咲かない花の種を蒔く
いつもは鋼の塊を握るその指が柔らかな稚児の小さな手を壊さぬようにと恐る恐る触れているのがなんだかどうしようもなく可笑しくて郭嘉は思わず口の奥でかみ殺していた笑いを吐き出した。
流石に耳に入ったのか困惑した顔で殿の現在の宝物である稚児、曹丕を必死であやしていた張遼もその下がった眉を隠しもせずにこちらに向けて郭嘉の存在を認めると下がった眉をぎゅうと顰めさせた。
その一連の動作すらも郭嘉には愉快なことでしかなく、隠す気の無くなった笑いが小さな部屋に遠慮なく響く。
「郭嘉殿」
「ああ、すまないすまない。曹丕様が起きてしまうな」
そうではないと言いたげな張遼の視線を無視して近づいてきた郭嘉は座っている自分たちの前に立つとわざとらしく仰々しい拝礼と拝手をした後に「お傍に添っても?」と小さな主にそれはもう優しい声で尋ねた。勿論現在夢の中に居らせられる曹丕にはその声は届かないのだが、「殿のご子息なれば、そのような些事を気にすまい」と変わりに発した張遼の返事に満足したのか手に持った竹簡を落とさぬようにとゆったりその場に腰かけた。
それまでの恭しさはどこへやら、座った途端に胡坐をかきとても主の前に立つ姿勢ではないなとは張遼を含めた家臣たちの考えだが、この郭嘉と言う男は本来の君主である曹操と話し込むときなどでも似た様な姿勢になることが少なくないので、そういうものだと納得した方が早いのだろう。
なにも形だけの姿勢の話ではないのだ、その目が、口が、なによりその真髄が、曹操と対する時、そして戦を前にするときは、不敵で大胆で神秘の先へと片足を放り込んでいるような、高名な神官や占者を前にしたかのような気分になる。武のみに生きてきた張遼だからなのかもしれず、曹操からすればまた違う見解なのかもしれないが(だからこそ、この二人は主従を越えた絆を結んでみえるのだろう)張遼からすれば郭嘉という人物はどこから見ても、いつ覗いてもひどく遠い存在に思えた。
「なにか御用か」
「次の戦の話と、騎馬隊の訓練について少し聞きたいんだが、良いか?」
「私は構わぬが」
ちらと腕の中の稚児を除けば変わらずすやすやと眠ってはいるものの、大の男が二人で話し込んではいつ起きるか分かったものではない。夜泣き対策にと度々曹丕の子守を頼まれる張遼ではあるがもとより慣れぬ事ばかりでどうしたらいいのか、何をすれば良くなにが駄目なのかがいまいち分からない。
そんな張遼になるほどと頷く郭嘉だったが、勝手に結論を出したのか複数ある竹簡から一つを取り出しするすると紐をとき始めた。問題ないと思ったのか、自分には分からないが深い眠りだから起きぬと判断したのか分からないが自分よりはよほど正しい判断が出来るだろうとその行動自体には異を唱えず話を聞く姿勢へと移した張遼に、郭嘉は開いた竹簡から顔を上げ、悪戯をする子供のような顔で張遼の頬へと手を伸ばした。
「将軍が声を抑えてくれれば、問題なく」
その声が、仕草が、まるで男女の睦言のようで思わず上がりそうになる体温を理性でぐっと堪え「郭嘉殿」と少しだけ尖った声を出す。
するりと触れるだけであっさり離れた手が郭嘉の顎の下へと戻され、形だけの思考の姿勢をとる郭嘉に張遼はやはりよく分からない人だと隠しもせずため息を吐いた。

(途中)
(以下追記)

「おや、お気に召さなかったかい」
「武しか取り柄のない身故、左様な戯れにどう返すべきが分かりませぬ」
「そう肩ひじ張らなくても言いたいこと言えば良いのさ」
「軽口は好まぬ」
「ははっ、そっちが本音か!そりゃあすまなかった」
それに、と口の中で飲み込んだ言葉の続きは郭嘉の笑い声で消されて、息の一つすら形になることはなかった。それでいい、きっと少しでもそぶりを見せればこの男は全てに勘付いてしまうのだろうから。そうだ、それに、それに、きっと。
「曹操殿は喜んでくれるんだがね」
言わずとも答えはなんて分かりきっているのだ。
張遼に戯れに向けられるそれは、とうの昔に早々に向けられ、そして受け入れられたものだ。曹操ならば伸ばされた手を掴み引き寄せ互いに睦言を紡ぎながら、絡ませながら夜の帳に落ちていくのだろう。それを郭嘉も受け入れて猫のように笑い寄り添うのだ、そんなこと分かっている。分かっているから張遼はいつだって見ているだけだ。
 聞きたいことがあったら言ってくれと普段よりも抑えた声で告げて先ほどまでのおふざけを無かったことのようにして話し始める郭嘉の顔は軍議の時に見せる占者のそれだ。主早々の愛した才そのものだ。
いつからだったか、自分から遠いからこそ目について、気付いたら追っていた、そしてその瞳が追う先も見ていた。
到底敵うはずもない相手だ、この無骨な手と回らぬ頭では一生涯をかけても届かぬ想いだと早々に諦め、良いとは言い難いその素行のすべてをただ追ってきた、よろける時には少しだけ近寄り、助けを求められたら駆け寄った。それで満足であったし、それ以上を求めることも、知ることも必要ではなかった。
神策鬼謀を紡ぐその横顔を見ながら、張遼は魏軍に下ったときから何度捨てたかも分からない思いをまた一つ芽吹く前に捨てた。花など咲かぬのだから、蕾にすらならぬのだから、これくらいは許してほしいと主に頭を垂れながら。
 青のような銀の様な髪がさらりと揺れ「良いか?」と小さく首をかしげる。「無論」と返せば、にやりと満足そうに笑って「流石」と少し高い位置にある張遼の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。その行動になんでこの人はとまたひとつ種を捨てながら眉間に皺を寄せてみせる。
「郭嘉殿、そのようなことはお子に」
「起きてしまうだろう?それに俺は将軍を誉めてるんだ、間違いじゃない」
「屁理屈では…」
自分の豆だらけの手とは違う、女とも違う、角ばって柔らかな手が自分の髪をかき混ぜるのが少しだけこそばゆい。しかしあまり動くと本当に曹丕が起きてしまいそうで名残惜しいがその手を掴みそっと離す。
再び元の位置に戻されてしまった自分の手と張遼を見比べ「お堅いねぇ」と笑う郭嘉は少なくとも機嫌を損ねてはいないようだ。
「しかし、曹丕様は起きないな」
「起こしてしまわぬようしているゆえ」
「案外子守唄みたいなもんなのかね、軍略なんて」
さすが覇王のお子だとそれは嬉しそうに小さな手を撫でるように触れる郭嘉は何故だか自慢気だ。もし曹丕が策すらも子守唄だとするのだとすればその片棒を担いているのは間違いなく郭嘉であるからだろう。なんとも物騒な話だが、なんとも羨ましい話だ。
「ならば窮地にその神算を思い出すのでしょうな」
「ははっ!そりゃあいいな、軍に広めてやりたいくらいだ」
昔を思い出した時に、この声が真っ先に思い出せるのだとしたら、その考えの一端だけでも頭に植え付けることができるのならばそれほど羨ましいことはない。張遼はいつだって追い、見つめ、瞳の奥に焼き付けることしかできないのだから。
「羨ましいものですな」
「将軍にだって望むんなら唄ってやるさ」
「左様か」
張遼の真意に気づかず「今度機会があればな」と嬉しそうに笑う郭嘉をまた瞳に強く焼き付け、そしてまたひとつ、種を捨てた。


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