰っちまってよかったのかなって気はするよな」
「まぁ、おじちゃんくれたがりだからね…」
「今日の晩飯何になるんだろうなぁ」
「これだけあったらばあちゃんも献立悩むだろうねぇ。」
 野菜そこまで得意なわけじゃないけど御手杵が頑張って穫ったと思えばいつもより美味しく食べれそうな気がする。
「桑名くんが作った野菜も美味しいんだろうなぁ」
 ゲーム内だけでも農業に特化した彼のこだわりの凄さは見て取れるし、実際に食べたら普通の野菜と比べ物にならないくらい美味しかったりするのだろうか。それに本丸の皆が作った野菜の味がどんなものなのか凄い気になる。さっき御手杵が言ったように本丸の畑はもっと広いみたいだけどどのぐらい広いんだろう。想像を巡らせながらただいまーと玄関をくぐれば靴を脱ぐ前にくい、と手を引かれる。

「どうしたの?」
 振り返ると重いであろうダンボールを片手で器用に抱え少し俯き気味の御手杵が。
「桑名の作った野菜はすげーうまい」
「そ、そうなんだ…?」
 なにやら深刻そうな雰囲気を纏った御手杵に気圧され、じゃあ尚のこと食べてみたいなぁとその場をやり過ごすための愛想笑いを浮かべれば余計眉間の皺がぐっと寄せられてしまう。
「でも、今日の野菜も負けないくらいうまい、」
 と思う。
 弱々しく付け足された語尾とは対照的に手首を掴む力は強い。
「う、うん?」
「だから、いっぱい食えよ。なるべく沢山な」
「?、??」
「うんって言って」
「う、うん…?」
「よし」
 暗がりだった表情が心做しか明るくなる。ぱっと手を離されたかと思えば「じゃあ俺風呂入ってくるわ」と頭を軽くぽんぽんと撫でられた。
「ばあちゃんこれ野菜ー、どこ置いたらいいんだ?」

 玄関先で固まる私を他所に御手杵の声は台所の方まで消えていった。「んぁ?ああこれ隣の親父さんから貰ったんだよ」と話をしている声は先程のような低く唸るような声ではなく、いつもののんびりとした柔らかな音だ。

「なんだったんだろ、今の…」
 御手杵の言葉はたまに突拍子がなくて理解するが難しい。何が何だかわからないはずなのに、どうして、
 どうして、こんなに息をするのが苦しいんだろうか。
(どうして、此方を覗き込む瞳はあんなにも揺らいでいたのだろう)


 ◇
「うわ、もうちょっと拭いて来ようとは思わなかった…!?」
「悪い悪い、」
 風呂から上がってきたであろう御手杵が開けた自室のドアの音で自然とそちらに目が向いた。するとそこには髪も拭かずに服を着てきたのか?と思いたくなるほどの濡れ鼠が立っていた。御手杵は鼠というより、大型犬だけど。水浴びをした犬のようにぶんぶん頭を振って水気を飛ばして部屋や廊下を大惨事にされる前に慌てて駆け寄り、首にかかったタオルを奪って拭いてやる。本当の犬じゃないのだからそこまでの心配は杞憂だったかもしれないが。
 背伸びをしようとすると、御手杵は私が駆け寄るのを待ち構えていたか、腰を折り、背伸びせずとも髪を拭いてやれるように頭を差し出してきた。正直言って、胸がときめいてしまう。威圧感を感じてもおかしくないほどこんなに縦に長い大男なはずなのにかわいらしいと思えてしまうのだから御手杵のポテンシャルというものは末恐ろしい。

「次はちゃんと拭いてから出て来なよ?」
「へへ…わかった、次はそうする」
 小言を言われたというのに随分と嬉しそうだこと。
 目元を細くし、口元を緩める御手杵の顔が近くにあり、心臓がまた可笑しな音を立てそうになったものだから思わず乱雑にわしゃわしゃと描き撫でてしまった。
「ぉわ?!な、なんだよぉ…」
「なんでもないよ。ドライヤー貸して」
「ん、」
「はいじゃあこちらへどうぞ」
「お願いします」
「ふふ、お願いされます」
 満を持して先日からの約束を果たすべく、所定の位置へ手招きすれば深々とお辞儀をしてから胡座をかいてみせた。ただ髪を乾かしてあげるだけなのに妙に恭しく礼をするのがおかしくてくつくつと笑いながらドライヤーのスイッチを入れる。

