出口のない城

私は尾形さんが苦手だ。それは、あの威圧的で上から目線で嫌味たらしい物言いのことを言っているのではない。
「おい、名前」
「は、はい!なんでしょうか…?」
私は尾形さんの「声」が苦手だ。
「このあとの休憩、会議室に来い。」
この状況は非常にまずい予感がする。
くれぐれもお前一人で来いよ。去り際に肩をぽんと手を軽く置きながらぼそりと呟かれたクギを刺すような物言いが妙に耳に残る。メーデーメーデー、神様私は無事にあの魔の会議室から生きて戻られるのでしょうか?



「失礼します…」
ドアを軽く叩くノックの音が開戦の合図だ。もっとも、試合が始まる前から敗北の文字が見えている負け戦でしかないのだが。試合前から戦意喪失、出来れば今すぐ白旗を上げて降参の二文字を掲げてしまいたいくらいなのだがそうはいかない。キリキリと痛む胃の悲痛な叫びも虚しく、無残にもドアはバタンと少し大げさな音を立てて退路を塞ぐ。さぁ、これで逃げ道は無くなった。あとはもう目の前の大ボスとの会話を終えなければ、それ以外に脱出の方法はない。尾形さんは一体何のようなのだろうか、なるべく手短にお願いしたいなと淡い期待を抱きながらちらりと目線を上げ様子を伺う。
「今回は、ちゃんと逃げずに来れたようだなぁ?」
「…なんのことでしょう。」
開口一番緊張の一筋が走り、背筋がピンと伸びる。なんのことだとシラを切っては見たものの、心当たりは大ありだった。
尾形さんは存外優しい。言い方や態度の問題は少し感じられるが意外と面倒見のいい、良い上司だと私は思う。同期の女性社員も目を惹く整った顔立ちや少しSっ気の垣間見える雰囲気とたまに感じさせる少しの優しさがドキドキするとよく話題にしているのを耳にする。
良い上司であることはわかっている。わかっているのだが。私にとってこの人は毒でしかない。いい声すぎるのだ。
それだけのことか?と思われるかもしれないが私にとっては大問題だ。業務の引き継ぎや仕事の内容だとわかっていても尾形さんに名前を呼ばれると身体の力が抜けてしまう。彼の気まぐれなのか最近では苗字で呼ばれる割合と下の名前で呼ばれる割合が半々くらいになぜかなっていてその度脈が早くなり身体が火照ってしまう。そのこともあり私はここ数日尾形さんと話す機会をことごとく潰すように上手く立ち回り、結果避けるような形になってしまった。それが気に食わなかったのか彼の表情は笑みを浮かべてはいるもののこれっぽっちも朗らかなオーラを纏っていない。感じるものは怒りと威圧。ただこれだけだ。
「ほぉ、この状況になってもしらを切るつもりか?」
「え、あ、いや、その、」
にっこりとした文字通り貼り付けた笑みのまま一歩一歩ゆったりこちらへ近付いてくる尾形さんは下手なホラー映画よりよっぽど恐ろしい。すでに半泣きになりながら少しずつ後ろに下がっていくと入ってきたドアにカツンとパンプスの踵が当たる。
「それで?なんで俺だけを避けるのか聞かせてもらおうか?杉元や谷垣辺りと普通に喋ってるところを見るに男が苦手って訳じゃなさそうだが?」
「ひ、」
近い近い近い!これでもかというくらいドアに身体を押し付けなるべく彼との距離を保とうとするが顔のすぐ横に尾形さんの手の平と腕があり、付けているネクタイピンの装飾まではっきりとわかってしまうほどの至近距離ではその行為は無駄なあがきでしかなかった。黒々とした瞳の微々たる動きが目視出来るほどの距離、脳の神経を蝕んでいくほどの低い低音に加えて普段は強く感じることのないほんのりと香る男物の香水。目で、鼻で、耳で感じられる全てが刺激的で頭がクラクラする。今の私はきちんと立つことさえ精一杯だった。
「…だんまりか。見かけによらず案外度胸あるんだな。」
根性あるんじゃなくてただ単に声が出せないだけですから…!
「他の男も同じように距離を取ってるならなにも文句は言わねぇさ。避けられる道理も嫌われるようなことをした心当たりもない。」
壁ドンされている左側とは逆のあいたスペースへ、顔ごと視線をそろりと逃すと「目逸らしてんじゃねぇよ」と片手で両頬をむんずと掴まれ、強制的に目を合わされる。もう勘弁して下さい!魅惑の声からの攻撃だけでは飽き足らず、心臓を大きく跳ね上がらせるボディタッチの数々に眩暈がする。
