御近所物語

毎晩喘ぎ声が煩い隣の部屋から今日は怒鳴り声が聞こえた。痴話喧嘩でもしたのだろうか。こちらとしてはいい気味だ、私もそろそろ我慢の限界が近く丁度明日辺り苦言を申し上げようと思っていた所だったからもういっそこのまま別れてくれるとありがたい。
 お隣さんとは生活リズムが違うのかどんな人が住んでいるのか顔を見たことが未だにない。アパートに住んでいるのは男の方なのか女の方なのか。それとも初めから同棲していたのか。どれも私の憶測で真偽はわからなかったが夜な夜な聞こえてくる喘ぎ声に迷惑していることには変わりなかった。
毎夜毎夜日を開けずに聞こえてくるものだから、よくもまぁそんなに出来るな?お盛んすぎるだろとちょっと、いや、だいぶドン引きしていた。
 ヒステリックな女性の金切り声をシャットアウトするようにドライヤーを掛ける。お風呂から上がりさっぱりとしたと同時に、身体が火照り、なんだか無性にアイスが食べたくなってきた。しかし冷凍庫にストック等一つもなく。最寄りのコンビニにでも行くかと髪が乾ききらないうちに算段を決める。買いに行ってる間に湯冷めしてしまうとか知らない。食べたいという人間の三大欲求にはそう易々と打ち勝てないのだから。

 そうと決まったらコンビニへ行こう。近場のコンビニなら往復十五分程度で行けるだろう。適当にそこら辺にあったパーカーを羽織り、外へ出る。ドアを開けると鈍い音が鳴り、それと同時に心地よい夜風が吹き込んでくる。
涼しいと感じるこれも夏になったらぬるくて心地の悪いものに変わってしまうのかなぁ、次々と移ろっていく季節に思いをはせながら視線を下にずらすと視界の端に何かが映りこむ。

「(げっ、)」
ここ数日の不眠の原因であるだろう片方の男らしき人が隣の部屋の前に座り込みながら煙草の煙をくゆらせていた。外へ出るための階段を下るにはどうしてもそこの前を通って行かなくてはならない。
「(気まずい…)」
なるべく視界に入れないよう、さも私は見てませんよと言った雰囲気を醸し出しながら早足になりすぎないようその場をすり抜ける。一体どんな人が毎晩色事をしていたのかという野次馬根性が勝ってしまい、すれ違いざまに横目でちらりと盗み見る。そんなにじっくりと凝視することは出来なかったが口論しているうちに殴られたのか、整った顔立ちには不釣り合いな赤が頬に飾られていた。絵に描いたような色男だなぁと感心しながら階段をゆっくりと降りていく。


結局一つにするはずが二つ、アイスを買ってしまった。ここ数日は暑いから。そんな言い訳を盾にして自分自身の甘さを正当化させる。カン、カン、と階段を一段ずつ上っていく音が安っぽいアパートの片隅で甲高く響く。

「(うわ、まだ外に居るよ)」
階段を登り終える最後の一段を踏みしめたとき、ばちりと視線が交わってしまった。少し乱れたオールバックにやすやすと懐きそうにない野良猫のような眼差し、開く雰囲気が微塵も感じられないドアに背中を凭れ掛け、俗に言うヤンキー座りをしているもんだから柄の悪さと近寄りがたさに輪をかけてしまっている。
本当にさっきから時が数十分経っているのかと疑ってしまうくらい代わり映えのない様子だった。
変わったところをしいて言うのなら傍に転がっているたばこの吸い殻の数が増えたくらいだ。
ただひたすら黄昏ていたんだということが見て取れた。彼女さんのほとぼりが冷めるまでずっとこうしているつもりなんだろうか。
お隣(仮)のお兄さんの顔立ちが整っているということはその彼女さんも相当な美人さんなんだろうなぁと勝手に思い込んでいると不意に視線が上げられる。まずい、見すぎてしまったのだろうか。目が合ったのは気のせいだと誤魔化すのは難しいくらい、数秒間目線が交わってしまった。こういう場合はご近所さんとして声を掛けるべきなんだろうか。
「…こんばんは
急に訪れたコンタクトにどう接するのが正解か焦った頭で考える暇もなく脊髄反射で声にした結果出たのは当り障りのない挨拶で。

「なぁ、」
軽い挨拶の言葉を流したその流れでそそくさと鍵を開けすぐに中へ入ろうとすると声が掛かり、動かしていた手が一瞬固まる。
「…なんでしょう」
「部屋、入れてくれないか。追い出されてんだ今」
見ればわかります。その言葉を寸でのところで飲み込む。

「いや、無理です」
「なんで」
「いやいや、常識的に考えてないでしょう」
お隣さんとはいえ見ず知らずの得体の知れない男を家に上げるなんて自殺行為だ。この人がどういった男の人なのか見定めるために判断材料をかき集めたところで例のあのことしか思いつかないのだから尚更だ。
「寒くて風邪引いちまいそうなんだよ。近所のよしみでちっとは手を差し伸べてくれたっていいんじゃないのか?」
「毎晩毎晩ご近所迷惑な行為してる人にあげられる優しさなんて私には持ち合わせてないので」
「?……ああ、文句なら勝手にでかい声出すあいつらに言ってくれ」
一瞬「なんのことだ?」全く心当たりがないと言わんばかりの表情を見せられた時は流石に殴ってやろうかと思った。そして、さらりと出された複数人を指し示す言葉に頭を抱えたくなる。どうやら特定の恋人ではなく不特定多数の「大人なお友達」だったらしい。
「だったら他のそういった人たちの家に転がり込めばいいんじゃないですかね。」
では、おやすみなさい。自宅のドアノブに手をかけると、しゃがみ込んでいた男がのそりと立ち上がったのがわかった。早く、この場から離れなければ。そう思う気持ちが焦りを生み出してしまっているのか、こういう時に限って鍵穴に上手く差し込めない。
冷え切った男の手の温かさが自分の温かい体温と混じり合って気持ちが悪い。そのぬるま湯のような感触に耐え切れず、手を振り払おうとするも倍の力でくん、と腕を引かれてしまい逃げ出すことは叶わなかった。
「あの女のほとぼりが冷めて帰るまででいい」
「いい加減にしてください。ご近所さんとはいえ警察呼びますよ」
ぎっと睨み付けるも「この状態でどうやって呼ぶんだ?」と挑発的に笑われる。
「早くしねぇとアイス溶けちまうぞ」
「貴方が手を離してくれれば済む話なのでは、」
「いいや違うな。あんたが一つ頷けば済む話だ」
お互いに視線を交わし合いながらも一歩も譲らない為状況は平行線のまま時間だけがただただ過ぎていく。
「…わかりました。私の負けです」
お友達が返ったら本当にさっさと帰って下さいね。念押しをすると「あぁ、」と言う短い返事と共に小さく頷かれる。
観念したふりをして焦りを悟られないようゆっくりと鍵穴に鍵を差し込み退路を確保する。相手が油断している。そう高を括り隙が一番できた瞬間に勢いよくドアをこじ開ける。
セーフティールームへと素早く身体を滑り込ませ、勢いよくドアを閉めようとするとなにかが隙間に引っかかり、完全にドアを閉めることが叶わない。身体全体をぎゅうぎゅうとドアに押し付けても閉まらず「なんなんだ…!」と苛立ちを隠せずにいるとドアの隙間に男の足が滑り込ませてあるのが目に入った。手口が完全に犯罪者のそれじゃないか。

「危ねぇな、怪我したらどうすんだよ」
「ひっ、」
「大人しそうな顔して案外気が強いんだな、あんた」

「そんな怯えんでもいいだろう。まだなんもしねぇよ」
現在進行形でしてますけど…!そんな嘆きは声に出す前に喉の奥の方で消化されてしまった。このままでは押し負ける。玄関に入れてしまったらこちらの負けだ。そう思うのに堪え性のない筋力ゼロの腕は既に悲鳴を上げていて。
「あっ、」
怯んだ隙をついてドアを押し返された。思った以上に強い力で扉をこじ開けられ思わず声が漏れる。狭い隙間をしなやかに掻い潜ってくる姿はまるで不吉を呼び込むとされる黒猫のようだった。
ガチャンと言う音が聞こえ、器用なことに後ろ手で鍵を掛けたのかと、妙に冷静な頭で状況を把握した。
押し返す間もなく身体を押し付けられる。押されるがまま後ろに後ずさると狭い玄関のスペースに散乱した靴が障害となり足がもつれそうになる。このままでは転んでしまう、そう思う前に壁へ押し付けられ息を呑む。自分の家には不釣り合いな男物の香水の香りが鼻腔を擽り、妙な背徳感がぞくりと背筋を辿って全身を駆け巡る。
「んぅっ!?」
なにすんの、と叫ぶために口を開いたのが間違いだった。半開きになった口に分厚い舌がねじ込まれたと思えば自身のをいとも簡単に絡めとられてしまう。
「ふぁ、!ッん、ん、…!」
玄関先の狭い空間で壁に押さえつけるように唇を貪られ、息が苦しい。抵抗しているはずなのに相手の身体はぴくりとも動かない。後頭部に手を回され髪をゆったりと梳かされると全身の力が抜けていく。自身を支えることすら出来なくなり、重力に従ってそのまま床にへたり込んでしまいたいのに股の間に差し込まれた男の膝がそれをすることを許さない。
随分と長い時間口内を犯された気がする。久しく吸っていないように思える新鮮な酸素を取り込むため肩で息をしながら少し高い位置にある黒く淀んだ双眸を睨み付けると、ぬらぬらとした赤黒い舌をわざとらしく自身の唇の上を滑らせた後に口角を吊り上げられる。
「宿代はこれでいいか?」
「足りねぇって言うんならここでおっぱじめたっていいぜ。」黒々とした瞳孔の上には蕩けた朱色を浮かべた自分の情けない表情が映っていて思わず目を背ける。このまま、現実からも目を背けてしまえればいいのに。
誰かに助けを求める?でも誰に?警察?スマホはリビングだ、掛けられっこない。拒否したところでそれが許される?ここでもし「足りない」と言ったらどうなっちゃうんだろう、そんなことをぐるぐると考えながら何も言葉を紡げずに立ち竦んでいると下からのぞき込むように顔を近づけられた。
この男の瞳は、何故か、全てを見透かしてくるように感じて長く目を合わせていられない。居た堪れなさに耐え切れず三つ数を数えられるか数えられないかの内に視線を横にずらし顔を背けると至近距離から嘲笑が聞こえる。
「ここで酷くされたいんなら初めからそう言えよ」
「っや、待って!」
「せっかくだったらでけぇ声出しながらセックスするか」
あの女怒り狂ってすぐ出ていくかもしれんぞ。そう言って喉の奥を楽し気に揺らす狂った男に押し倒されながら、「絶対にこのアパートから引っ越そう」と場違いなほど冷静に考えている私も、そうとう狂っているのかもしれないと、湿り気を帯びた唇を受け入れながら冷たい床の感触を感じつつぼんやりとそう思った。

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