 御手杵のような好青年からするには少しばかり違和感を覚えそうな甘いシャンプーの香り。そっと髪に触れれば思ったよりずっと柔らかい栗茶色の糸が指の間をすりぬける。

 ほんのちょっとの悪戯心から昨晩の彼を真似、「熱くないですかー」と耳に近付いて尋ねてみれば凄い勢いで振り向かれる。まさかそんな素早く振り向かれるとは思っていなかったから鼻先が触れ合ってしまうのではないかと言うくらい至近距離に御手杵が現れて咄嗟に身を引いてしまう。
「だっ」
「だ?」
「だいじょぶです…!!!」
 日本語を覚えたばかりの外国人もびっくりなぎこちない返事。なんでそんなに片言なんだと疑問に思いながらきょとんと彼の瞳を見詰めて居ると、その視線を遮るかのように大きな両手の手で自らの顔を隠しこれまた凄い勢いで再度前を向いてしまった。
(もしかしなくてもこれは、)
 照れて、いるのだろうか…?
 そんな疑問の答えは目の前に見える耳の赤さが確信へ導いてくれた。にまーっと口角が上がっていくのがわかる。たぶん今の状態で鏡を覗き込めば酷い顔をしている自分を見れるに違いない。いつも照れさせられてばかりだったから逆の立場になると急に優越感でいっぱいだ。
 いつもよりほんの少し朱を帯びた耳を視線でなぞれば猫背気味の広い背中に辿り着く。少し長めの襟足も温風でなびいているおかげでうなじが無防備に晒されている。うちの本丸では大将首を幾度となく取っているであろう御手杵が完全に気を許し、武人の急所を晒していることが何よりも感慨深く思えた。
(痛くないように、優しく、)
 胸の内で呪文のように繰り返し、そう心がけてそっと触れながら乾かしていると不意に御手杵の頭がかくんと船を漕いだ。
 丁度乾いたところだったから「御手杵?」と静かに肩をつつけば「んぁ?」となんとも眠そうな声が。
「おわったよ。眠そうだね、大丈夫?」
「んー…昨日のアンタの気分が良くわかった気がする」
 こりゃ眠くなるわけだ。すげー心地良かった。
 蕩けた声色でぼそぼそとそう喋る御手杵はなんだかとても心臓に悪い。なんというか、見てはいけないものを見ている気分になってしまうというか、変にドキドキしてしまう。
「はは…それは、よかったです…」
 妙に色気を纏っている槍から離れるためをそれとなく距離を取ろうと立ち上がろうとしたのを知ってか知らずか、片方の手をするりと奪われる。
「もっと触ってて欲しいくらいだ」
「ひぇっ……」
 眠たげな瞼の隙間から覗く甘いミルクチョコレートの瞳が、此方を見ている。奪い去られ、自由を失った自分の右手の平に陶器のごとく滑らかで傷も出来物もない頬が擦り寄ってくる。

「ず、ずいぶんと気に入ってくれたようで…」
「毎日でもやってもらいたい」
「まいにち」
「駄目か?」
「アッ、いや、駄目じゃない、ですけど…その、」
「じゃあ毎日じゃなくてかわりばんこにするのはどうだ?」
「え、」
「一日置きに乾かしあいっこすんの」
 かわりばんこ、乾かしあいっこ。大柄の槍から発せられる言葉にしては語感がかわいすぎやしないかと思考回路がショートしまってるうちにも追い討ちのように「駄目か?」と追撃がやってくる。立ち上がった私を御手杵が引き止めているせいで自然と上目遣いされる形になってしまい効果は絶大だ。それに「うん」と頷くまで強制的に頬に当てさせられている手は解放されそうにない。
「わ、わかった。いいよ、」
「本当か!?」
「うん………」
 蚊が泣くような声で弱々しく答えれば眠たげだった目が爛々と輝き今度は両手を握られる。幻覚だろうか、ぶんぶんと御手杵の尻尾が勢いよく揺れているのが見える。

「約束だな」
「うん、約束。……じゃあ明日は御手杵が乾かしてくれるんだね」
「おう!任せとけ」
 やってあげるのはまだしもしてもらうのは恥ずかしいし申し訳ないと思う。けれど、それでも受け入れてしまうのは私自身、御手杵との約束を欲しているのかもしれない。
 いつ目の前から居なくなってしまうか分からない愛しい愛しい私の大身槍との繋がりが欲しい。それがどんなに頼りのないか細い糸でも、何も無いよりはほんの僅かな縁に縋れると思えば彼が居なくなったあとも確かに自分と御手杵が触れ合った軌跡を辿れると思ったから。そして、叶わなかった約束も「いい思い出だった」と振り返れる自分の記憶として残せれば上等だろう。
 ああなんて、女々しいことだろうか。
 御手杵が消えたら此処での生活の記憶は消えてしまうのだろうか。御手杵が私の元に来てしまうのは正しい歴史?それとも間違った歴史?歴史上の人物みたいに世界に関わる影響力をもたらす偉人でもないからそのまま記憶は残されるのだろうか。そもそも何故御手杵がここに来てしまったのかも、わかっていないから全てが想像の内だけれど。

「じゃあ、ご飯食べに下行こっか」
 出来れば消えないでずっと残ってて欲しいなぁ。
 寝起きのぽやぽやした気抜けた顔も、ありがとうっていうとかわいらしくはにかむ顔も、身長差のせいで聞こえづらいのか私が話す度ほんの少し耳を傾けてくれる所も、私を「主」と呼ぶときほんの少し目元を和らげる所も、全部、私だけの記憶だ。画面越しだけじゃわからなかった、私が好きだなと思う彼の表情、仕草、ころころと変わる声色。




 神様がもし、本当に居るのなら私からしたら記憶を奪わないでと縋りたい。御手杵と一緒に居させて欲しいなんて、欲張らないから。どうかずっと、私の記憶に御手杵と過ごした日々を残して置けますように。



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