好み色に染め上げて

「だいぶ髪伸びたね」
「そろそろ切りたいんだよねぇ」
「やっぱりか」
ロングも似合うんだから伸ばせばいいのにとグラスの中の氷を遊ばせるようにかき混ぜながら少しむくれた顔で言う、数少ない私の大切な友人。日当たりの良いカフェテリアの心地の良い席も、冷たい身体で出来た氷にとっては些か暑すぎるらしく、それを囲う器の表面には大粒の汗が張り付いている。

「んー、伸ばしてもいいんだけど縛るのめんどくさいんだよね」
ヘアアレンジも出来なければ綺麗に縛ることすら出来ないしさ。そう言いながらすっかり色褪せてしまった焦げ茶色の髪をひと房手に取り弄ぶ。ずぼらな性格が目に見えるかのように無造作に伸びている。市販のヘアカラーで染めたのは大体三か月前。ということは最後に髪を切ったのは…もう半年前くらいにもなってしまうのか。
「出たよめんどくさい。」
「かといって美容室予約してわざわざ髪切りに行くのもめんどくさいし。」
「あんたねぇ…」
なんでもかんでもめんどくさがるの悪い癖だよ。と、ど正論で指摘されてしまい返す言葉が見つからない。
「名前の場合人と付き合うのもめんどくさいですませるからなぁ…いつまでたっても結婚出来ないよ!」
返す言葉も御座いませんとお手上げのポーズで大人しく降参の意を示す。目の前の友人は私とは違って女子力も高くて見るからに「男が好きな理想の女の子」って感じの素敵な子だ。それでいて性格もサバサバしていて私みたいなくそ地味陰キャにも優しいという出来すぎた人間だ。

「△△ちゃんの髪はいつ見てもサラサラで綺麗だよね」
「そう?普段のお手入れもそうだけど今通ってる美容室が髪にいい感じなのかもしれない」
「へー」
美容室か。私もだいぶ髪伸びて来てお風呂上がりに乾かすのが億劫になる長さまで来たしそろそろ行かなくちゃなぁ。
「あ、そうだ!名前もそこで髪の毛切ってきたら?」
「えっ」
「お店の雰囲気もいいし店員さん気さくだしなによりイケメンが多いよ!」
「いや、イケメン情報はいらないけど…」
イケメン、そして「気さく」という言葉に思わず顔を引き攣らせる。世間一般的に考えて気さくというワードはプラスイメージに繋がるんだろうが私の場合は例外だ。他の人の目からそういったレッテルを貼られるタイプの人間は十中八九人生を心から楽しんでいる、パリピでウェイみたいな性質の方が多い。言葉を選ばず言うとそういった人種の方々とは一生分かり合える気がしないし、話を合わせながら会話を繋げるのが億劫なので苦手だ。別にそれが悪いといってるわけではない。ただ単に私がそういった人たちとは真逆のねじ曲がった根暗な性格なだけであって。まぁ、それを抜きにしても普通に店員さんと会話すること自体苦手だし極力関わりたくないのではあるが。
そんな思考を察したのか、それともあからさまに私の表情が引きつっていたのか。真偽はわからないが「予約フォームのその他の要望に「会話するのが苦手なので静かな人希望です」って書いてみれば?」という後押しを受ける。
「うーん、じゃあそのうち、行ってみようかなぁ」
「…名前絶対行かないでしょ」
「い、行くよ?そのうち、ね…?」
いつものようにやりたくない事はやんわりと流す戦法で事なきを得ようとするが今回はどうにも見逃してくれる気はさらさら無いらしい。
「ちょっとごめん、電話してもいい?」
「へ?あ、どうぞ」


「もしもし、あっ、杉元くん?明日なんだけどー、あっ、違う違う、私はこの前行ったばっかだし来月辺りにまた行くね!うん、私じゃなくて友達の子なんだけど」

「うん、カットとたぶんカラーリングも、かなぁ」
うん?ちょっと待ってなんかおかしくないか?内容からすると美容室の予約。さっきまでしていた会話の内容からそろそろ美容室に行く時期だったのに気付いて予約するのかと思いきや△△ちゃん自身のことではないらしい。
「△△ちゃん?ちょっと待ってもしかして、」
「うん、名前は苗字名前で。うん、14時に予約ね!りょーかい、ありがとー。じゃあね!」
こいつ、はかったな…!?
「ということで、」

「予約取っておいたから、明日美容室に行ってくること。」
いいわね?場所の詳細あとで送っておくから。と拒否権の有無なんて考えさせない言い方とやり口で丸め込まれてしまい。程なくして半ば強制的に美容室へ足を運ぶことになってしまった。ちくしょう、明日なんの予定もない休みだから一日中ごろごろして過ごすんだーなんて言わなきゃよかった。暢気に友人の前で口にしてしまった数分前までの自分自身の軽率さを深く恨んだ。



─────────

翌日になっても結局は気分が進まないまま、予約の時間が訪れてしまった。重い足取りを一段一段ゆっくりと上げながらお店のある雑居ビルの二階まで階段を上る。運動不足の怠惰な体が少し息を弾ませる程度のところまで来ると指定されたお店の名前の看板が飾ってある入り口が見えた。
今の心境を表すかのような少し重みのあるドアを押し開けて恐る恐る入店する。

「いらっしゃいませ、」
ご予約の方ですか?と言って微笑む綺麗な女性に思わず息を呑む。見た目にかかわる仕事をしている人はなぜこんなにも美人な人が多いのか。普段から手入れが行き届いているのであろう艶のある烏の濡れ羽色の長い髪。よく見ると瞳が青みがかっている。ハーフさんなのだろうか?美人の破壊力に「えっと、」と言葉を詰まらせていると店の奥の方からなぜか顔に大きな傷のある、顔立ちの整った男の人が顔をのぞかせた。

「もしかして苗字さんかい?」
「あ、そうです。」
14時に予約した、と続けると△△さんから話は聞いてるよと人当たりのいい万人受けする笑顔で微笑まれた。
「昨日言ってた△△の友達か。」
「そうみたい。っと、申し遅れました。俺が店長の杉元佐一。んで、こっちが…」
「小蝶辺明日子だ。」
「あ、苗字ですよろしくお願いします。」

要望は△△さんからあのあとメールがあって聞いてるよ。対応するのは俺らじゃなくて別の奴なんだ。ちょっと待っててね、
そう言って少し奥の方まで行ったかと思えば「おーい尾形ぁ!」と比較的大きい声が聞こえてきた。かと思えば「なんだじゃねえよ!予約入ってるってさっきも言っただろうが阿呆!」という罵声が聞こえてきたんだがほんとに大丈夫なんだろうか。まずい所を紹介されてしまったのではないかと表情をこわばらせていると気を使った小蝶辺さんが「杉元と尾形は仲がいいんだがいつもああなんだ。気にしないでくれ」と声をかけてくれた。喧嘩するほどなんとやら、というものなんだろうか。それにしては店長さんガチトーンで怒っているように聞こえたんだが。いささか不安を覚えていると杉元さんにせかされながらもゆったりとこちらへ近づいてくるツーブロにオールバックというなんとも前進的な髪型の男性が一人。
「こいつが今日担当する尾形です。おい、」挨拶しろという意味なのか背中を軽くばしりと叩かれ促された尾形と呼ばれる男はどこか不服そうに「どうも、」とだけ短く告げた。
「よろしくお願いします。」と愛想笑いでへらりと返しながら「これは、静かな人、というより…なんというかまた、不愛想な人が来たものだ。」世間話なんて一切しなそうに見えるしその点は大助かりなのだが、最低限のやり取りはちゃんと取れるだろうかと内心苦笑する。

「ったく!挨拶くらい自分でまともに出来ねぇのか。」
ごめんねぇ、苗字さん。こいつ無理だなと思ったらチェンジしていいから。と悪びれた様子を全く見せずに突っ立ってる隣の男を睨み付けながら言う店長さん。チェンジって、キャバクラやホストクラブじゃないんだからと思いながら「いえ、全然大丈夫です。」お気遣いなく、と「どうでもいいからさっさと髪切って家に帰りたいな。」と果てしなく失礼なことを考えながら苦笑いで応対していると「尾形は少し照れ屋なところがあるからな。大目に見てやってくれ」と冗談には取れない真面目なトーンでフォローが入れられた。この数分にも満たない時間で気付いたけど子蝶辺さん、もしかしてつわものだな?

「こっちだ。」
「え、ああ、はい。」
目も合わせられずに誘導の言葉を端的に伝えられ、一瞬自分に言われてるものだと自覚するのに数秒遅れた。後ろから「ちゃんと敬語使え!」と店長さんの怒号が飛んできてまたしても苦笑してしまう。なんの反応も見せず飄々と我が道を行くお兄さんの姿を見る限りきっとこれが通常運転なのだろう。

指定された椅子に腰かけると「希望の髪型は、」と小さく問いかけられる
「あー、えっと、お任せとかって出来たりします?」
「…ああ。短さの限度は」
「んー、ベリーショートまでいっちゃうと壊滅的に似合わないのでそれより長ければ何でも」
「わかった」

「髪色の明るさは」
「え、」
希望の明るさをどう言葉で表していいかわからず、えっと、と言葉を詰まらせていると何も言わずにその場を離れる。

ヘアカタログかなんかを持ってきたのかなと思っていると大判の図鑑のようなサイズのものを手にして戻ってきた。
「これが明るさの大体の目安だ」
「へー…」
見開きを開くと中には毛束が何種類も張り付けてられており「今はこの辺りだな」と4の数字を指差される。
明るさに番号なんてついているんだな。と美容室に行き慣れてないことが露見するような反応を垣間見せてしまった。
カラーサンプルの中に自分がこの色がいいなと思う一番理想の色に近いものがあったが「やっぱりこの色は美人な人が染めてこそなのでは」「明るすぎて自分には似合わないかな」という気持ちが勝ってしまい、口に出すのを戸惑う。「どうする?」と聞かれてとっさに出た回答は「お兄さんのお任せで、」の一言だった。
それに対して帰ってきたのは「全部俺に任せていいのか?」という少し鼻で笑うような棘のある言葉だった。髪型にとどまらず髪色まで人任せでいいのか、という意図も含まれているのかもしれない。

「だいじょぶです」
「気に食わない形になっても知らんぞ」
「まぁ、そこはプロの腕とお兄さんのセンスを信じてるので」
「見たことないような奇抜な髪に仕上がってるかもな」
それは勘弁。目立ちすぎない、いい感じの奴でお願いします。というなんともアバウトなオーダーに切り替えると「ははッ、わかった。「いい感じ」にしてやるよ」と薄く笑われたもんだから少し驚いてしまった。この人も、笑うことがあるんだなと至極当然なことを思っていると少し胸の奥がざわついた。うーん、これがギャップ萌えというやつなんだろうか。最初は意思疎通もままならないのではと不安に思えていたが案外話しやすい人なのかもしれないな。とほんの些細なことで良いように捉えるちょろい私はここにきてようやく少し緊張感がほぐれた気がした。

「シャンプー台」
「あ、はい」
些か言葉数が少ないのが難点だが。まぁ、伝えんとすることがわかってればいいか。シャンプーするからついて来いってことだろうと意図を汲み取り後を追う。

「白石」
始めに出迎えてくれた二人のどちらでもない名前を口にしたかと思えばまたすぐに姿を消す尾形さん。なんだか猫みたいな人だな、尾形さんがもし本当に猫だったら誰にも懐かない黒い毛並みの野良猫ちゃんがお似合いだなと頭の隅っこで想像していると。勢いのある元気な声の坊主頭のお兄さんが出迎えてくれた。
「はいはいお待ちしておりましたよーっと、」
これまたかわいらしいお客さんだねぇ。ささっ!どうぞ座って座ってー!あ、俺白石由竹って言います!独身で、彼女はいません!名前ちゃんって言うんだって?ちなみに今彼氏いたりする?いなかったら俺なんてどうかな?付き合ったら一途で尽くすタイプだよ?と相槌を打つ間もなく責め立てられ圧倒されてしまう。そんな中なんとか引き摺りだせたのは「あ、あはは、」という乾いた笑いが精一杯で。いつになったらシャンプー始まるんだろうかと思いながら倒されたリクライニング式のやわらかいシャンプー台の上で天井を見つめていると

「やかましい」
「あいたぁ!?ちょ、尾形ちゃん暴力はんたーい」
「いいからさっさと自分の仕事をこなせ。」
恐らく頭をペちーん!と勢い良く叩いたであろう良い音が響く。視界には入らないが俺様で暴君気質に見える尾形さんは大変ご立腹なのだろう。あんまり俺を待たせるなという低い声が近くで聞こえる。さしずめ話してっばっかりで始めようとしない白石さんに痺れを切らして制裁を加えに戻ってきてくれたんだろうな。


導入部分こそ少しは手間取ったもの始めてしまえばさすがプロと言うべきか。心地の良い温かさと絶妙な力加減で眠気を誘われあともう少しで睡眠の世界まで案内される、という所でシャンプーが終了した。お疲れ様、と語尾にハートマークが飛び交ってるんじゃないかというような愛らしい言い方でお見送りされ、ご丁寧に手まで降っていただいたので無下にするわけにもいかず頭をぺこりと下げて気付かれない程度の早足で最初に案内された席に戻る

美容室特有の高度なシャンプーテクニックでリラックスしたはずなのに、腰掛けてから出たものは詰まったようなため息で。うーん、悪い人ではないんだろうけど少し苦手だ。「シライシヨシタケ」さん。吐いた息を取り戻すように静かに深呼吸していると

「苦手だろ」
白石みたいなやつ。
音もなくぬっといつの間にか背後に立っていた尾形さんに思わず肩をびくつかせる。いつの間に戻ってきたんだこの人。声こそ上げなかったものの心臓はものすごい勢いでどっどっ、と脈を打っている。意図的か故意ではないのかはわからないが、驚かされたこととにやりと笑いながら苦手意識を指摘されたことの相乗効果で口の端がひくつく。
「うーん、そう、ですね。どちらかと言えば。」
私おしゃべりが得意な方ではないので、と引きつった状態のまま無理やり下手くそな愛想笑いを浮かべると「そいつは悪いことしたな」と微塵も悪いとは思っていないような白々しい物言いで謝罪される。
「次来たときは俺がやってやるよ」
「え、お兄さんがですか?」
「なんだ、不服か」
「いえ、別に」
馴れた手つきで髪除けのケープを着るように口ではなく動作で促しながら真偽のわからないリップサービスを言ってのける尾形さん。うん、いまいち何を考えているかわからん人だな。




カットが始まってからはお互い一言もしゃべらず、無言の空間が続いた。何も話さず黙々と作業に集中してくれるし、無駄な世間話に相槌を打ちながら口角を無理やり釣り上げて笑みを向ける労力も必要ないから非常に助かった。無言の時間が続く方が気まずくて嫌だと感じる人もいるが私はそれと全く真逆のタイプなので、正直、今まで通ってきたどこの美容室よりも居心地がよかったかもしれない。カットされている間は時計の針が進むのをひたすら目で追いかけたり床に散らばる髪の毛をじっと見つめたり。鏡の前に置いてあるヘアカタログや雑誌はこれと言って興味もなかったので長時間何もしないでいるのは退屈だった。カットが終わるまでに何度あくびを噛み締めたことか。控えめでゆったりとしたBGMと居心地の良い温かな室内温度、それに加えて髪を触られているとなんとなく気が緩んでしまい、いつも美容室に来ると、うとうとしてしまう。眠気覚ましという名の目の保養にお兄さんがカットしている様子を鏡越しに何度か盗み見ていたのは内緒だ。男前は息をしてるだけで存在意義があるな。真剣に仕事に取り組む職人的な職業をしているとその男前に更に磨きがかかって見えるのは何効果という名前なんだろう。


そろそろカットも終盤かなと雰囲気で察しながらぼーっと気の抜けた状態のまま尾形さんを目で追っていると今日初めて視線がかち合った。「あ、まずい」見ていたのがばれてしまう、と内心慌てながら平然を装って鏡越しではあるが視線を逃そうとしたとき尾形さんは一瞬ハサミを動かす手を止めこちらに向かって「微笑んだ」。鼻で笑うでもなく、嘲笑うのでもなく、ほんの少しだが柔らかく目を細め口元を緩ませてみせた。

