その頷き一つで

年甲斐もなく涙を流し続けた私はあの後羞恥で死にたくなってしまったのは言わずもがなだった。

自分の中で感情の整理がつかなくて、とても推し語りを再開出来そうなメンタルではないことを察してくれたのか「また今度じっくり話聞かせてもらうからね」と深くは聞かないでいてくれたあの子には感謝してもし尽くせない。


正直言えば今日は出社したくなかった。ずる休みしちゃってもいいかなとも一瞬思ったが自分の超個人的な問題で周囲に仕事を押し付けることになるのは心苦しく、重い体を引き摺って泣く泣くスーツに袖を通した。

「すみません乗ります、」
エレベーターが閉まる前に急いでる様子の女性の姿が小走りで近づいてくるのが見えたため開くのボタンを押してはいた。彼女がたどり着くまで扉を開けて待っていると「ありがとうございます」と一礼される。息を少し切らして眉を下げて笑うその人はどこからどう見ても美人で。
もし私がこの人みたいに綺麗な人だったらこのひねくれた性格ももう少しましになったのかな、なんて見ず知らずの人にまで嫉妬心と羨望の眼差しを向けてしまう。
「何階ですか?」と尋ねると既に押してあるフロアと同じだったらしく新たな数字に明かりが灯ることはなかった。ここの社員さんだろうかと疑問に思ったが服装が明らかに会社員と言った感じではない。顔と名前を壊滅的に覚えられない私だがこんなに綺麗な人だったら流石に覚えられるはずだ。
無意識のうちに見過ぎていたのか不意に視線が混じり合う。儚げでどこか憂いを帯びた伏せ目がちな瞳に、同性にも関わらず思わず胸がどきりとしてしまう。

「あの、まだ業務時間にはなっていないですよね?」
「えっ、あ、はい。まだ余裕ありますよ」
美人さんに話しかけられ、どもってしまったのはしょうがないことだと思う。
「実は忘れ物を届けに来てて…でも会社の中に入ることなんて早々ないからちゃんと辿り着けるか不安だったんです」
「あ、そうだったんですね。」
同じ階で止まるということは同じ部署の人だろうか?
「その人何処で働いてるとかってはわかりますか?もし同じ部署だったらお声掛けして来ますけど」
「親切にありがとうございます…」
何処って言ってたかなぁと口に指を当て、考えるそぶりをするだけで絵になる人だなぁと素直に思った。きっとたいそうおモテになることだろう。私のようなコミュ力ど底辺の陰キャオタクとは似ても似つかない人生を送っているんだろうな。



「うーん…佐一ちゃんもあの人と同じ階って言ってたから居ればいいんだけど…」


ひゅ、と息がつまる。心臓に氷柱が突き刺さるような感覚。わかりたくなかったがわかってしまった。

(おそらくこの人が、『梅ちゃん』なんだ)
なんの証拠もなかったが確信してしまうのは俗に言う女の勘が働いているからなのか。

「もしかして杉元くんですか?」
からからに乾き切った喉をなんとか潤すよう、こくりと唾を一飲みしてから得意の愛想笑いを浮かべてそう尋ねる。大丈夫だろうか、私は今、ちゃんと笑えているだろうか。彼女に不信感を抱かせる事なく、ただの同僚である事を主張出来ているのだろうか。このままエレベーターが目的の階に着かなければいいのにと切に思った。この人が杉元くんではない別の人に用事があればいいのに、そしたらこんなにも綺麗な人に私の汚い負の感情を向けることも、唇を噛み締めて耐えることもしなくて済んだのに。
嬉しそうに「佐一くんのお友達ですか?」と平気で笑う誰がどう見てもとても綺麗だと息を飲む微笑みをこちらに向けられ、「いえ、ただの同僚です」と短く主張するだけが私には精一杯だった。

(私と杉元くんはただの同僚)
親しい友人でも愛を囁き合う恋人でもなんでもない、ただ、たまたま会社が一緒でほんの少しの接点があるだけの薄っぺらい関係。自分の口から出したはずの言葉なのに、きちんと咀嚼すればするほど息がし辛くなる。
この人と私が似ている?私のことは好きでもなんでもなくてこの人の代わりだった?馬鹿にするのも大概にしてくれ。
一度底辺を味わってしまえば、思いというのはそう簡単に浮上することはない。それが例え私の被害妄想だろうが、もぎれもない真実だろうがそれはもはや後の祭り、此処まで来てしまったら、戻ることは出来やしない

「よかったら杉元くんの所まで案内しましょうか?」
「それは助かりますけど…いいんですかわざわざ?」
「ええ、勿論」
今更いい子ちゃんぶっても根本の汚い部分が変わるわけでもないのに。

