逆トリップして来た槍のスパダリ力が極まってて困ってます | ナノ


  チョコレートミルク色のおまじない


「し、失礼しまー…っひ、」
 満を持して浴室のドアを開ければ肌露出の多過ぎる最推しが視界に入り、息のしまう場所を誤りかける。言いつけ通り腰にタオルは巻いてくれていたようだがそれにしたって刺激が強すぎる。


「失礼しました」
「まてまてまて」
 これは耐えきれるはずがない。そう思って退室しようとすると、ドアノブにかけた手の上に手を重ね引き止めてくるのだから心臓が本当に口から出てしまうのではないかと思うくらいに飛び跳ねた。重ねられる手の温もり、振り返ればすぐ目に入ってしまうであろう胸筋腹筋の圧力、感じられるもの全てが毒でしかない。


「ひぃぃ!待ってはこっちの台詞!その格好でそんなに近付かないで!!殺す気ですか!?」
 顔から火が出そうなくらい本当に熱い。こんな所にいたら熱中症になってしまうのではないか。
「だってあんたが出ていこうとするから」
「う、わ、わかった、わかったからもう少し離れましょうか…!!」



「それにしても、主なんで服着たまんまなんだぁ?」
 そんなんじゃ風呂入れないだろと首を傾げる御手杵を手で制し、これ以上近づかないよう一定の距離を保つ。
「当たり前です。そんな初日からティーンズラブもびっくりな王道展開繰り広げてたまるもんですか」
「??」
「それに嘘はついてないからね。ちゃんと一緒に入ってますから」
「いやそれはそうだけど」
「風邪は引かないので大丈夫だから!むしろ着衣でこのサウナ状態じゃあっつくて仕方ない。もう身体ぽっかぽか。心配ご無用です!」
 さぁさぁ髪洗ってあげるからそこに腰掛けてと促せば「主が洗ってくれんのか?」と不服げな顔を一変、目を輝かせて素直に着席する。
「ええ、洗ってあげますとも。今の私は一流トリマーですからね」
 そう。今の私はトリマー。目の前にいるのは大型犬。犬をお風呂に入れてあげてると思えばいい、
 平常心平常心と思いながらこんな筋肉質でいいからだの大型犬がいるかと正気の己が囁くたび正気に戻りかけて顔がかっと熱くなる。ええい、なるべく視界に入れるな!髪だけに集中!


「じゃあお湯かけるから耳抑えて目つぶっててくださーい」
「ん、」
 言う通りに従う御手杵は大型犬というより幼い男の子みたいでくすりと笑ってしまう。まあ身体を視界に入れなければの話ではあるのだけれど。
 シャンプーは男性が使うようなものなんてのは我が家にはないので仕方なしに自分が愛用しているものをプッシュする。甘ったるいとまでは言わないが大柄な体格の御手杵からほんのり甘い匂いがすると思うとなんだか妙にかわいらしく思えて口元が緩んでしまう。


「シャンプーつけまーす」
 見た目よりずっと柔らかな髪の毛に感動しながら御手杵の世話を直接やけるなんて贅沢だなぁと悦に浸る。いつもの癖でリンスもつけてあげれば「なんだこりゃ、ぬるぬるする…」と眉をしかめられてしまい、思わず笑ってしまった。彼にとっては初の試みだったのだろうか。たしかに、髪のケアをするような人ではなさそうだけど。
「リンスだよ。髪の毛さらさらになるようなやつ。そっちでも使ってる子居そうだけどな」
 乱とか加州とか、使ってるところ見た時ない?と尋ねればあああれかと納得した声が帰ってくる。勝手な想像で名前を上げて見たんだけどどうやらその予想は当たっていたらしい。

 髪を流し、今度はボディタオルで背中を洗ってやる。自分の背よりずっと広くて逞しいそれにうっかりときめいてしまい、これはいかんと雑念を振り払いあとは自分でやって下さいとタオルを押し付ける。
「えー、背中だけ?」
「あ、当たり前でしょう!そういうのセクハラだからね!?」
「あだっ、冗談だよ冗談。」
 思わぬ言葉に声量が大きくなってしまう。前までご丁寧に洗うなんて真似出来るか!と肩を叩くように再度ボディタオルを投げつける。
 身体を洗うところをまじまじと見る訳にも行かないのでドアの近くまで下がり、風呂場のタイルを無駄にじっと見つめ小さく縮こまっていれば「猫みたいだな」と笑みを含んだような御手杵の声が聞こえる。


「終わったぞ」
「さ、左様でございますか…」
 ざぶんと湯船に浸かる音がしてくるりと振り返れば、濡れた前髪を鬱陶しそうにき上げる御手杵が居て、しゃがみこんだ状態から尻もちをつきそうになる。危ない、パンツまでびしょびしょにするところだった。
「か、顔、…!!」
「顔?」
 顔が良い。
 心臓を服の上からぎゅうと抑えることによって身体の力が抜けていくのを抑え、尻もちは回避出来た。
 普段は前髪で見えないおでこが顕になって、男前な顔立ちがいつもより見やすくなってしまっている。

「こんなん新規絵じゃん…」
「?大丈夫か」
 脈を激しくうっているせいか心臓が痛い。通常時の御手杵をこの目で見ることさえまだ慣れていないというのに、勝手にバージョンをグレードアップさせないで欲しい。もっと対応しきれなくなってしまうじゃないか。もうやださっきから心臓が痛いと言ってるのにこんな仕打ちあんまりだ。冗談抜きで好きすぎて死んじゃいそう。顔が良い自覚が全くないであろう御手杵の呑気な声色が今はとても恨めしい。
「そんな離れてないでこっち来なよ。せっかくあんたと居るのに寂しいだろ?」
「ぐっ、」
 口を開く度甘い言葉を吐くなとかタチが悪いからその気もないのに無自覚に人を口説くなとか説教を垂れてやりたかったがそんなことをする余裕は今の自分にはなく。
 ちょいちょいと手招きする彼の導き通りに、心臓を抑えながらそろりと浴槽の近くまで寄る。

「寒くないか?」
「あっつくてしょうがないくらいですが…」
「汗かいてる」
「そりゃあねぇ…生きてますから」
「じゃあ一緒に風呂」
「入りませんけどね!?」
「そーかい」
 この槍、こちらの反応を見て楽しんでいないか?あからさまに動揺し声をあげればくつくつと喉を鳴らす御手杵。完全にからかわれている気がしてならない。極になった御手杵の余裕とでも言いたいのか。勘弁して欲しい、主の寿命のためにも御手杵は一生かわいいわんこ属性でいるべきだ。急にスパダリ属性を引っさげて帰ってくるんじゃない。

 熱気で温まってる空間で心臓に悪いことが立て続けに起きたら汗の一つや二つかくのは仕方ないことだ。それを拭おうと手を伸ばしたのか、近付いてくる御手杵のそれを「汚いから触んない方がいいよ」と押し返す。触んない方がいいというか好きな人に汗を触られるとか、なけなしの乙女心ではあるが耐えられない。
 何故だかちょっとムッとしたように見える御手杵のかわいらしい顔も、濡れ髪効果のおかげで五割増で男前だから見てられない。2秒と見つめていられなくて浴槽の縁についている水滴を無意味にじぃっと見つめれば「面白いくらい目が合わないなぁ」という言葉が旋毛へ落とされる。
「うっ、それは…仕方がないというかなんと言うか…」
「…いつもはもっと見てくれたのに」
「え?っっどわ、!?!ちょ、いきなり立つな!」
 ざぶんと勢いよくお湯が波打ち、ぽつりとこぼされた御手杵の言葉を聞き逃してしまった。
「蒸し風呂状態で主がぶっ倒れてもいかんしな。そろそろ上がるよ」
「いやいやいや今まさに心臓発作で倒れるところでしたよ!?」
 咄嗟に壁を向き、目を瞑る。だからこの子の行動はどうしてこうも前触れというものがないんだ…!

「わ、私すぐ入れるように着替えとってくる…ので…それまでに服着といて下さいね……」
「おう」
 ああもうお風呂に入る前から疲労困憊だ。脱衣所を出てよろよろとした足並みで自室へ向かう。お風呂場との温度差で寒いと感じる程だったがそのくらいの涼しさが今の火照った身体には丁度いい。



 ◇

「お、おてぎねさーん?服着れましたー?」
「おー、入っていいぞー」
 恐る恐るドアノブを捻ればダボダボになるはずのスウェットをつんつるてんに着こなす御手杵の姿が。なんというか、絶妙にダサい。そのダサさすらもかわいいと思ってしまうのはもはや一種の病気かもしれない、でも仕方がない、推しはかわいくて愛おしいものなのだから。