「(う、わ…)」

なんだ、今のは。そんな表情をする人なのか、貴方は。不意打ちに魅せられた表情に思わずかっと顔が赤らむ気配がする。まずいまずい、今すぐ落ち着いてくれ。髪の量が少なくなった今耳元まで赤くなってしまっては背後に立っている尾形さんからは照れているのが丸わかりではないか。数秒か数十秒か、私にはわからなかったが随分と長い時間見とれてしまったような気がする。慌てて視線をいつの間にか力が入っていた握りこぶしまで下げて難を逃れようとする。

「おい、」
逃走失敗。視界からの不意打ちの次は聴力だ。
「っひ、!は、はい!?」
終わったぞ。
突然左耳から聞こえてきた重低音とほんの少し熱を感じさせる囁きに声を上げ、反射的に片手で耳を抑えてしまう。しまった。
きょとん、としたのもつかの間何かを感じとったのかまた不敵な表情で意地悪く笑い「次、カラーリング」とだけ言って準備に取り掛かり、特別これと言って私の反応に何かを言及することはなかった。あからさまに反応してしまったのになにも指摘されないというのもなかなかに酷で一気に居心地が悪くなってしまった。

ああ、ここからまた色が染まるまで待たなきゃいけないのかと思うと憂鬱で仕方がなかった。お願いだから尾形さんがカラーリング材を取ってくるまでの間に熱が引いてくれ。身動きの取れない私は熱を逃す術もなく、ひそかに神頼みするしかなかった。


─────────

カラーリング中は特にこれと言って大きな出来事は起こらずに済んだ。お兄さんは相変わらず何考えてるかわからない平然とした表情で仕事をこなしていたしあの笑みに特別な意味はなく私の意識しすぎだったのかもしれない。

会計を済ませながらなんだか長い一日だったなと振り返りながら息を軽くつく。「じゃあ、ありがとうございました。」と告げると杉元さん、小蝶辺さん、白石さんがありがとうございましたーと笑顔で返してくれる。来た時と同じように少し重みのあるドアを押そうとすると先ほどのような重みはなく、あれ?と思いながら振り返ると背後に立っていた尾形さんが私の頭より高い位置からドアを押し開けていた。

「下まで送る」




─────────

「二か月」
「はい?」
「リタッチカラー」
次髪を染めなおすまでの猶予は二か月。多く見積もっても三か月。
「だが、」
来る気ないだろ、お前。
またしても思考を読まれたのか、それとも私が態度に出やすいのかはわからないが、ぴたりと言い当てられてしまった。
「あー、まぁ、そのうちまた。」
「そーかよ」
次来るときもまたうちに来いよ。他のとこじゃ「いい感じ」に仕上げてくれるとも限らんからなとさっきの失言の揚げ足を取られる。ご丁寧にわざとらしく「いい感じ」の部分を強調して。

「はは、じゃあ次来ることがあったらお兄さんのこと指名しますよ」
結局最後まで来るとも来ないともはっきりしない返事のまま別れを告げる。
「今まであった美容師さんの中で一番気使わなくて楽でしたし、髪も見違えるほどよくしていただいて。ありがとうございました、それじゃあ」
一礼をしてその場を後にする。店員さんらしく「ありがとうございました」という一声すらなかったもののそれはそれで尾形さんらしいなと数時間対応してもらっただけなのに、どこか彼の本質に触れたような気になっていた。
前よりも軽くなり涼し気になった首元、くすんでいた茶色もワントーン明るくなり、日の光に当たってキラキラと表情を変えて見せる綺麗な栗色に変わり、なんだか少し気分も明るくなったみたいだ。姿が見えなくなるまで階段脇の壁に寄りかかり、煙草の煙をふかせながらこちらの様子をじっと見つめる光の当たらない場所にしまわれている黒曜石のように真っ黒な双眸があったことを知らずに、現金で単純な思考の持ち主の私は「また今度時間があったら来てみようかなぁ」と機嫌をよくしながら駅へと向かう足を進めた。

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