日記55(覚醒)

「私は、聖王の名を捨てます」

そう言って、彼女は長く伸ばしていた美しい蒼髪を何の躊躇いもなく切った。

***

絶望の未来とはよく言ったもので、まさに世は絶望と表す以外に他無かった。大陸のどこにいても、空を見上げれば巨大な邪竜が悠然と佇み、人々から太陽の恵みを奪い去る。闇の秘術で再び生を与えられた亡者たちは、屍兵となって人間を襲う。食う物もなく、暮らす家も焼き払われ、頼るべき国は滅んで久しい。人間を襲うのは屍兵だけでなく、人がいる場所では必ず略奪や窃盗が絶えなかった。
イーリス王家の生き残りにして、聖王継承者のルキナは、そんな世を憂い、立ち上がらんとする若者の一人だった。志を同じくする仲間を集い、身命を賭して戦う父と母の助けになればと幼心ながらに願う彼女の想いも虚しく、彼女の両親は戦いの最中に命を落とした。
王を失い、騒然となったイーリスが、それでも曲がりなりにも国として体裁を保っていたのは、前聖王にしてルキナの父クロムが残した自警団の活躍があったからだろう。王妹リズが臨時で聖王代理となって希望を説き、自警団の面々が際限なく現れる屍兵から人々を守った。

しかし、それでもイーリスはじわじわと国力を削がれ、戦士たちは一人、また一人と倒れていく。ついには王都が屍兵により陥落し、イーリスは滅亡の憂き目をみたのである。
戦いに親を失ったのは、彼女だけではない。集った若者たち全員が、戦乱で親を失っていた。彼らは自警団の戦士の子供たちだ。今は亡き両親の背中を追ってここまで生きてきた。

集ったのは、僅かに12名。否、よく生き延びたというべきか。そもそも城を出た時、既に20名足らずの集団であった。

逃げ延びた集落の納屋の中で、しかし彼らは安堵などしなかった。彼らの中に流れる英傑の血が、敗走を良しとしなかったのだ。絶望の跋扈する世界で、若い世代の彼らは希望を見失いはしなかった。

「王都を奪還します」

国宝ファルシオンを苦もなく腰に提げ、小屋の中央に置かれた粗末な台の上にルキナはイーリスの地図を広げた。ロラン、セレナがそれを覗き込み、部屋の隅でシャンブレーが「絶滅するぅ」と震えている。

「12人で?出来るかしら…」

珍しく弱気なデジェルとは対照的に、いいえとンンが答える。

「相手は思考力を持たない屍兵。十分勝機はあるのです。…ただ、それでもし勝てたとして、次はどうするですか。ギムレーがいる限り、屍兵は消えないのです」

一番幼く見える少女が、しかし落ち着いた口調で言う。それも最もな話で、勿論そのことに考えの至らないルキナではなかったが、しかし彼女には返す言葉がなかった。
ギムレーは、強大で、凶悪で、人知を超えた存在だった。唯一ギムレーを封じることが出来たという神竜ナーガの牙より作られたファルシオンだが、遥か上空に浮くギムレーにこの剣が届くはずもない。例えそれが地上に降りたとて、その巨体にちっぽけな一振りの剣が効くかどうか怪しいものだ。
ルキナ自身、王都奪還が気休めに過ぎないと自覚している。

「まぁ、でも。やらないよりはやった方が断然いいでしょ」

底抜けに明るい声でそう言ったのはアズール、ルキナの弟である。彼は、しかし言葉とは裏腹に、今にも泣きそうな笑みを浮かべた。

「こうしてる間にも、国中で屍兵が暴れてる…何かしないではいれないよ」
「…私たちが目指す先に、何か解決策があるって信じよう?そうじゃなきゃ…あたし立ち止まっちゃいそうだよ…!」

アズールの言葉をシンシアが継ぎ、彼らは再び黙り込んだ。希望など、吹けば飛ぶような微かなものでしかない。或いは、蜃気楼のなせる幻覚なのかもしれない。しかしそんなことはどうでもいいのだ。彼らは走り続ける理由が欲しかった。

長い沈黙の後に、徐にルキナがファルシオンを鞘から抜き放った。燐光の照る刀身は、神秘的で美しい。彼女は何を思ったか、背中まで付く長い髪をがしと掴み、ファルシオンをあてがった。

そして、冒頭の発言に至る。

「私は、聖王の名を捨てます」

***

「な…なななんてことしてんのよルキナ!」

悲鳴を上げたのはセレナである。そのほかの者も開いた口が塞がらない様子で、ルキナの手からはらはらと散る蒼髪と、ざっくりと髪を切って少年のような風貌になったルキナとを見比べた。
ブレディがわたわたと歩み出る。

「る、ルキナ。とりあえず落ち着け。ファルシオンを下ろすんだ。…な?」
「ブレディ、私は落ち着いていますよ」

とりあえずファルシオンを鞘に収めたルキナは、一向に取り乱した様子もなく頷く。どこが、と反駁しかけたブレディをジェロームが制した。

「…とにかく、説明してくれるか。ルキナ」
「――イーリスは、続けざまに聖王を失い、そして滅亡しました」

答えるルキナの聖痕が刻まれた瞳は、悲しみを堪えるように揺れる。先代の聖王クロムが、仲間の裏切りに遭い非業の最期を遂げ、先々代聖王エメリナがペレジアに暗殺され、そして聖王代理のリズまでもが、屍兵との戦いの中で命を落とした。

「聖王の名は、民に悲しみを想起させるでしょう。しかし我々は、――誇り高きイーリス自警団の子供である我々は、希望の象徴であらねばならない!」

ルキナの叫びが、納屋を震わせた。彼女は、王家の人間だ。人の上に立つべく育てられ、その責任の重さを理解していた。
ルキナは俯く。再度彼女が顔を上げた時、そこには凛とした王の気品だけが漂っていた。

「加えて、今や聖王ルキナは一番の賞金首。蒼い長髪の女、なんて分かりやすい見た目で彷徨いたら、余計な敵を呼び寄せかねません。ならば私は、男になりましょう」

そこでようやく彼らはルキナの奇行の真意を悟る。
正体を隠す為に、男装して過ごそうというのだ、このお転婆姫は。無論、見る人が見ればその容姿と携えた剣でルキナと割れるだろうが、少なくとも暫くは、成り上がり目的の山賊に目を付けられることはない。

はぁ、と溜め息を吐いたのはウード。その声に皆が振り返る。ウードは苦笑し、肩を竦めた。

「昔からルキナは、こうと決めたら曲げないからな」
「…そうですね」

従姉の足元に散らばる蒼髪を見下ろし、ウードは残念そうに再度溜め息を吐いた。
――美しい髪だった。よく似合っていたのに。

「…だが、ただの義勇兵が立ち上がったところで、民の期待が集まるとは思えんぞ。聖王がその御旗に立てば、民の支持も得られると思ってたんだが」
「…あの、だったら…こんなのはどうかしら…?」

今にも消え入りそうな声を上げたのは、弓兵のノワールである。彼女は皆の視線を浴びてやや後ずさったが、それでも言葉を途切れさせはしなかった。

「聖王さまが駄目なら…ルキナ、あなたは英雄王さまの名を借りたらどう…?きっと、絶望にある人たちも…英雄王さまの名を聞けば…元気になると思うわ」
「確かに、ノワールの言には一理あります」

メガネを押し上げながらロランが賛同する。一同の中では最も年少な彼だったが、今更そんなことで彼を侮る者はいない。

「サーガに語られる英雄王マルスの名を借りるのも、求心力の点では良いかもしれません。…もしかすると、聖王より今の時代なら支持を得られるかもしれませんね」
「お、おいロラン…」
「いいんですよ、ブレディ。…人々の心は、もはや神話に縋るしかない程に追い詰められているのですから…」

ルキナの手前、聖王と英雄王を引き合いに出すロランをブレディが諫めるが、当の彼女は淡々とその事実を認める。彼女は暫し目を閉じ、愛刀の柄を撫で悠久の過去に思いを馳せた。
英雄王マルス。その稀有なる才で幾度となく世界を滅亡の危機から救い、ついには大陸の覇者とまでなった英雄の中の王。ルキナの遠い祖先であり、このファルシオンを英雄王も握ったという。
後の世の人々は、マルスの名に希望を見出す。彼は勝利の体現。不可能を可能にする男だった。
――そう、今まさに、ルキナたちは不可能な事柄を成し得ようともがいている。験担ぎ、とでもいえばいいのか。彼らもまた、大陸中で救いを求める民たちと同様、藁にも縋る思いだったのだ。

「…分かりました。今日から、私の――いや、“僕”の、ですね。僕の名前はマルス。英雄王、マルス…」

その名を口にした瞬間、ルキナの中で得体の知れない安堵感が広がった。それはルキナに限らず、この場にいた子供たち全員も同じだった。
状況は何一つ変わってはいない。しかし、英雄王の名が彼らを鼓舞し、包み込んだ。ほんの一瞬とはいえ、彼らはその名に希望の光を確かに見て、絶望を克服したのだ。

「…戦おう、みんな。僕たちが諦めなければ、終わりじゃない!」

珍しく笑みのないアズールが、真剣な表情で囁く。或いは、それは自身に言い聞かせるようでもあったが、仲間たちからは無言の力強い頷きが返り、シャンブレーでさえその時ばかりは立ち上がった。

「俺も…俺も戦うよ…!タグエルの誇りにかけて」

常に弱腰な彼も、とうとう覚悟を決めたらしい。ルキナは頷き、暗がりでも燦然と光るファルシオンを抜き、頭上に掲げた。

「いざ、王都へ!」

[ 22/143 ]

[*prev] [next#]


[←main]



「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -