ままごと
瞼の裏にに光が過ぎり、その眩しさで軋間は閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
少しだけ肌寒さの残る畳張りの部屋に高窓から差し込む朝日がぼんやりと広がり、空気に混ざった小さな埃をきらきらと美しいもののように輝かせる。本来は何の意味もなく、積もってしまえば埃となり駆除されるものだと言うのにそれは物語の一場面のようで、瞳を閉じることもなく、しかし起き上がることもなく暫くその景色の中に身を横たわらせたまま軋間はただ溶けるようにそこにいた。
そんな、鬼には相応しくない穏やかな朝はきらきらと光る埃を動かすことはなく、しかし耳を塞ぐには十分すぎる程の音量と衝撃によって破られることになる。
しかしそれは先ほどまでの物語の中とは違い、今の軋間にとっては珍しくもなくなった日常の一場面となっていることで、空気に溶けた身体をこちら側に引き戻すには十分すぎる衝撃だ。
「   」
だから、惜しむことなく布団から引きずり出した身体をまっすぐ台所へと持っていき、木戸を開けてその場にいるであろう人物を目にいれるよりも早く音にならない声で呼びかけてやるのだ。
ななや、と。

***

軋間の声は少し前から声を発する機能を無くしてしまっている。
それでも死ぬことはなかった自分の身体に嫌気と感謝を抱きながら、音の少ない世界の中で軋間は変わりのない生活を送っていたのだ。
元々山の中での一人暮らしである。自ら何かを発することの方が稀であったし、別段不便だと思ったこともなかったのだが、そんな生活に突然一人の少年が舞い込んできたことでその日常と認識は崩れることになった。
少年…七夜志貴は転がり込んできたと思ったら巧みな言葉であれよあれよと軋間を説き伏せ巻き込み当然の様に共に暮らすことになってしまったのだが、不思議と嫌な気がしないのだ。芝居がかった話し方も、人への魅せ方を熟知しているその様も本来はまず相手の心を読み、誰かの為に演じられるものなのだから彼にとっては人を懐柔することなど朝飯前だったのかもしれない。
気が付けば当たり前のように七夜は軋間と共に寝食を共にし、日常のように今の景色に溶け込んでしまっていたのだった。

長く暮らせば互いの言いたいことや次にとる行動等は多少は分かる様にもなるのだが、それでもやはり自分が話せないと言うのは少しばかり厄介なもので、伝えたいと思ったことをつい昔からの癖で声にしようとしては、音にならないヒュウという掠れた響きだけが静かな家の中に響くのには軋間も眉間の皺を寄せてしまったりもした。
だが、その度に察しの良い七夜が「これのことだろう」「あれのことだろう」と言葉にならなかった思いを汲み取って動いてくれるおかげで、幸い不便だと思うことは少ない。
さらに言うならば、これではまるで看病をされてるようだと眉を下げれば「俺が住まわせてもらってるんだ、イーブンだろ?」と、逆に軽く眉を上げて恰好を付けるその姿はなんともまぁ、男ながらにこそばゆいものであった。

とにもかくにも、七夜という少年はなにもそこまでという程には気遣いが行き届く人物であり、そして意外なことに、なんとそこまでと言う程には家事というものが出来なかった。
本人に言わせれば、やったことのないものが出来るはずがないと当然の様に応えるが、しばらくの間家事を任せてみてもてんで上達するところがないのを見るとこれは才能がないのだろうと言わざるを得ない。
それでも、人並み以上に動ける少年ではあるので掃除や洗濯、食材の調達などはなれればある程度は問題なく行い、軋間の個人での生活時間の自由度はいぜんよりぐっと増した。
しかし、こればかりは前述のように才能の面が大きいのが料理の分野はからきしなようで、挑戦しては失敗し、練習しては異形物を作り出している。
それでも諦めがつかないのか、毎日のように軋間より早く起き炊事場でテキパキと動いて、時に転び、失敗し成功し、軋間が起きる頃には見事な異形物が出来上がっているという訳だ。
それは今朝も同じようで、軋間が起きるまでに完成しなかったらしい黒く染まった鍋だけを死守した七夜が落ちてきたのであろう蓋をぶつけた頭を抱えて蹲っていた。状況はさっぱり分からないが「こんなはずでは…」と言っていたところを見ると予想外の事態で蓋が飛んだのかもしれない。…やはり状況はさっぱり分からないのだが。

結局、起きた軋間が作り直した朝食を二人で食べ。納得がいかないと言い続ける七夜を諌めつつ小屋の掃除を行う。元は一人で暮らしていたそれほど広くない面積を二人で掃除するのでさほど時間がかからないのだが、だからと言って以前で一人で暮らしていたときともあまり変わらない気がするとぼやけば「俺はあんたが気づかない細かい場所を掃除してるのさ」と曖昧な返事が返ってきたことはまだ記憶に新しい。
確かに、たまにその姿を追えばなるほどそんなところもと言う個所を掃除している時もあるが、やはりただ単に容量が悪いだけのような気もしなくはない。
それでも、住処の清潔は保たれているのだから軋間に特に不満はないのだが。
掃除が終われば次は洗濯である。とはいっても二人分の一日の汚れなどたいしたものではないし、あったとしても数が少ないので直ぐに終わってしまう。
なので、水場にある滝で精神統一をしつつ、ついでに少しばかりの洗濯を行い、帰りに昼と夜の分の食材を調達するという過密にみえる計画をたてて森の中へと入る。
忙しいように見えなくもないが、七夜は絶対に嫌だと滝行をしたがらないので、軋間が滝に打たれている間に彼が洗濯をし時間が余れば食材を調達を始めるという訳だ。
今日も、目を閉じ無心で滝に打たれていた軋間が気が付いた時には彼の姿は水辺の近くには無く、呼ぶこともできないので残された洗濯物だけを回収し、森の中へ再度入ることになった。
七夜を探す道中で数日前に見た時よりも育っている植物や木の実、果実などを回収し、時に魚を掴み、獣を狩り二人でも多いかもしれないと軋間が気づいたころに、七夜はひょっこりと姿を現すことが多い。
その手の中には軋間ほどではないがたくさんの食材が盛られており、互いに学習しないと顔を合わせて笑った。
「   」
これも最近では当然の様になってしまった、とても穏やかな時間のひとつで、こんな暮らしが自分にもできたのだと軋間は直接告げたことのない感謝をいまだに微笑んでいる少年へと、声にならない掠れた音で伝えるのだ。

* * *

小屋に帰り、家のなかに食材を一先ず置き、先に休憩にしようと外にある水場にて手をすすいでいれば、微かにであるがあまり良くない異臭が軋間の鼻をつく。
腐ったような、かびたような、血の匂いとはまた別種のあまり良くない匂いだ。
不審に思いその元をたどれば、洗濯に出る時には目に入らない小屋の反対側に大量の黒い塊とそこに群がる虫の群れ、そして粗末だがやたらと丹精込めて作られた木のオブジェが目に入る。
隠すことなく眉を潜め近づけば、匂いの元である元がなんだったのかすら分からなくなっている腐った物体が軋間の膝下程度まで積まれ、当然なのだがとどまることなく異臭を放ち続けている。
それだけならばまだ、良い。実害が出ている以上勿論言い訳は無いのだが、こちらは処理さえしてしまえば元は断てるのだから。
不快さをそのままに異臭の元を燃やし、その揺らめく炎を背中に移しながら、しかしこちらはと掌をギリと握る。
質素と言えば聞こえが良いその木製のオブジェは、十字の形に作られた墓であった。
どこの誰かも知らないが、趣味の悪いことをしてくれるものだ。
何処から漏れたのか、山の中には鬼がいるという噂が近くの町で多少出回っているようで時たま興味本位と子供や正義感に駆られた大人達、そして恐怖に動かされた弱き者たちが疑心暗鬼でこの小屋に訪れることがある。
軋間たちがいないときは小屋が数か所壊されていたり、今回のように悪戯のようなことが仕掛けれらていたり、なにかの呪いのようなものが施されていたりする。酷い時は軋間たちがいる時で、恐怖で乗り込むこともできないくせにひたすらドンドンと小屋の戸や壁を叩いたり、火を放って来たりとまるで魔物扱いだ。
間違ってはいないのかもしれないが、自分はともかく七夜は身体は普通の少年と変わらないのだからと姿を見せることなく、叩かれる以上の衝撃で驚かせてみたり、逆に火をこちらから放ち追い出した後に消化したりと手を尽くして帰ってもらっているのだが、今回のようなことは初めてである。

嫌がら以上の意味などないだろうに、丹念にしっかりと作りこまれたその木のオブジェはなにも言うでもなく、しかしじっと軋間を睨んでいるようで居心地が悪い。
先ほどの腐敗物と同じように処分してしまえばいいのだが、そうすることを頭のどこかが拒否してしまう。
どちらに向けられて作られたものかは分からないが、悪趣味で残酷だとしっかりと理解はできるのだが、その一方でこれを壊してしまっては駄目だとなにかが否定する。否定する判断材料などひとつもないくせに、壊してしまったら代わりに何か別のものを失ってしまうような気分にすらなる。
分からない、不明瞭な靄のようなものが思考を埋めていくのにその先を探究するきが起きてくれない。ならばいっそこんなもの全て聞こえないふりをして壊してしまえば、と手に力を込めた時に遠くから凛と声が響く。
「紅赤朱」
驚いて振り返れば、不思議そうな顔をした七夜が小屋の影からこちらを覗いていた。
手を洗いに行ったきり帰ってこない自分を心配したのかもしれない。すっかり靄が晴れてしまった頭がすまないことをしたと彼へと謝罪で埋まっていく。
「どうかしたか?」と首を傾げ尋ねるその姿に、首を振りながら軋間はその場をなにごともなかったというように去った。それが今はいいのだろうと着地点を見つけた気がしたのだ。

残された誰かの墓に、燃やされた廃棄物の灰が風に煽られ降りかかる。
そんな光景を軋間と七夜は目にすることもなく小屋の中へと戻り、森の中へと黒い影がガサリと消えた。

* * *

結局軋間が作ることになった晩御飯も食べ終え、すっかり暗くなってしまった外の景色を眺めながら二人で何をするでもなく居間で背中を合わせ互いに虚空を見つめる時間が軋間は嫌いではない。
やはり多かった食材を保存できるもの以外はしっかりと調理し、自然の恵みに感謝を送りながら食べる。元からあまり食べる方ではないらしい七夜は大変そうであるが慣れてしまったのか以前よりも食べる量が増えてきているのは良いことだと思う。その割にもたれているこの体は一向に肥えることも、大きくなることもないのだけれど。
「  」
軋間が空気を揺らせば、七夜が「どうした」と少しだけ振り返って尋ねる。
特に用事があった訳でもないので、首を振ればなんだそれはと笑われてしまった。確かに今日の自分はそんなことばかりのような気がすると、午前中の墓のことを思い出す。
自分の中で嫌な記憶に分類されていたのか、思い出す際に頭がズキリと痛んだがあれの処遇も近いうちに決めておかなくてはいけない。
七夜が気づいていないということもないような気もするが、知らないフリをさせているのも忍びない。今日のようになる前に一思いに燃やしてしまうのが良いだろう。
彼は、七夜は、相手のことを察するのが上手いからそのうち軋間の隠し事なんて明け透けになってしまうのだから、そう明日にでも、綺麗に燃やしてもう思い出せないように、気を使わせないようにしてしまおうと。
それがいい、そうしてしまおうと決めたところで、急にぐらりと眠気が襲う。
よく動き、よく食べ、この時間になれば眠くなるのも当然かと小さく船をこげば背中から七夜が離れ黙って布団を敷いてくれる。ああ、本当に察しが良い。
「   」
声にならないありがとうを告げ、布団の中へと身を潜らせればあっという間に眠気がやってきて、それに抗うことなく瞼をおろす。「また明日な」と優しい声で告げる七夜に、これが幸せと言うやつなのかもしれないと軋間は手をしその手が届くか届かないかというタイミングで微睡の世界へと落ちていく。
それを寂しいとは思わない。
今届かずとも手を伸ばせば届く場所に彼はいるのだから、明日でも明後日でも変わらずにそこにいて、自分と共にこのあたたかい日常を続けていくのだから。
だから、この日常がまだ続くのだと思えばなにも問題なんてないのだ、明日もきっと自分より先に起きた七夜が朝食を作り失敗して、不満そうにする横で自分が新しい朝食を作るそんな朝がやってくるのだ。
そんな愛しい日常をまさに夢見るように、軋間は静かな家の中で深い深い眠りへと落ちていく。
瞼の裏に金属特有の白銀の光が過ぎり、伸ばした手に人の温かい熱が伝わる、そんな気がした。


鬼のままごと


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