「なんの理由もなく避けられちゃ流石の俺でも傷付くぜ?」
「っ、」
「なぁ、名前。どうして俺を避ける?」
ぐっと顔に影が落ちるほど顔を近づけられこの上なく甘ったるい声で名前を呼ばれ、腰が砕ける半歩手前まで迫っている。もう、我慢の限界だ。
「しゃ、しゃべんないでください…!」
「は?んぐっ、」
ぶち、と血管が切れたような音が聞こえた気がする。それと同時にこれ以上言葉を発せなくするよう口を手の平で塞ぐ。この上なくまずいことをしているのは重々承知しているがこのままその魅惑の声で喋り続けられてはまともな話し合いすら出来ない。この時点で膝が笑っているのだからあと数秒声を発されていたら確実にへたり込んでいただろう。
「あああ、あの、ごめんなさい!でも、こうでもしないと、まともに、喋れなくて」
普段の自分からしたら考えられないほど大胆なことをしている。瞳孔が開いている尾形さんが怖くて直視出来ず、視線を下に逃がしたまま拙い言葉をなんとか繋ぎ合わせようと口をはくはく動かす。
「た、確かに!尾形さんのことは避けてました、避けてましたけど
!そうだけど、そうじゃなくて…!」
こういうとき、端的に上手く言葉をまとめられない自分が嫌になる。緊張と焦りでじっとりと手汗が滲んでいく感覚に申し訳なさを感じていると余計早く言わなければと更に焦りを感じてしまい、それがまた言葉を遮る足枷となる。
「避けてた理由は、ちゃんとあって!あ!尾形さんが嫌いとかは絶対ないので、安心して下さいね…!?あ、別にそれは今言わなくてもいいか、えと、なんですかね?その、そういうんじゃなくて、」
恥ずかしさで今なら顔から火が出ていると指摘を受けても信じ込んでしまいそうだ。それくらい顔が熱い。緊張と同様で体と声が震える。早く、早く全てを伝えてこの状況から逃げ出したい!この部屋に入ってからもう何度目かわからない切なる願いを胸に酸素を目一杯吸い込む。
「お、尾形さんの声を聞くと!だめになっちゃうんですよ…!こう…身体に力が入らなくなっちゃうというか、腰が砕けるというか、!今だって、名前呼ばれただけでぞくぞくして、たってられなくなるし、ドキドキしちゃうし、もう、そんなこと毎日してたら仕事に身が入らなくなっちゃうじゃないですか…!!」
だから、最近避けるような行動をとってしまいました…すみません。尻すぼみになりながら顔を更に俯かせ、尾形さんの顔を見ないままその場から駆け出そうと尾形さんの口を塞いでいた手を今度はすぐ後ろ手にあったドアノブにかける。
と、同時に空いていたはずの空間にばん!と大きな音を立てられ、顔の両脇を完全に塞がれてしまった。
「ひぇ、」
「なるほどな…そうか、そういうことだったのか…」
おかしそうに喉をくく、と震わせながら笑う尾形さんから一刻も早く逃げたくてドアノブを捻りぐっと押すがびくともしない。なんで、と冷や汗をたらしていると「残念だったな。この部屋のドアは内側から引かないと開かんぞ」と心底楽しそうに諦めろというお達しが下された。
「あああの、尾形さん」
「お前に一ついい知らせがある」
「はい、?」
「苗字とは次のプロジェクトに関わる大事な話し合いがあるから一時間程長引くかもしれんと上には言ってある」
「そんな嘘ついて!?」
「嘘は言っていない。俺の今後のやる気に関わる重要な話なんだからなぁ」
まぁその心配も杞憂に終わったが。そう言って先ほどの悪鬼の如く禍々しいオーラを纏った姿はどこへ消えてしまったのか、清々しい表情で口角を吊り上げてみせる尾形さん。
「それで?俺の声がなんだって?」
もっと詳しく聞かせてみろ…と無駄に色気たっぷりに囁かれてしまい、今度こそ立っていられなくなったのは言うまでもない。あと一時間、この言葉責め地獄に缶詰め状態でいるのかとごくりと唾を飲み込む、と腰が砕けるどころか骨抜きにされてしまうのではなかろうかと身の毛もよだつ思いだった。


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