隣の芝生は前に進む

「ごめん仕事長引いて遅くなった!」
「誰も最初からお前が定時で上がれるとは思って無かったから問題ない」
ふかしていた煙草を消し、なんでもないように言って見せる尾形くんなりの気遣いの言葉は相変わらず辛辣だ。

「あははー、ですよねー」
それで話っていうのは?
早速本題に入ろうと切り出すと「まぁそう焦るな。情緒を感じられん奴だな」やれやれと言わんばかりに彼お得意の髪を撫で付ける仕草付きで溜息をお渡しされた。
無駄な時間をあまり好まない尾形くんに配慮したつもりで言ってみたのだがどうやらそれは要らぬ気遣いだったらしい。彼との付き合いはそう短いものでも無くなって来たが、いまいち彼の中の正解をピタリと当てられた試しがない。それにしても私たちの会話の中で情緒がある瞬間なんてあっただろうか。いつもなんてことない、少しトゲが含まれてるくらいの軽口の応酬ぐらいしかした試しないんだけどな。

「少し歩くぞ」
彼の言葉を皮切りに街灯がまばらな夜道をゆったりと進んでいく。
夜風が仕事終わりの怠惰な身体を慰めるようにするりとを撫ぜていった。
コンクリートの上を二人分の靴底がかすめていく音だけがただひたすら夜道に響いている。

彼の言う少しはあとどのくらいなんだろうか。尾形くんがすんなり話せ出せないなんて、何か深刻な話だったりするのかな。転勤?病気?突然のお別れを切り出したいからこんなにも時間を有しているのだろうか? 無言の時間が長引くほどネガティブ一辺倒な私の思考回路は良くない知らせの方向へばかり進んでいく。

「ふ、」
「?」
「阿呆面」
「は、!?」
別にそんな身構えるような話でもねぇよ。
私の意図をピタリと読み当てるかのような尾形くんの言葉に一瞬息が詰まる。
いつだっけかお前はわかりやすいと言われたことあったっけな、
「わかりやすいんだよお前は」
ああそうだ、前にもこんなことがあった気がする。いつもより凪いでいるように感じられる低音につられ、ちらりと盗み見るように横を覗くと存外穏やかな薄暗い黒がこちらの姿を捉えていて、心臓が妙な脈の打ち方をする。
「(尾形くんって、こんな穏やかな顔をする人だっただろうか)」
いつもは俗世には微塵も興味がありませんと言わんばかりに色のない表情を貼り付けている印象が根強くよくある彼だったが今は少し違う。違うように、私が見えているだけなのだろうか。
なにを見て、なにを考えているかわからない尾形くんの憂いを帯びた静かな表情の中に、何か違和感のような色がある。彼の真っ黒で誰にも染まらないような不変の一色に、何かが。

居心地が良いと思っていた尾形くんの隣に居るはずなのに、何故だか今は居心地が悪い、こんな妙な心のざわつき方がするのはあの人の隣に立っているときだけだと思っていたのに。無言の時間がじっと続く。居た堪れない無の時間に耐え切れず身動ぎをする微かな布の擦れた音でさえ妙に響いて聞こえるほどだ。
「俺にとって、」
張り詰めていた静寂が尾形くんの切り出した低音が静寂を破ると同時に二人の歩みも自然と止まる。
「俺にとって、お前ってなんだろうな」
黒目がちな彼の双眸が街灯に照らされて鈍く煌めいた。黒瑪瑙の鏡に映された自分の姿が、瞬きの度に不安げな表情で揺れる。
「それは、私に聞かれても…」
わからない。
わからない?本当に?
…いいやわかる。わかっているはずだ、
「苗字にとって俺はなんだ」
「なにって、」
嗚呼そうか、

「同僚で友だち、でしょう」と続けようとすると間を開けずに「いや、やっぱり答えなくていい」と返ってきた。
自分から聞いといてなんなんだ。自分勝手な人だなと思った。でも怒ることはできなかった。尾形くんの目を背けるような返答で「もしかしたら」が確信に変わった。

違和感の正体は私だ。彼の中に私が映っている。

気付いてしまった。
揺らぐところを見たことがない彼の黒い瞳が不安げに揺らいでいたから。
帰る場所すらわかっていない迷子の幼い子供のような顔をしていたから。

自惚れではない。彼は私のことを好いてくれているのだろう。

「なら、苗字にとってあいつは何だ?」
「そ、れは…」
あいつ、と言うのは十中八九杉元くんのことだろう。彼が名前を出すことすら良しとせずあからさまに鬱陶しいと顔を歪ませるのは私の知っている人物の中では彼しか心当たりがない。
私にとって杉元くんとは何か?そんなの私が聞きたいくらいだ。ただの同僚?ただのというには少し彼に近すぎる。かといって彼と深い仲にあるわけではない
友だち、とも少し違う。私と杉元くんは友人と呼べるほど気心の知れた仲でもない。
わからない。わからないんだ。私と彼を的確に表す言葉が見つからない。
「…もういい。わかったよ」
「…なにが?」
一体何が分かったというんだ。当の本人がそこへ辿り着けもしていないのになぜ尾形くんは全てを悟ったような諦めの表情を浮かべているのだろう。
「あいつは違うんだな」
「…」
短い言葉で、『全て』を尾形くんに言い当てられてしまった。
「すぐに答えられないって、つまりそういうことだろ」
そうだ。つまり、そういうことなんだ。
尾形くんは同僚で杉元くんは同僚だけどそうじゃない。なんて言葉にしたら良いかなんてわからないけど、とにかく同僚なんて一言で片付けて良いような人じゃない。自分の中で、いつの間に彼の存在が大きくなってしまっていたんだろうか。

「俺は少なくても、そうじゃなかった」
胸が痛むほど真っ直ぐで、目も当てられないほど捻くれている。
知っている。私はそう、知っているのだ。
尾形くんがそうであるように、私もそうなのだから。
吐き気を催すほどの既視感、
イメージの中の彼と私がリンクして鍵をかけていたはずのどうしようもない感情をこじ開けられてしまった。もう、誤魔化しは効かなくなってしまった。


「……お前は、」

「…お前は、…そうだな。月明かりの下で見れば、見れなくもない顔に見えるよ」
長い、長い空白を打ち破った尾形くんの表情は、哀しみの色を覗かせながらもどこか、清々しさを感じさせた。
どれだけ尾形くんに嫌味を言われても、意地悪をされてもどうにも彼を嫌いになれない理由が今になってやっと気づけた気がする。本当に私と尾形くんはそっくりだ。勇気を出しても結局諦めてしまうところとか、自分の中で完結させて。身を引いてしまうところとか、肝心な一歩をどうしても踏み出せないところとか。
美しさを感じられるほどの憂いを纏う彼に、慰めの言葉をかける資格も、心配そうに顔を覗く資格も、今の私にはないと思ったから何事もなかったかのように前を向き、また肩を並べて前に進む。
「…言いたいことって、それ?」
「…そうだ」
月が綺麗だ?
君は綺麗だ?あなたが選びたかったけど弱虫が邪魔して選べなかった言葉はどれなんだろう。
「やっぱ尾形くんって変わってるよね」
「そうかもな」
でもね尾形くん、私にはちゃんと伝わったよ、君が私を想う気持ち。


「尾形くん、私、たぶん杉元くんが好き」

「言わなくていいっつったろ」
「うん、ごめん。」
でも、言わなくちゃ駄目だと思ったから。
眉を下げてそう言葉にすると深いため息が横から聞こえて来た。しかもとびきり長いやつが。
また馬鹿だの阿呆だのと罵られるだろうか。
「中途半端だ」
俺も、お前も。
短く告げられた言葉にしては随分と重くのし掛かる枷のような言葉。彼の言わんとしている言葉も苦しげに歪んでいるであろう深く刻まれた眉間の皺も、横を見ずともよくわかった。
たぶん、弱虫の第一歩って、相当おっきい。
それは生きる世界を変えるほど、大きな変化だ。
「尾形くんと私は似たもの同士だからね」
「……そうかよ」
「ありがとう。私を好きになってくれて」
「おいやめろ、しおらしい女のふりをするのはよしてくれ」
見てみろ、お前のせいでさぶいぼ立っちまったじゃねえかと腕を差し出してくる尾形くん。人が珍しく真剣に向き合ってる姿を見せてやったのになんだその照れ隠しの仕方は、とほんの少し腹が立ち、こちらへ寄せられた羨ましいほど真白な肌を抓ってやる。

