「エラ呼吸ではなく肺呼吸です」 灯里さん
これは絶対に新人いびりだ。少なくてもナユはそう思っていた。三ヶ月前、十六歳となって間もなく魔道学協会魔道士職員となったのだが、そこで終わりではない。首都を追い出され、一人でこんな所まで来るはめになったのだから。ナユに与えられた仕事は『魔道書』を発見次第、連行すること。 魔道書なんて、それこそ御伽噺の中でしか聞かない言葉だろう。しかし、現にその魔道書はナユの目の前にいた。艶めく木製のテーブルを挟んで腰掛けるのはとんでもなく美しい青年だ。 銀糸を紡いだような銀色の髪は緩やかに波打ち、美しく煌いている。影を作るほどの長い睫毛に縁取られた瞳は深い灰褐色。繊細な美貌はビスクドールのようで、街を歩けば誰もが振り返らずにはいられないだろう。ただ、残念ながら彼が浮かべる表情のせいで近づく者はいなさそうだ。作り物のように整っているため、仏頂面をされるとつい腰が引けてしまうのである。
彼の胃袋はそれこそ魔法かもしれない。それか異世界か。ナユの目の前で瞬く間に運ばれた料理が空になって行く。先ほどまで皿の上に乗っていた山盛りの料理は影も形もなく青年――レミオルの腹に消えていた。初めて見た時は大層驚いたが、慣れれば平気である。しめとばかりに彼が頼んだのはあの日と同じ背の高いサンデー。 新鮮なフルーツ、真っ白な生クリーム、そしてとどめとばかりにアイスクリームが乗っていた。おまけにチョコレートソースまで掛かっているのだから最高だ。ナユはいつものように彼が行く所について来たのである。
「おい、そんな物欲しそうな目で見るなよ」
「見るだけならタダでしょう? 文句を言われる筋合いなんてないですよ。それとも見物料でも取る気ですか?」
あの時は正面に座った自分から守るようにサンデーを抱え込んで食べていたのだ。自分で頼め、とは言わない。何故ならナユにはお金がないからだ。サンデー代を経費で落とす訳にはいかず、万が一にでもそれがばれた時、部長にどんな目に合わされるか分からない。よって、どんなに食べたくても見ていることしか出来ないのだ。 横取りするならまだしも、ナユはただ物欲しそうな目で『見ていただけ』である。
「それもいいかもな。涎垂らして見てるくらいだしよ」
「涎なんて垂らしてませんよ! 自分は好きなだけ食べておいて。あれですか? 新手のイジメですか? これ見よがしに見せ付けてくれちゃって。アイスクリームが美味しそうだなとか思ってもダメなんですね。ええ、そうですか!」
「……お前、絶対エラ呼吸だろ」
「失礼ですね。ちゃんと肺呼吸です!」
半ばやけ気味にまくし立て、スプーンを持ったままの青年を睨みつける。レミオルは半ば呆れたように、まくし立てるナユを見つめて呟く。 涎なんて決して垂らしていない。そんなものは気のせいだ、うん。と自分に言い聞かせる。ちょっと食べたいな、と思うのは人間として当たり前だろう。目の前に美味しそうなデザートがあるなら。 誰がエラ呼吸なのだろう。魚ではあるまいし。人間は皆肺呼吸である。自分でも興奮していることが分かっていたので、落ち着けと言い聞かせて座りなおすと、憮然とした表情のレミオルが目に入る。
「いるんだろ?」
「へ?」
主語がなければ分からない、ことはない。彼はアイスクリームを乗せたスプーンを差し出していた。つまり、分けてくれるということだろうか。しかしながら、そのスプーンは今まで彼が食べていたもので。 食べたい、でもこれは所謂間接なんとかになるのではないか。ぐるぐると思考が巡って動けない。その沈黙を何と受け取ったのか、直ぐにスプーンを引っ込めた。思わず、ああ、と声が漏れる。
「なんてな。やるわけないだろ」
「……別にそんなことだろうと思ってましたよ。あなたは食い意地張ってますからね」
「それ、お前だけには言われたくないからな」
どういう意味ですか、と返しながらもそれほど嫌な気分ではない。レミオルを首都に連れて行くのは一筋縄では行かないだろう。この先の苦労を思うとため息しか出ない。それでもナユは自然と笑っていた。彼と話すのは思った以上に楽しいのだ。
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