あなたに触れたくて
夜の勉強時間が12の針を2周り程した頃合いで葵は自分に少しだけ小休憩をと共有ルームの冷蔵庫へと向かうため自室を出ることにした。
共有の冷蔵庫に入れておいた牛乳を飲んで、運が良ければソファにいるかもしれない黒田と遊んで気分転換が出来ればなぁなんて少しだけ浮足立つ気分のまま共有ルームに入ったのだけれど、特に誰かがいるような気配もなく、そんなにうまくはいかないものだと苦笑を浮かべたまま冷蔵庫の中の牛乳を取り出しコップに注ぐ。
冷たい牛乳が体の隅々に行きわたっているかのような感覚に少しだけ寒さを感じて震えながら、そういえば誰もいないのに電気が付いているのもおかしいのではないかと気が付いた。
まだ日付がこえている訳ではないし、今日は春が夜の生放送番組のゲストとして呼ばれていたからその帰りをまって電気をつけっぱなしにしている可能性はある。
それでも、駆と恋もテストが違いと早めに部屋に戻ってしまっていたし、少し前に帰ってきたはずの始も連日の仕事で疲れて部屋にいるはずである、そう思うともしかしたら自分と同じく受験勉強の合間に休憩に来た新がソファで眠ってしまっているのではと、ついつい気になってコップを洗い、棚にしまうその足で所謂「黒いの大中小」御用達のソファを覗き込む。

「え?」

もし新ならば可哀想な気もするが本人も不本意だろうから起こしてあげなくてはと思っていた葵の目に飛び込んできたのは、想像していた人と同じ黒髪の、しかしその人よりも少しだけ大きな、大中小で言うところの大の人、睦月始であった。
思わず声を上げてしまい、慌てて口に手をあてる。眠りが深いのか目を覚ます様子はなく音をたてないようにほっと息を吐いてその姿を改めてまじまじと見下ろしてみる。
先程探していた方の小さい方である黒田を抱えて、と言うよりも黒田が上手に腕の間に入り込んだのであろう体制で互いに熱を分けあいながら寝心地最強であるらしいソファで眠る始を見ることは少なくはないが、葵と始がふたりきりになることは少なく、夜の静寂の中でこんな穏やかな時間を共有するのも…もしかしたら初めてかもしれない。
穏やか、と言ってみたが葵の心臓は先ほどから煩くドキドキと音をたてているし、ついつい握ってしまった手の中は少しだけ汗ばんでしまっている。
そんな自分を誤魔化す目的が半分、もう半分は心からの気遣いで部屋の棚から毛布を持ってきてゆっくりと始と黒田にかける。これで風邪をひいてしまう心配は少しはなくなると一安心すればまたうるさい心臓の音が気になってしまい、そっと自分の胸に手を置いて焦らず、冷静にと深呼吸なんてしてみたり。
それでも、どれだけ心臓がうるさくても、緊張で顔が火照ってしまって、その場から離れるなんてこともしたくなくて、ドキドキも熱も気にならないふりでその場に座って始の顔を覗きこむ。

整った顔立ちに、いつもはセットされた黒い髪、今は顔にかかって少しだけクセになってしまっているその髪が見た目よりも柔らかいことは知っている。その髪が少しだけかかった瞳を彩る長い睫と、今は見えない綺麗な紫。凛と前を見据えるその瞳が、自分たちを見る時に少しだけ細められることも、知っている。
その表情を思い出して、つい口の中で「すきです」と音にならない言葉を紡いでしまい、誰に見られている訳でもないのに羞恥で顔にさらに熱が集まる。
好きだと言ってもらえたことが嬉しかった。
好きだと伝わったことが嬉しかった。
だから、今はそれだけで良くて、それ以上を求めてしまうのは自分にはまだハードルが高いのだ。
こうやって寝顔を見ているだけでも、遠慮などなく本当にそれだけで幸せで、この時間が凄く愛しいものだと思える。

「…ん、寝てたか」
「あ、わ、おはよう…ございます?」

だから、本当に起こしてしまう気なんてなくて、あと少しだけこの時間を堪能したら自分の部屋に戻ろうと思っていたのに、自分の気配か物音かそれとも他のなにかが始のなにかに触れたのか閉じられていた瞼がふるりと持ち上がり、先ほどの想像と同じ綺麗な紫が現れる。
眠いことを隠すこともない声が、きょろりと自分の周りを眺め、最期に自分のいる目の前で止まり「葵か…」とその目が和らぐ。
それだけのことで、葵の心臓は更にうるさくなってしまうのに。