(ああ、なんだかとっても惨めな気分だ。)





「杉元くん、ちょっといいですか」
「っ!おはよう苗字さん、」
昨日のこともあり、まさか此方側から話しかけてくるとは思わなかったのかあからさまに動揺されてしまい、なんだか申し訳なくなる。話しかけられた事を素直に喜んだらいいのかわからないといったいつもとは違う情けない表情の杉元くん。「昨日はごめんね、あれは」と今最も触れて欲しくないところに踏み込んで来ようとする彼の無神経さに腹が立ち、言葉を遮るように気にしてないから全然大丈夫ですよ。」とこれまたにっこりと有無を言わせぬ愛想笑いでこれ以上触れてくれるなと纏う雰囲気で牽制する。少し、口調が強くなってしまったのは多めに見て欲しい。むしろ普通に会話をしていることを褒めてくれたって良いくらいだ。
「そんなことより杉元くんに用があるってお客さんが、」
「お客さん?」
「佐一ちゃん、」
「っ!?梅ちゃん…?どうして此処に、」
「あの人忘れ物してって…商談に行ってから本社に戻るって言ってたから佐一ちゃんにとりあえず預けておけば良いかなと思ったんだけど…」
「じゃあ、私はこれで」
彼女の姿を確認した瞬間目を見開いた様子を見て、ああやっぱりと確信に変わった。やはり私の予想は間違ってなかった。
「あ、あの!親切にどうも有難うございました、」
「待っ、!」
恭しく頭を下げてお礼をする彼女に軽く会釈をし、呼び止めようとしていただろう杉元くんに気付かないフリをして自分のデスクに戻る。
朝から大きな案件を一人でこなしたような怠惰感だ。もう帰って良いだろうか。まだ始業前だというのにぐったりと顔を伏せているとばし!と紙の束のようなもので頭を叩かれる。
「なにだらけてんだ。働け。」
「聞いてよひゃくえもーん…」
「却下」
「早くない?ねえ早くない?てかまだ仕事始める時間じゃないから。あと十分あるから。」
「ふざけた態度の奴の話なんざ、どうせろくでもねぇことだろ。」
「珍しくど凹みしてるんだから聞いてくれても良くない?」
「…」
「尾形くん?」
テンポよく続いていた会話が急に止まり、不思議に思いながら顔を上げると視線は一向に交わらず。何処かをじっと見つめていた。何を見ているのだろうと視線の先を追おうとすると今度は顔目掛けて再び紙の束で叩かれ「へぶっ!」とよくわからない奇声を上げてしまい恥ずかしくなる。
「ちょっとさっきから何なんですか尾形くん!」
「なんでもねぇよ。これ確認して欲しい書類な」
「そんな大事なもんで人のことぶっ叩かんで下さいよ…」
恨めしげにじと目で尾形くんを睨むとお得意の嘲けた笑いで足蹴にされる。
「昼休みなら話聞いてやってもいいぜ」
「…ま?」
慈悲のじの文字もないあの尾形くんが面倒になる事をわかっていながら話しを聞いてやるなんて、何事か。驚きを通り越してなにか裏があるのではないかと疑っているとすぐにこう続けられた

「ただし、夜予定空けとけ」

話がある。
そう短く言葉を放った尾形くんとようやく目が合う。今日初めてまともに見た彼は、何処か覚悟を持った面持ちをしていて。「なんか企んでる?」と茶化して聞き返せる雰囲気じゃなかった。今日は珍しく見たいアニメも、発売日の新刊もCDも特に回収する予定もなかったから断る理由も特になく、こくりと縦に頷くと見たことない穏やかな表情で緩く微笑まれ、心臓が飛び跳ねる。顔が良い男って恐ろしい。思わずときめいてしまったじゃないか。微笑んだというか、本当にわからないくらい微微たる動きが口元に見えた程度のそれだったが万年無表情、もしくは人を馬鹿にしたような嘲笑しか見たときない尾形くんのあの顔はなかなかにレアだったのではなかろうか。
本当に今日はどうしちゃったと言うのか、

「じゃあまたあとでな、名前」
「は、?!」
ぐしゃりと頭をひと撫で(というか髪を一掴みに近かった)したかと思えばいきなり下の名前で呼ばれ今度こそ声を出して驚いてしまう。別に名前で呼んだっていいけど!いつも苗字で呼ばれていたからおもいのほかびっくりしてしまった。急にどうしたんだ、気分転換がしたかったんだろうか。いや、それにしても突然の子すぎるだろう。


本当に、なんなんだ今日は…



Modoru Main Susumu
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