撫でし子を味見
ほんの数日前「家族」が増えた。新たに妹や兄が出来たわけでも、娘や息子が出来てしまったわけでもない。
「お父さん」が出来たのだ。
「ねぇ、名前。お母さん、再婚しても、いいかな?」
母からの思いもよらぬ相談に、絵に書いたようにポカンとした反応を見せてしまったのは記憶に新しい。
私という人間の感情は案外薄情なもので、新たな家族の訪れに大喜びするわけでもなく、猛反対しながら烈火の如く怒ったり、憤りを覚えるわけでもなかった。多感な年頃の時期の娘ならまだ、悲観して「嫌だ」と嘆き悲しんでいたかもしれない。凍えるような冬を越え、次の桜を拝めるようになるころには私も立派な社会人。大人の仲間入りだ。そこらへんの踏ん切りというか、受け入れるキャパシティの広さには多少余裕がある。
高校を卒業して進学ではなく就職の道を選んだのは他ならない母の為だった。生活を支えるために朝から晩まで休むことなく働く母が少しでも楽になるように。早くひとり立ちして、今度は私が生活を支える立場にならなければと気を張っていたが、家計を支える「父親」が出来たのであれば私はそんなに根を詰めなくてもいいのかもしれない。今更決まった進路を変えるわけにもいかないし変える気もないが。特にこれと言ってやりたいと思うこともなかったし、進学したところで何かに没頭できるようなこともなかったので別にそれは構わないのだが。
ただ「へー、そうなんだ」という月並みで無頓着な反応しかできない。
両親が離婚したのは私が三才くらいの頃らしく、正直なところ実の父親の顔なんて全く覚えてない。
昔から父親という存在はいないものとして育てられてきたし、いないことに不自由を感じることはあまりなかった。世間が受けるような深刻なイメージは微塵もない。父親にこれと言って執着するような感情を端から持ち合わせていないのだ。私が感じていないだけで女で一人で育て上げてきた母親にはあるのかもしれないが。むしろ私は「父親」のいる生活に違和感がありすぎて慣れるのに時間がかかりそうだ。
薄汚れたアパートより都会の狭間に並び立つ高層マンションの最上階の眺めのいい部屋が似合うような上品な雰囲気の人がなんだってこの家に。結婚詐欺にでもあってるんではなかろうかと一抹の不安を覚えたが、ここ数日で不審に思えるような態度も行動も見られなかったし本当に母と好き会っているんだろう。腰を抱き合って仲睦まじげな姿で笑い合いながら話す二人の姿を何とも言えない感情で視界の端に映りこませる。
この年になって両親がイチャイチャする現場に立ち会うことになろうとは夢にも思わなかったが。まぁ、幸せそうならそれでいっか。
その考えが覆されたのはその次の晩のことだった。高校の同窓会があるといいいつもより少しおめかしした母の姿と「ゆっくりしてくるといい、」と言いながら愛おしそうに頬を撫でて見送る鶴見さんの姿は誰がどう見ても幸せな夫婦に違いなかった。
「悪いけどご飯作って二人で食べていて頂戴」という言付けの通り二人だけで食卓を囲む。料理を作り終えると「手伝おう」と言ってスマートにお皿やご飯茶碗をテーブルまで運んでくれた。なにをしても絵になる人だな。
いつも母親が座っている、テーブルを挟んでちょうど向かいの席には鶴見さん。なんと言うか、とても見慣れない。なんだか凄い違和感だ。若干の気まずさを抱えながらも「いただきます」と言い箸をすすめた。
毎食高級料理を口にしていてもおかしくはないなという風貌の彼の口に合うだろうかとドキドキしながら咀嚼する鶴見さんの顔を盗み見る。
「うん、美味しい」
口に入れて数秒、称賛に値する評価が出され心底ホッとした。
「お口に合ったようでよかったです。」
「料理は彼女から?」
「はい、母から直接教わりました」
「そうか。月並みな言葉になってしまうが優しい味がするよ。」
これから毎日食べられると思うと私は幸せ者だな。そう言って微笑む姿は美しく、皆から崇拝される清く正しい宗教がのような清廉さがあった。
「そう言っていただけると、嬉しいです」
控えめに小さく愛想笑いしたよそよそしい態度が少し気にかかったのか若干眉を吊り上げ不服そうな表情を一瞬見せた。それも見間違いか?と錯覚するように一瞬のうちに消え去り、絵に描いたような美しい宗教画に元通りになってしまった。
「そう気を使わなくてもいい。」
これから私たちは家族になるのだから。
がたり、と椅子が動く音が嫌に響いたと思えば顔に影が掛かる。
会話の中でなにも感じられなかった。なぜ、どうして、どういう流れでこのような体勢になったのか。あまりに突然のことで思考がフリーズする。私たちは今まで平和的に、これから家族になるための歩み寄りの第一歩と言わんばかりに和やかな雰囲気を醸し出していたではないか。
ごつごつとした男の人の手で両頬を包まれ、くいっと強制的に斜め上にいる鶴見さんの視線と交わうように位置を調整される。その言葉から数秒間すぐに解放されることはなく、淀みのない底が深い闇のごとく真っ黒な虹彩に引き込まれるかのように不思議と目をそらすことも、手を振り払うことも出来なかった。
「は、い…」
たどたどしくも返事した私の様子を見ると口元を三日月のようにしならせ満足げに笑みを浮かべた。ようやくこの状態から解放されるかなと油断したのもつかの間、片手だけは左頬に添えられたまま、目をすぅっと薄く細められる。今度は何事かと心の中で滝汗を流していると「愛おしいものを愛でる」目をしながら、私の唇の端から端を親指の腹で感触を刻み込むようにゆったりとしたはやさでなぞる。
警鐘、警鐘。この人は「危険」だ。脳の奥で本能が「ここから早く逃げろ」とせわしなく警鐘音を鳴り響かせながら私を追い立てる。あと僅かで唇と唇が合わさってもおかしくない状況に立たされているのだとぼんやりとした頭で実感すると急にじわっと汗がにじみ出てくる。身体が僅かに震えているのがわかる。それでもこの瞳からはなぜか逃れられることは出来なくて。「畏れ」を覚えたおびえた瞳でただひたすら見つめ返していると「ああ、すまない。美味しそうなものがついていたものでつい、ね。」という言葉とともにようやく解放される。じっくり見る余裕などなかったが口をなぞっていた鶴見さんの親指は彼の口元まで運ばれちろりと垣間見える赤い舌先に舐めとられたように見えた。口元におかずでもついていたのだろうか私は。そんなわんぱくな子供のような落ち着きのない食べ方をしたような覚えはないのだが。
「…あとは私が片付けておくから名前は先に風呂に入るといい。」
「はい、」
判断力の低下した状態のまま話しかけられると今の私には従順に従う言葉を掬い出すことしか出来ない。まるで何もかもが彼の思うがままに、だ。
リビングを出て廊下と区切るためのドアをパタリと閉める。部屋より幾分か冷えた空気に沸騰した頭が冷静さを徐々に取り戻す。さて、ここで世間一般の家庭を持つ人たちに質問したい。
「普通の父親」とはわざわざ食卓のテーブルを乗り越えるように身を乗り出してまでこちらの顔を至近距離で舐めるように見つめるものなのでしょうか。スキンシップが激しいという生半可な言葉で片付けられるような代物ではなかった気がするのだが。そんな悶々とした悩みの答えを導き出してくれるような回答者がこの空間に存在するはずもなく。おぼつかない足取りでたどり着いたお風呂場へ続く扉を静かに開く。
嗚呼全く、この時期の脱衣場は肝が冷えすぎていけない。
「お父さん」が出来たのだ。
「ねぇ、名前。お母さん、再婚しても、いいかな?」
母からの思いもよらぬ相談に、絵に書いたようにポカンとした反応を見せてしまったのは記憶に新しい。
私という人間の感情は案外薄情なもので、新たな家族の訪れに大喜びするわけでもなく、猛反対しながら烈火の如く怒ったり、憤りを覚えるわけでもなかった。多感な年頃の時期の娘ならまだ、悲観して「嫌だ」と嘆き悲しんでいたかもしれない。凍えるような冬を越え、次の桜を拝めるようになるころには私も立派な社会人。大人の仲間入りだ。そこらへんの踏ん切りというか、受け入れるキャパシティの広さには多少余裕がある。
高校を卒業して進学ではなく就職の道を選んだのは他ならない母の為だった。生活を支えるために朝から晩まで休むことなく働く母が少しでも楽になるように。早くひとり立ちして、今度は私が生活を支える立場にならなければと気を張っていたが、家計を支える「父親」が出来たのであれば私はそんなに根を詰めなくてもいいのかもしれない。今更決まった進路を変えるわけにもいかないし変える気もないが。特にこれと言ってやりたいと思うこともなかったし、進学したところで何かに没頭できるようなこともなかったので別にそれは構わないのだが。
ただ「へー、そうなんだ」という月並みで無頓着な反応しかできない。
両親が離婚したのは私が三才くらいの頃らしく、正直なところ実の父親の顔なんて全く覚えてない。
昔から父親という存在はいないものとして育てられてきたし、いないことに不自由を感じることはあまりなかった。世間が受けるような深刻なイメージは微塵もない。父親にこれと言って執着するような感情を端から持ち合わせていないのだ。私が感じていないだけで女で一人で育て上げてきた母親にはあるのかもしれないが。むしろ私は「父親」のいる生活に違和感がありすぎて慣れるのに時間がかかりそうだ。
薄汚れたアパートより都会の狭間に並び立つ高層マンションの最上階の眺めのいい部屋が似合うような上品な雰囲気の人がなんだってこの家に。結婚詐欺にでもあってるんではなかろうかと一抹の不安を覚えたが、ここ数日で不審に思えるような態度も行動も見られなかったし本当に母と好き会っているんだろう。腰を抱き合って仲睦まじげな姿で笑い合いながら話す二人の姿を何とも言えない感情で視界の端に映りこませる。
この年になって両親がイチャイチャする現場に立ち会うことになろうとは夢にも思わなかったが。まぁ、幸せそうならそれでいっか。
その考えが覆されたのはその次の晩のことだった。高校の同窓会があるといいいつもより少しおめかしした母の姿と「ゆっくりしてくるといい、」と言いながら愛おしそうに頬を撫でて見送る鶴見さんの姿は誰がどう見ても幸せな夫婦に違いなかった。
「悪いけどご飯作って二人で食べていて頂戴」という言付けの通り二人だけで食卓を囲む。料理を作り終えると「手伝おう」と言ってスマートにお皿やご飯茶碗をテーブルまで運んでくれた。なにをしても絵になる人だな。
いつも母親が座っている、テーブルを挟んでちょうど向かいの席には鶴見さん。なんと言うか、とても見慣れない。なんだか凄い違和感だ。若干の気まずさを抱えながらも「いただきます」と言い箸をすすめた。
毎食高級料理を口にしていてもおかしくはないなという風貌の彼の口に合うだろうかとドキドキしながら咀嚼する鶴見さんの顔を盗み見る。
「うん、美味しい」
口に入れて数秒、称賛に値する評価が出され心底ホッとした。
「お口に合ったようでよかったです。」
「料理は彼女から?」
「はい、母から直接教わりました」
「そうか。月並みな言葉になってしまうが優しい味がするよ。」
これから毎日食べられると思うと私は幸せ者だな。そう言って微笑む姿は美しく、皆から崇拝される清く正しい宗教がのような清廉さがあった。
「そう言っていただけると、嬉しいです」
控えめに小さく愛想笑いしたよそよそしい態度が少し気にかかったのか若干眉を吊り上げ不服そうな表情を一瞬見せた。それも見間違いか?と錯覚するように一瞬のうちに消え去り、絵に描いたような美しい宗教画に元通りになってしまった。
「そう気を使わなくてもいい。」
これから私たちは家族になるのだから。
がたり、と椅子が動く音が嫌に響いたと思えば顔に影が掛かる。
会話の中でなにも感じられなかった。なぜ、どうして、どういう流れでこのような体勢になったのか。あまりに突然のことで思考がフリーズする。私たちは今まで平和的に、これから家族になるための歩み寄りの第一歩と言わんばかりに和やかな雰囲気を醸し出していたではないか。
ごつごつとした男の人の手で両頬を包まれ、くいっと強制的に斜め上にいる鶴見さんの視線と交わうように位置を調整される。その言葉から数秒間すぐに解放されることはなく、淀みのない底が深い闇のごとく真っ黒な虹彩に引き込まれるかのように不思議と目をそらすことも、手を振り払うことも出来なかった。
「は、い…」
たどたどしくも返事した私の様子を見ると口元を三日月のようにしならせ満足げに笑みを浮かべた。ようやくこの状態から解放されるかなと油断したのもつかの間、片手だけは左頬に添えられたまま、目をすぅっと薄く細められる。今度は何事かと心の中で滝汗を流していると「愛おしいものを愛でる」目をしながら、私の唇の端から端を親指の腹で感触を刻み込むようにゆったりとしたはやさでなぞる。
警鐘、警鐘。この人は「危険」だ。脳の奥で本能が「ここから早く逃げろ」とせわしなく警鐘音を鳴り響かせながら私を追い立てる。あと僅かで唇と唇が合わさってもおかしくない状況に立たされているのだとぼんやりとした頭で実感すると急にじわっと汗がにじみ出てくる。身体が僅かに震えているのがわかる。それでもこの瞳からはなぜか逃れられることは出来なくて。「畏れ」を覚えたおびえた瞳でただひたすら見つめ返していると「ああ、すまない。美味しそうなものがついていたものでつい、ね。」という言葉とともにようやく解放される。じっくり見る余裕などなかったが口をなぞっていた鶴見さんの親指は彼の口元まで運ばれちろりと垣間見える赤い舌先に舐めとられたように見えた。口元におかずでもついていたのだろうか私は。そんなわんぱくな子供のような落ち着きのない食べ方をしたような覚えはないのだが。
「…あとは私が片付けておくから名前は先に風呂に入るといい。」
「はい、」
判断力の低下した状態のまま話しかけられると今の私には従順に従う言葉を掬い出すことしか出来ない。まるで何もかもが彼の思うがままに、だ。
リビングを出て廊下と区切るためのドアをパタリと閉める。部屋より幾分か冷えた空気に沸騰した頭が冷静さを徐々に取り戻す。さて、ここで世間一般の家庭を持つ人たちに質問したい。
「普通の父親」とはわざわざ食卓のテーブルを乗り越えるように身を乗り出してまでこちらの顔を至近距離で舐めるように見つめるものなのでしょうか。スキンシップが激しいという生半可な言葉で片付けられるような代物ではなかった気がするのだが。そんな悶々とした悩みの答えを導き出してくれるような回答者がこの空間に存在するはずもなく。おぼつかない足取りでたどり着いたお風呂場へ続く扉を静かに開く。
嗚呼全く、この時期の脱衣場は肝が冷えすぎていけない。