「別に好きじゃねえさ、お前のことなんざ。」
尾形くんは、時々嘘をつくのが下手くそだ。
彼の癖とも言える髪手をやる仕草が、今だけは特別自分を慰めているように見えて居た堪れない。
「大丈夫、尾形くんのこと恋愛的な意味で好きじゃないけど、」
「おい、随分とばっさり言ってくれるな。傷心的な気分にもさせてくんねぇのか?」
こっちは絶賛失恋中なんだぞ。もうちと丁重に扱え。と態度の大きいクレーマーのような物言いで苦言を呈する姿はいつも通りの尾形くんと変わらないように見える。実は取り繕うのに必死で、平然として見えているだけかもしれないけれど。真実はかれのみぞ知る、だ。
「あは、まぁ最後まで聞いてよ。」

「私尾形くんのことそんなに好きじゃないけどこれからも友だちで居てくれる?…なんてめんどくさいこと言わないから。無理だなと思ったら思う存分距離置いてくれて構わないからね」
「…馬鹿言え、俺が居なくなったらお前のぼっちが加速するだけだぞ」
「それは…寂しいな」
「どの口が言う」
俺を振っといて、という意味だろう。
「いやそれは、面目ない」


「好きって言ったの俺が初めてか?」
「そう、なりますね。」
きっと、心のどこかでは薄々自分の恋心に気付いていながらも目を背けて来たのだから、杉元くんに対するこの想いを誰かに打ち明けたり、はっきりと好きと言う言葉にしたのは初めてだ。素直に肯定すると「バレたらまたあいつに顎をかち割られるかもしれんな」と物騒なワードが飛んできた。顎を割られる?しかも今またとか言わなかったか?一体杉元くんと尾形くんはどうしてこんなにも馬が合わないのだろうか。前世からなにか因縁があるとしか思えないほど険悪を極めている。


「にしても、ここまで来てたぶん、だの、好きかも、だの…杉元がかわいそうに思えてきたな。」
「そこは触れなくて良いんですよお兄さん…」
流石の俺でも少し同情するぜと鼻で笑う尾形くんは沈む私とは裏腹になんだかすっきりとして来たようにさえ見える。

「…でも、ちょっと気付くのが遅過ぎたかな。」


「ねぇ尾形くん。」
「なんだ」
「うまく、いかないね。」
もしも尾形くんのことを好きになれたら。杉元くんに出会うことなく、この気持ちも気付くことない世界で生きていたら。

そしたら私はもっと幸せになれたのだろうか。

「なにが幸せで、どうあれば正しいのか、わかんなくなっちゃったな」
耐えきれず、喉の底まで出かかっていた本心が姿を見せる。強がって被って見せた化けの皮も、一度剥がれてしまえばもう綺麗に取り繕う事は出来ない。
「泣いてんじゃねえよ馬鹿」
「っはは、手厳し…」
自分のより幾分か大きく、かさついた指が、そのぶっきらぼうな口調とは似付かないほどの優しい手つきで目元を拭ってくる。
こんなどうしようもない女を慰めてくれるなんて、本当に尾形くんは私のことが好きだったんだなぁなんて何処か他人事のような気持ちで達観視してしまう。


いつだって、ノロマな弱虫は置いていかれるんだ。
全てに気づいた時にはもう手遅れで、全てが取り返しのつかないところまで来てやっと、自分がどうしようもない愚か者だと自覚する。
涙をぐっと押し戻して見上げた視線の先で、切れかけの街灯がSOSを知らせるモールス信号のようにちか、ちかと残り少ない命を燃やしている。悲鳴を上げることも出来ずただ弱々しく鈍い主張を見せる光は、私の恋心と同じように、鈍い光に魅入られた落ちこぼれの蝶以外には誰にも知られず、静かに息を引き取るのだろう。





Modoru Main Susumu
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -