3

「…血で?」

王子は自分の体を確かめるように眺め回した。彼の高貴そうな装束は、目の覚めるような蒼で統一されている。血の滲みなど一点もない。
王子ははてなと首を傾げた。

「何処も汚れてないけど…。何?アンタ体洗ってないの?」

「…は?え…」

一方、少年は王子の予想外の反応に完全に意表を突かれた体で、目を丸くしている。
王子はそんな少年の態度が不服なのか、二人の間にあるテーブルに手を付き、少年に詰め寄った。

「だから何が言いたいのさ。体ならお風呂に入って洗えばいいじゃん。血だろうが泥だろうが、油性ペンじゃないんだから、洗えば落ちるよ」

王子は更に身を乗り出して、少年に顔を寄せる。

「ちなみに僕は毎日お風呂に入ってるからね!」

「………」

少年は、ぽかんと口を開けたまま王子を見上げていた。その表情を見て「アホ丸出しだ」と王子は言いそうになって、慌てて己の口を塞いだ。わざわざ自分を貶めることはないからだ。
暫くして、少年は視線を落とした。そして今度は肩を揺らして笑い始めた。

「ふ…はははは!洗えば落ちる?その通りだ!」

先程から全く行動の読めない少年に、王子は三度顔をしかめる。文句を言おうと口を開きかける王子だが、しかしそれは少年の甲高い叫び声に遮られた。

「血は洗えば落ちる!だが人を殺した事実は消えない!僕は君に、人殺しの体を使って欲しくなかった!」

え、と瞠目する王子を尻目に、少年は突然走り出して談話室から出て行った。やはり慣れない体のせいか、こけつまろびつで非常に遅い。
従って、長い手足を持つ王子は、談話室を出てすぐ少年に追い付いていた。それでも少年は本気で走っているつもりらしく、息を切らしながら階段を上って逃げていく。

が、その時階段を踏み外し、少年の体がぐらりと後方に傾ぐ。仰向けに転ぼうとしている自分の体を、妙な既視感に襲われながら王子は見上げていた。

「…危ない!」

ほとんど、反射と言って良い速さで、王子は倒れかけている少年に手を伸ばした。それは、その体が自分のものだから、という理由だけでは、恐らく、ない。
だが、生憎とこの王子の体も、本来の持ち主が使っているものではなかった。王子の体を使っているネスは、この体が自分の思っている以上に脚力があることをすっかり失念していた。

――つまり、王子は、少年を助けに行くつもりで階段を駆け上ったはいいものの、実際は飛び過ぎていたという訳で。

ガツン

と聞くに耐えない音が響く。
飛び過ぎた王子の頭と、落下してきた少年の頭が、見事に激突したのだった。

「「っつぅぅぅぅう!!」」

悲鳴を噛み殺して、王子と少年は頭を押さえてころげ回る。
それでも先に痛みを耐えきった王子が、涙目になりながら叫んだ。

「君!助けに来といてそれはないんじゃないか!」

それに対して、少年は顔を真っ赤にして叫び返した。

「はぁ?!助けてやっただけ有難いと思いなよ!…って、あれ?」

少年と王子は顔を見合わせる。それから自身の体を見下ろした。

「…戻ってる?」

「そのようだ」

「なんだ…心配して損したじゃん」

お帰り僕の体、なんて呟く少年とは対照的に、王子はそのまま無言で立ち上がると少年に背を向けて歩き出そうとする。あぁ、そういえば、と少年は今更のように先程まで王子と言い合いをしていたことを思い出した。

「待ちなよ、逃げる気?」

「放っておいてくれないか」

少年の攻撃的な売り言葉に対し、王子の返事はあまりに弱々しかった。

「さっきは気が動転していて馬鹿なことを言った。忘れてくれ」

挙句、滅多に吐かないような言葉を吐く。途端、少年の頭には一気に血が上った。殆ど何も考えず、少年は感情に任せて怒鳴り散らしていた。

「またそうやって一人で自分を貶めて、傷付いて、それで満足するつもり!?アンタ馬鹿じゃないの?!そんなことして誰が幸せになるの」

「な」

王子は目を見開いて少年を振り返った。が、間髪を入れずに少年は叫び続ける。

「アンタが戦争で人をたくさん殺したことなんて知ってるよ!それを無かったことに出来ないことだって知ってる!でも、だからって僕がアンタを軽蔑することはないよ。アンタが血で汚れてるだなんて思わない。僕はいつだって今のアンタを………あれ?僕何言ってんの?」

唐突に我に返ったらしい少年が、はてなと首を傾げる。王子はぽかんと口を開けたまま少年を凝視していた。それを見た少年は「アホ丸出しだ」と言いそうになって思いとどまる。そんなことよりも、先程自分が王子に言ったセリフを脳内で反芻した結果、とんでもなく恥ずかしくなってしまったからだった。
王子は先までのしおらしい態度は何処へやら、晴れやかな笑顔で少年を見下ろし、可愛らしく小首を傾げてみせる。

「“今の僕を”………何?」

「は…はわわわ…えっと…えと、あ………バーカ、バーカ、王子のバカぁぁぁぁ!!」

もう何を言ったらいいのかも分からず、捨て台詞を吐いて少年は脱兎の如くその場から走り去った。それを見送る王子は、罵倒を浴びせられているにも関わらず、実に満足げな顔だ。

「“今の僕”…ね」

全く君は、本当に面白い子供だ。
その呟きは声にならず、王子の胸に秘められる。

さて、夕食の時間に会う時は、いつもよりたっぷり可愛がってやろう、と密かに誓う王子であった。



王子と少年が、結局何の実験をしていたのかは、明かされずじまいとなった。が、その日の夕食の席では、いつも以上に激しく、そして命懸けでじゃれ合う王子と少年が、再び屋敷住人から恐れられていたという。



→あとがきという名の言い訳

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