「や、やっぱり御手杵にとってはサイズが小さいんだね…!け、結構、ふ、大きいかと思ったんだけど…っ」
「笑うならいっその事思い切り笑ってくれ…」
「っふ、!っはは!いやごめんごめんちょっと不格好なのがかわいくてつい…」
「なんだよかわいいってぇ…」
「かわいいものはかわいいんだよ」
「なぁ、これせめて上だけでも脱いでいいか?」
「ぜっっったい駄目です」
「うぇ〜…駄目なのかぁ」
 正直ドアを開けたら、窮屈な服に耐えきれなかった御手杵が半裸の状態でいるんじゃないかと危惧していた。その予想はあながち間違いではなかったらしい。それでも服を着て待っててという言いつけはきちんと守るのだから案外約束事はきちんと守ってくれるらしい。

「ハイハイ、いいから早く髪乾かしちゃいなよ。」
「ん、」
 背伸びして、首にかかったタオルで焦げ茶色の柔髪をわしゃわしゃとしてやれば気持ちよさそうに目を閉じるものだからきゅんと胸が高鳴る。
「ドライヤーあっち持ってっていいからちゃんと乾かしてくださいね。使い方わかる?スイッチ押せば暖かい風出てくるからそれで乾かすんだよ」
「それは主がやってくれないのか?」
 さも当然といった様子で言ってのける御手杵とお互いにきょとんとした顔で数秒見つめ合う。これが漫画の世界なら二人とも頭の上にはてなマークが乗っている所だろう。


「…うちの御手杵さんは随分と甘えたらしいね?」
「っ!」
 今度顔に火を付けたのは御手杵の方だった。この様子を見るに、どうやら世話を焼かれるのをお気に召したらしい。あまりの微笑ましさに口元を緩めてにやにやしてしまえば居心地悪そうに目を泳がせながら首の後ろを片手間に掻くのだった。

「あー、いや、…すまん。ちと浮かれすぎてるな。悪い」
 顔を赤くする御手杵にキュンとしてしまう。その悶えを隠す代わりに再度背伸びをして自分より高い位置にある頭をバスタオルでわしゃわしゃとかき撫でてやる。
「今日は流石にこのままだとほんとに風邪引きそうだからね。明日はやってあげますよ」
「本当か!?」
「う、うん」
 がしりと両肩に手を置き少年のようにきらきらと目を輝かせる御手杵に若干気圧される。そんなに食いつくようなことだろうか。まあでもそんなことでも嬉しいと、楽しみだと思ってくれているのなら私も嬉しくなってしまう。
「明日、絶対だぞ」
「ふふ、うん、約束ね」
「絶対だからな?」
「わかったから。お風呂上がりのアイス買ってきたから早く髪乾かして行っといで。お母さんに言えば出してもらえるだろうから」
 ご機嫌に風呂場を後にしていく御手杵の後ろ姿が愛おしくて口元の緩みが留まることを知らない。なんだか大きな弟が増えたみたいだ。



 ◇


 髪をそこそこに乾かし、居間へ迎えばカップアイスの空を目の前に置きTVをぼーっと眺める御手杵の姿が。
「美味しかった?」
「あんたにも食わせてやりゃ良かったなって思う頃にはもうなくなってた」
「ふは、それほど美味しかったってことでしょ。お気に召してくれたみたいでよかった」
 あ、そういえば御手杵何処で寝てもらおうかな…お世辞にも広いとは言い難いこの家と彼のサイズ感は生憎と相性が悪い。部屋数が少ないし狭いし天井も低い。彼がこの家の作りに慣れるまで何度鴨居に頭をぶつけるか考えただけで可哀想だ。

 寝てもらうにも私の部屋は狭いしなぁ…可哀想だけど今の炬燵で寝てもらうしか…ああでも今時期だと風邪を引きかねない気がする。
あれ、でも刀剣男士ってそもそも風邪引いたりするんだろうか。うーん人の身を得て血も流すんだから風邪だって引きそうではあるよなぁ。
あ、私が居間で寝て御手杵には部屋の布団で寝てもらうのもありか…?雑魚寝をしたところで翌日の仕事に疲れが後を引く気もするが御手杵に不自由をさせる心の痛みと引き換えにすると思えばなんてことはない。
 まあでもばあちゃんかお母さんに何処で寝るか聞いてみるかと思ったところで次にお風呂に入るであろうお母さんがひょっこりと今に顔を出した。