「お疲れ様です、始さん」
「寝起きにお疲れ様もないだろ」
「でも、今日までずっとお仕事詰まってましたし」
「ああ、葵も、勉強と仕事お疲れさん」

平常心をといつも通りに会話を続けてみるが、身体を起こした始が労わるようにポンポンと頭を撫でてくれたおかげで、嬉しいのだけど、凄く嬉しいのだけど顔中に集まった熱が再度葵を襲う。始といるとこんなことばかりで、みんなの言う王子様なんてどこにもいなくなってしまう。
そんなことを、目の前の王様はきっと知らないのだろうけど。

「起こしてくれても良かったんだぞ?」
「いえ、始さんは休める時に休んでください」
「…なるほど、これが王子様ってやつか?」

な?と一緒に起き上がった黒田を覗き込むその姿は何時もより幼くて、自分もちゃんと気を許されているんだと思うと嬉しい。
そしてそれと同時に、先ほど自分で至った考えと別のことを言われてしまい、ついつい小さく笑いがもれる。

「王子様なんかじゃ、ないですよ?」
「そうか?」

寝起きなこともあって頭がまだぼんやりしているのかいつもより会話が覚束ない始に油断していたのか、先ほどから溜まっていた熱が限界だったのか、たまには自分だけじゃなくて始も同じ気持ちになってしまいえばいいのにと思ったのか、言うつもりなんてなかった言葉が自然と口から零れてしまう。

「俺は、ただ始さんが好きなだけの、ただの皐月葵です」

言ってしまったその言葉に気づいた時には、やはり始よりも葵の方が照れてしまい、結局自分だけが緊張してしまっていると少しだけ落ち込んだ。
そしてそんな百面相をする葵を見て、やはりというかなんというか堪えきれずに噴き出した始はなにも悪くないのだけど、でも少しだけ恨めしくて赤いままの顔で頬を膨らませ「不満です」と分かりやすくアピールしてみたり。
嘘ではないのだ。ただ伝えることに凄く勇気が必要で、その勇気をためないままに伝えてしまうと自分がしてしまったことにただ驚いて恥ずかしくなってしまうのだ。
始さんには!分からないかもしれませんけど!
そんな気持ちを、楽しそうに揺れる紫の瞳に訴えてみる。

「そうだな、王子様なだけじゃないな?」
「ぅ…忘れてください」
「忘れて良いのか?」
「…いやです」

すっかり頭も冴え、上機嫌になった始が「素直で良い」と再度葵の頭を撫でる。
この動作も、よく恋や駆の年少が頑張った時や、いい結果が出せた時の新が強請った時にしてくれるもので、葵にはなかなかしてくれないので嬉しい。
特別が良いなんてことはなくて、みんなと同じでも始から貰えるものはなんだって嬉しいのだ。
凄く、嬉しくて、そして凄く恥ずかしくもあるのだけど。

「俺も特別扱い出来る訳でもないからな、ただの葵の方がありがたい」
「そういうものですか?」
「ああ、他の奴らと同じだろ?」
「同じ…ですか?」
「違うか?」

こてんの首を傾げられる。その姿につい「違いませんよ」と言ってしまいそうになるのをこらえて、前々から思っていたことを聞いてみる。

「じゃあ、悪いことをしたら怒ってくれますか?」

本当に、みんなと同じが嫌なんてことはなくて、むしろその逆で。
恋や新がよく怒られているのも目にするし、春には少し扱いが雑になるのも知っている。でも葵や駆には少しだけ遠慮をしているというか、言い方は悪いが手荒に扱ってくれないような気がして、そこに少しだけ距離を感じてしまっていることは本当だ。
怒られたい、なんてことでもないが、葵だっていつも品行方正な訳ではないのだから、たまには叱ってほしいと言うか、優しい以外の始も欲しくなってしまう。

「悪い事って?」

だからみんなみたいに怒って欲しいな、という割と簡単な欲求だっただけにいざ「例えば?」と聞かれてしまうと言葉に困ってしまう。
度々アドリブに弱いと言われてきたが、今まさに最大のピンチというか、このアドリブの弱さを叱ってほしい気にすらなるが、楽しそうに笑う始の求める答えはきっとそんなものではないだろうし、でもだったらなにかと言われると、考えれば考える程頭が煮詰まってしまいまともな答えが思いつかない。
怒られるような悪いこと、悪いことってなんだろう、自分の思う悪いことは…きっと我儘を言うことだ。

ああそうだ、それが悪いことなら今の俺はきっと悪い男なのかもしれないと急にストンと一つの言葉が葵の中に落ちた。

「キスをしても、良いですか?」

そうすれば瞳を細めた王様からは、「不合格」とそれはそれは楽しそうな声でお仕置きのアイアンクロー代わりに唇を寄せられ、「また怒ってもらえなかったなぁ」と頭の片隅で考えながら振ってきた甘い仕置きを受け入れた。


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