「あ、そうだ。お客さん用の布団もうだいぶ古くて捨てちゃったから御手杵くんあんたの部屋で寝せてね」
「はい??」
「炬燵でなんて寝せたら風邪ひいちゃうでしょ。」
「いやいやいやそれはそうなんだけどさ!?ちょっとは娘と年頃の男が同じ床に入ることにもう少し戸惑いと焦りを持って欲しいんだけど!?」
 厳密に言うと年頃の男の子ではないのだけれど、絵面的にはどう見たってそうだ。そもそも付き合ってもいない男女が同じ布団で夜を共にするというのはあまりよろしくはない。
「朝だって一緒に寝てたんだから夜一緒に寝てもどうって事ないでしょ」
「だからあれは不可抗力なんだって!!」
「それにさっき言ったでしょ。あんたがちゃんと面倒見るって」
 ぐうの音も出ないとはこの事だ。確かに言った。言ったが御手杵と同じ布団で寝ろと…!?どう考えたってあの布団じゃぴったりくっついて寝なきゃ二人ともはみ出そうな面積だ。接触イベ不回避。すなわち私の心臓への負荷が再びやってくる。
 頭を抱える娘をよそにじゃあお母さんお風呂に入ってくるからと居間を後にする。なるほど、慈悲などないって訳ね。
 もういい、全てを諦めて今日早めに横になってしまおう。そういえば化粧水もなにもつけていないままだ。部屋に行って申し訳程度の保湿でもしておくことに越したことはない。

「御手杵まだ起きてる…?起きてテレビ見ててもいいけど寝る前は歯磨きしておいでね。」
 新しい歯ブラシはばあちゃんかお母さんに聞いて出してもらってと伝え、返答を待つことなくフラフラと自室へ戻る。御手杵が寝る前に寝てしまえば意識がないのだからこっちのものだ。早く適当にスキンケアして眠りについてしまおう。
 今から眠りにつくとだいぶ健康的な時間帯に寝起きすることになるがいつもの不健康すぎる睡眠時間を考えれば良いことなのかもしれない。たまには早寝早起きしてみろとの神のお達しだ。




 化粧水と乳液を適当に顔を塗りこんだあと、保湿にボディクリームを塗ってしまおうと手に取った時自室の扉越しに「あるじー」と今最も聞きたくない大好きな声が聞こえてきてうっかり蓋を取り落とした。
「どうしました」
「炬燵で居眠りするなら部屋行って休みなってばあちゃんが」
「ああ…」
 それで自室の場所を教えられたって訳か。
「寝たいならそこのお布団でどうぞ」
「主も一緒に寝るんだよな」
「う、うん…」
 御手杵が眠りについたあと、やっぱりこっそり居間に移動して炬燵で寝るのもありかなぁなんて企てていると、その思惑を見透かしてか否か、「あんたが来るまであっためて待ってる」と布団に入りじいっと此方を凝視し始める。
 やはり、退路を見出すのは無謀だったのだろうか。推しと初対面にも関わらず一緒の布団で寝るなんてべったべたの王道夢小説展開をする羽目になるとは。夢にまで見たシュチュエーションではあるが心臓と胃の痛さを考えれば経験しない方がいいのかもしれないと強く思った。

「それ、なに塗ってるんだ」
「え?あ、ああ。これはボディクリームだよ」
「ぼでぃくりぃむ」
「肌の乾燥を防ぐ…塗り薬?みたいなやつっていえばいいのかな」
 うまい説明が思い付かず曖昧な答えになってしまう。
「匂い付きだから人によって好みはわかれるかもしれないけど、私はこれいつも使ってる」
「ふぅん」
 あ、私が好きでも。御手杵が苦手な匂いだったらどうしよう。一緒に寝るってことは、こう、香りが近くでするということで、もし苦手な匂いな場合かなり苦痛な状態で眠りに付かなくては行けない羽目になるのでは。
 今日は塗るのやめておこうかな、なんて手を止めているうちになにやら興味を示したのか、横になっていたはずの御手杵がむくりと身体を起こし「なあそれ、俺が塗ってみてもいいか」と聞いて来た。
「いいけどこれ自分に付けたら結構長いこと匂いするかもよ?苦手な香りとかじゃない?」
 ちょっと嗅いでみたらと促せば「つけるのは俺じゃないから別にいいんじゃないか」とよくわからない返答が返ってくる。

「ああでもどっちにしろ手に取るから俺にもつくのか。」
 まあいいかと言いながら隣に腰かけ何故か此方の腕を取る御手杵。
「んー、やりづらいな。ああそっか、こうすればいいのか」
「エッ、」
 よいしょと再び腰を上げたかと思えば背後にまわり抱き込むような形で腰を下ろす。急に身体を密着させられるものだから思わず飛び上がりそうだったが肩の上に顎を置かれ。前にある腕を覗き込むようにされているせいで下手に身動きが取れなかった。
「ああああの?!!御手杵さん!?」
「んぁ?どうした」
「ど、どうしたではなく、ですね。あの、何故私は貴方にこう、だから…そう、!っこの体勢になったのはなんでかなって!!?」
 思考回路が上手く働かず、口に出来る言葉は下手くそな日本語ばかりだ。
「なんでって、今言ったろ?これ塗ってみてもいいかって」
「へ、」
 塗ってみてもいいかって、もしかして「俺が、主に、塗ってみてもいいか」って意味だったのだろうか。時差を置いて彼の正しい言葉の意味を理解した頃には既に何もかもが手遅れだ。

「俺さぁ、さっきあんたの手で、ああやって触られて嬉しかったんだよな」
 なんつーか、暖かくて、嬉しくて。だから主にもなんか世話を焼きたくなった。
 きっと顔を後ろに少し向ければ口元に笑みのひとつでも携えてそうな声色。この槍はどれだけ主を慕ってくれているのだろうか。ゲームのステータスにレベル以外に好感度と言うゲージがもしあればカンストして桜のふたつや三つでも舞っていそうだ。そんな御手杵の嬉々とした様子を微笑ましいと思える余裕などないほどに心臓の脈は生き急いでいた。
 近い、近すぎる。さっきから耳の近くで御手杵の声がするせいでありとあらゆる神経がぞわぞわそわそわしてしまっているのがわかる。

「主の腕は随分と細こい腕だなぁ」
「そ、そんなことないと思います、けど、」
 近くにいるせいだろうか。極めつけにいつもとは少し穏やかなぽそぽそと静かに音を零す低い声が鼓膜の弱い所を掠めて行くせいで、びくりと身体が小刻みに揺れてしまいそうだ。悟られないよう耐えてはいるが正直会話所ではない。

「細くて折れちまいそうだな」
「細身とは言い難い肉付きの良さですが…?」
「やわいのはいいと思うけどなぁ、触り心地良くて」
「そういうのセクハラです」
「うえぇ?…なんか、そのせくはらってやつ言われんのやだな。」
「だって褒め言葉じゃないもの。刀剣男士の価値観は私には良くわからないものだけどね、少なくとも今の時代の女性が太いだのやわいだの言われて喜ぶ人は少ないから!」
「そういうもんかぁ?」
「そういうもんなんですよ。」
「俺としてはもっとこう、がっしりして欲しいんだが。」
「ええ、なにそれ。私に蜻蛉切さん並に逞しくなれって言ってる?」
「それは………嫌だな」
 なんだ今の間は。今絶対想像したでしょ。じとりと横目で睨めばそういう話じゃなくてと訂正が入る。
「あんたは俺よりずっと小さいだろ?」
「そりゃ御手杵と比べたら大半の人は小さいかと…」
「うん、だからちょっとこわい」
「怖い?」
 手首をそっと掴まれ、部屋着の袖を捲られたかと思えばボディクリームのひんやりとした感触が腕に乗る。
「俺なんかが触ったらあっさり壊しちまいそうだと思ってさ」
 今まで散々距離を詰めてきておいて肌を滑らす手には力が一切入っていなかった。肌の上を滑るだけで握ろうとはしない。その感覚がくすぐったくもあるのだが、あんなに容易に触れてきたのに急に距離を置かれたみたいで一抹の寂しさを感じてしまった。諦めのような、哀愁のような、なんと形容したらいいかよくわからないがもの悲しげな彼の表情がどうしても気に食わない。

「お、?」
 べりと身体と身体を引き離し肩を掴んで顔を覗き込めば少し揺らいだミルクチョコレート色の瞳がこちらを捕らえた。
「御手杵」
 ああそうか、私はきっと今、寂しいのか。
「!?あ、あるじ…?」
 寂しい。彼の思っていること、考えている事など全て見透かせることなんてできっこないけど、御手杵と私は違う者(物)なのだと言われているような気がして寂しさを感じてしまったのかもしれない。
 急にどうしたんだよと焦る御手杵を見て見ぬふりして彼の背に腕を回す。
「御手杵もぎゅっとして。」
「な、なんだよいきなり…」
「いいから。主命だよ」
「うえぇ!?」
 主の権限を振りかざすのは些かずるい気もするが、一線を引かれてこっちは拗ねてるんだ、これくらい許されたいと開き直る。
「ほら、早く」
「う、わ、わかったよ…!」
 恐る恐る、と言ったように背に手が回される。
 ぎこちないその仕草に小動物を潰さぬように触れるような弱々しさと緊張感が伝わってくる。

「もっとぎゅっとしても大丈夫だよ」
「お、折れちまわねぇかぁ…?」
「大丈夫大丈夫、」
 そっと目を閉じ、大丈夫の呪文を身をもって唱えるように強い力で抱き締めてみれば、顔の近くで息を飲む空白の音が聞こえる。

 ねえ御手杵、私は貴方に会えて嬉しいよ。愛おしいと思う気持ちをこうやって抱き締めて温もりで伝えられるのが何よりも幸せで嬉しい。帰るべき場所があるとはわかっているけどどうか、きっとこの限られた時間の中でだけはどうか、触れることを許して欲しい。声に出して伝えるほどの勇気はないけど、少しでもその想いが伝わりますようにと願いを込めつつ、赤子をあやす様に背中をぽんぽんと軽く叩いてやればようやくぎゅうと抱き締め返される。
 ああこれはなんとも
「あったかい」
 御手杵の声と頭の中の己の声がぴたりと重なる。
「うん、あったかい」
 とくんとくんと鼓動が動く。ふたつのそれのうち少し早めに生き急いでいるのはきっと私のものだろう。思えば大胆すぎる行動をしてしまったと思う。
 でも、なんとなくこうでもしないとこの先御手杵は触れることを躊躇しそうだと思ったから。いや過度なスキンシップがあってもそれはそれで心臓に悪いが。人と触れ合うことに恐れて欲しくなかった。せっかく感じられる温もりを自ら遠ざけるなんて勿体ないでしょう。もっとも、レプリカや写しとして人々と触れ合ってきた御手杵のことを思えばそれは杞憂で私の考えすぎだったのかもしれないが。

「主、いい匂いする」
「お、御手杵も同じシャンプー使ったはずだけど?」
 すんと耳元で鳴らされ、とんでもない体勢でいる現実に引き戻される。
「そうなのか?なんかわかんないけど、あんたは特別いい匂いがする」
「っ、!!」
 匂いの元を辿ろうとしているのか抱き締めたまま耳たぶ、首筋、鎖骨と口元が寄せられる。これは犬がじゃれているだけ、そう、思いたいのに!
「んー、やっぱ俺のとは全然違う気がする。なんでだろうなぁ」
「っ〜〜!!!」
「あ、わかった。こいつ以前にあんたがいい匂いするんだ」
「い、いい匂いなんてしません!!」
「してるよ。なんかこう、…食えそう」
 誰か私を助けてくれ!!!
 再度確かめるように鼻を鳴らしたり、ぼそぼそと独り言のような問いかけをするたび肌に息も、唇も当たるものだから一気に顔が沸騰する。
 この距離に誘い込んだのも許したのも自分で、全て自分が悪いのだけれどこれは流石にキャパオーバーだ!
 背中に回していた手を両肩に置いて、思い切りぐいと押し返す。
「と、とにかく!今日はちょっと早いけどもう寝よう!!明日は一日買い物する予定だからね!」
「お、明日は丸一日主と一緒ってことか?そりゃ楽しみだ」
 だからそういうことをさらっと言うな!と声に出すのももう億劫だ。この人たらしの槍の言動を逐一気にしてたらキリがない。

「はいはいそうと決まれば布団に入った入った!」
「ぎゅってして寝るか?」
「寝ない!」
 先の言動を真似てにやにやしながらこちらの顔を覗き込む御手杵に掛け布団を乱雑に投げる。
 ため息をついて布団に入ればいつもはひんやりとしている布団もまるで湯たんぽを予め入れて温めておいた時のようにぬくい。
 ごろんと横になるとあまりの心地の良さに秒で寝落ちしてしまいそうだ。この整いすぎた御手杵のご尊顔が数センチ先に無ければ。
「なんでこっち向いて寝ようとしてるんですかね…」
 この男には気まずいとかそういう概念はないのだろうか。
「駄目か?」
「駄目って言うか…緊張して眠れなくなる」
「はは、なんだそりゃ」
 目尻をふにゃりと下げ、愛おしいものを愛でるような手つきで髪を梳いてくる。なんだ、そんな色男がするような仕草、どこで覚えて来たんだ。花街か?やっぱあっちには刀剣男士専用の花街的なものが存在するのか?
「ボディクリーム、匂いキツくない?大丈夫だった?」
 動揺を隠そうとするあまり言葉を並べる速度が早くなる。これでは余計に変に思われてしまいそうだ
「ん、大丈夫。割と好きだよこの匂い」
「よかった、私も好きだからなんか嬉しいよ」
「んふふ」
「…なに?」
「好きだなぁと思ってさ」
 とろりと、ちよこれいとのような彼の瞳がまた溶ける。
「……匂いが、ってことですよね?」
「んー?まぁ、そういうことにもなるな。あんたがつけてるこれが一番好きな匂いかも」
「っっだーー!!もうこの甘ったるい空気!!!!やめよ!?!寝るって言ったよね!?!?」
 耐えられない!と悲鳴をあげ降参の狼煙を上げればけたけたと幼い笑い方をするから感覚が狂う。前々から気づいてはいたがこの男ギャップが激しすぎやしないだろうか。
 勘違いしては行けない、彼は、主としての私を好きなんだ。自分の持ち主が、自分が守るべき対象である審神者が、昔から御手杵を愛してきた『人』が愛おしいのだ。だからこんなにも甘露を煮詰めたように甘ったるい瞳で此方を捉えて離さないんだ。そこを履き違えてしまっては行けない。敬愛と恋慕を重ねてみては行けない。あとから痛い目を見るのは自分の方なのだから。
「おやすみ」
 この自分勝手な恋心も同時に寝かし付けるようにそっと声を掛ける。
「ああ、おやすみ」
 心地の良い低音が耳に入ってきたのを合図にくるりと背を向け、なるだけ布団の端の方によって身を縮こませる。
 嫁入り前に会ってまもない男の人と同じ布団に入ってしまった、なんていう古風な考えと、所謂自分の部下である刀剣男士に邪な感情ばかり抱いてしまう自分に嫌悪感を抱く気持ちに板挟みされ、寝心地が悪いことこの上ない。布団の温かさはこの上なく最高なはずなのに精神のコンディションが地の底なせいで寝付きが最悪だ。
 悶々とする此方の様子を知りもしない対岸の槍は目を閉じてすぐ、眠りの世界に旅立ったらしく、背後からすぅすぅと規則正しい寝息が聞こえてきた。
 なるべく掛け布団を動かさぬようゆっくりと身体を動かし、御手杵の方へ顔を向ければほんの少し丸まった広い背中が目に入る。
 呼吸をする度聞こえる音に、度々身動ぐ身体。私の愛してやまない槍が、手の届く範囲でこうして生きている。その事実を噛み締める度鼻の奥がつんとする。

 御手杵に会えて嬉しい。それは紛れもない事実だ。
 でもその気持ちとは相反して、会わなかった方が良かったかもしれないなんていう気持ちも芽生える。
 きっと御手杵は本丸に帰る。
 こうして触れて話せて、意思疎通が出来るのもきっと短い間なものだろう。
 御手杵が本丸へ帰れば、会話と言うよりいつも通り御手杵という刀剣男士のキャラクターの立ち絵に一方的に話しかけるだけの生活に戻る。それが普通で日常だ。
 いつ帰るかなんてきっと彼にも私にもわからないことだ。もしかしたらこうして目を閉じ朝を迎えれば今視界に入る広い背中も夢幻の如く消え、たった一夜の淡い記憶の中に溶けていくのだろう。
 それはなんとも悲しい。別れが来るのなら最初から会わなければよかった、なんて女々しい思考回路に至ってしまうのはこの上なく恥ずかしいことのようにも思えるがしかたない。それほどに私は御手杵を好いているのだから。
 朝目が覚めて、御手杵がいなくなってしまったらどうしよう。顔を直接合わせて丸一日にも満たないのにここまで依存してしまっているのだろうか。情けなさを感じながら早くに訪れてしまいそうな別れに怯えていると自然と目の奥が熱くなり、鼻まで啜りはじめてしまう。良い年した大人が情けない。わんわんと声を上げて泣いている訳では無いがこのままずびずびと音を立てていては御手杵を起こしてしまうだろう。

「(早く泣き止まなきゃ)」
 そう思うのに一度堰を切ってしまった感情のダムはそんなにすぐに止められない。もうこれはだめだ、下へ降りて水でも飲もう。頭を冷やしに一回外に出るのもいいかもしれない。
 すんと鼻を啜り、どれ起き出そうかと目を開ければ、背を向けて寝ていたはずの御手杵のくるりとまあるい双眸がこちらを捉えていて思わずぎょっとする。
「お、おきてたの」
「いや寝てた。けど、あんたが泣いてるから」
「起こしちゃってごめん」
 ちょっと頭冷やしてくるから寝てて
 そう言って身体を起こそうとすればそれを阻むように御手杵の腕が伸びてくる。
「んぶ、」
 今しがたしようとしていた行動をキャンセルされ、顔面が枕に埋まる。
「なんで泣いてるんだ」
「…それ聞いちゃいます?」
 くぐもった声が枕に吸い込まれていく。
 こういうときは見ない振りをするのも優しさというもんだと人間らしさをご高説してさしあげようともおもったが下手に声を出したら声が震えてしまいそうで口を開いて音を出すのを辞めた。枕に突っ伏したのをいい事に、情けない顔を隠すため敢えてすぐ起き上がらずそのまま顔を布地に押し付ける。枕からはほんの少し蜂蜜のようなあまいシャンプーの香りがした。

「俺はさ、刺すことだったら誰にも負けない自信がある」
「…うん」
「でもこうして人の身を得て、心を覚えて。それでもまだまだあんたらには追いつけない。他の連中だったらもっと上手くやるんだろうが俺はとんと駄目でなぁ。」


「だから言われないとわかんないんだ。」
 言われても、わかんないことも、まああるけどと口をもごつかせる姿に力が抜ける。嘘をつかず正直に言ってしまえるところも彼の長所だ。

「主、あんたのこと、全部とは行かないかもしれないが知りたいと思う。何が好きで何が嫌で何に思い悩んでるのか、」
 あんたの声で、教えてくれ。頼りないかもしれないが、こう見えてあんたの支えになれたら、なんて思ってたりもするんだぞ?
 静かで凪いだ広い大海原の漣のような耳心地の良い低音が心の隅のほつれを引き、固まった心を絆していく。
 枕から顔を外し、先程のように御手杵と向かい合って横になれば此方の表情につられてしまっているのか、今にも泣きそうな表情をした御手杵が視界に入る。

「俺は天下一の槍になる。でもそれとは別にあんたの心ってやつに一番寄り添える槍でもありたいんだ。」
 少しかさついた指先で目尻をぐいと拭われる。この槍は、本当に何処までいっても無垢で優しく、真っ直ぐで、時々眩しい。こうも簡単に心臓を的確に射抜いてくる個体もなかなかいないのではなかろうかと若干親馬鹿目線になりつつもその言葉を真正面から受け止めると余計に涙が溢れてきそうだった。

「…目が覚めたら居なくなっちゃうのかもなぁって、思ったら、………寂しくて、」
 意を決して包み隠さず思いを吐き出せば案の定声は震えていて。
 御手杵が本丸に帰れるに越したことはない。しかし例えそれが良い事だとしても割り切れないことが人間にはある。
 しかし理由はどうあれ、やはり良い年した大人が離れ難いからと泣くのは流石にナシだろう。もしかしなくても自分キモすぎでは?と我に返りかけていると「あるじ」と今日一番の柔らかな声で呼ばれる。
「大丈夫だぞ」
 小さい子供をあやす様に頭を軽く撫でられ若干の恥ずかしさを覚える。
 だいじょうぶ。自分の中でその単語は自分を叱咤する強がりの呪文として幾度となく唱えてきたものなのに、御手杵がそういうと優しい魔法に早変わりするのだから言葉とは不思議なものだ。
「なにが」
「んー、なにがって言われると難しいけど、とにかく大丈夫だ」
「なにそれ」
 根拠もなく呟かれる頼りないはずなのになぜだか本当にだいじょうぶな気がしてくるそれに笑みがこぼれる。

「不安ならさ、やっぱこうやって寝ようぜ」
「わっ、」
 腰を抱き寄せられ、体を密着させられたかと思えば脚の上に御手杵の長い脚が乗せられる。まるで長い蔦で布団に縫い付けられてるみたいだ。
「大丈夫だ。朝起きてもちゃんと俺は居るから」
「うん、」
「明日、主と出掛けるの楽しみだしなぁ、」
「うん、それは私も…」
「それに、明日の夜は髪の毛乾かしてもらう約束もあるしまだ帰る訳には行かねぇよ」
「うん…うん……」
 そうだね、
 呟いたつもりの言葉はきちんと声として空気に乗っただろうか。近くで聴こえる御手杵のとくん、とくんという鼓動が子守唄みたいで、瞼が重い。
「…おやすみ、主。」
 ぎゅうと大事そうに抱き込まれると安心感で余計眠りの世界に引き込まれる。御手杵は槍でおっきくてふわふわする犬で、それでいて、癒しの魔法使いだったりするんだろうか、





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