日記51(ガノマル)

怒声や野次が飛び交い、人々の床を踏みしめる音が地鳴りのように響く。周りからは武器の擦れる金属の悲鳴が聞こえ、どこか遠くでは猛獣が飢えたように低く吠えた。

反吐が出るような不潔な空間だった。奴隷たちがすし詰めにされた小部屋は息苦しく、埃にまみれて、様々な悪臭を放つ。

鉄格子の内側でそんな喧騒の中に身をおいていると、しかし不思議と気分は落ち着いた。在るべき場所に自分が帰って来たのだとさえ思った。

闘技場。
人の命に金を賭ける賭博場だ。大方そこで戦う剣闘士たちは使い捨てで、闘いに敗れればごみのように捨てられる。そして代わりの剣闘士が駆り出されるのだ――今の僕のような奴隷の中から。

「出番だ。来い」

鉄格子の扉の前にいる門番が僕を呼ぶ。一際闘技場内の喧騒が激しくなった。先より獣の咆哮が近い。
僕は支給された鉄の剣を腰に差し、木製の盾と槍を装備して開け放たれた門扉をくぐり抜けた。

***

「マルスがもう5日も帰って来ていません」

深刻そうな顔をしてリンクが言った。それを聞くのはロイ、マリオ、フォックス、そしてガノンドロフである。ロイがリンク同様不安げに続けた。

「何か事件にでも巻き込まれたのか?」
「…しかしマルスのことだからな、大人しく巻き込まれてるだけってのも想像しにくい」

ロイの言葉を受け、フォックスも思案顔である。口を閉ざしたままのガノンドロフとマリオを見、リンクは言った。

「何かしらあったのだと思います。…探しに行くので、手伝ってもらえると助かるのですが」
「……」

リンクの申し出にマリオは深刻そうに頷いた。が、ガノンドロフは無反応で、それはそれで普段通りの反応な訳だが、リンクは怪訝そうに魔王を見た。魔王は黙して答えない。
リンクは眉間に皺を寄せて言った。

「…貴方、何か知ってますね?」

え、と魔王以外の面々が瞠目する。魔王は面倒臭そうに顔をしかめ、吐き捨てるように言った。

「帰りたくなれば帰ってくるだろう。あの男は放っておけ」

***

鉄格子の扉をくぐり抜けると、そこは埃っぽい円形の砂場である。それを囲むように観覧席が階段状に聳え立つ。今日もそこは満員の客で満たされ、汚らしい罵声や卑猥な悪態が飛び交っていた。

前を見ると、厳つい甲冑を身に纏った大男が鉞を担いでにやにやとこちらを見ている。今回の僕の相手はこいつだ。
僕はぼんやりとその男を眺めた。その間にも観客たちは、闘技場にいる僕らに罵声を浴びせかけるのを忘れない。どちらかといえば相手方を鼓舞する声が大きく、次いで僕を貶す声が耳に届いた。
観覧席の中でも貴賓用に一段高く設けられた席に座る男が、開始の合図として振り上げた手を下ろす。同時か、或いはそれより早く、相手の男が鉞を振り上げ、雄叫びを上げながらこちらへ猛進してきた。

僕が持つのは槍、相手の斧とは相性が悪い。ならば剣に持ち替えればいいのだが、そこまでしてやるほどの価値がある相手とは思えない。
突進してきた男をかわし、槍を構えながら背後に回る。それに気付いた男がそうはさせまいと身を翻し、今度は下段から斧を振り上げた。上体を反らしてそれをかわし、左腕に持った盾で斧を弾き飛ばす。男はあっけなく斧を手放し、よろめいて自身の腕を押さえた。

思わず失笑が洩れた。

「それで何人殺した?」

挑発するように男に問うと、男は歯を剥き出してこちらを威嚇し、よたよたと覚束無い足取りで得物を取りに走る。
闘技場の奴隷たちは、社会から弾き出されたならず者ばかりだ。ろくな戦闘訓練も受けていないし、故に弱者を狩ることしか彼らは知らない。

浅ましいものばかりが見えた。醜いものばかりが見えた。
そして、その中にあって、自分も卑しく嘆かわしい存在であると自覚することで、僕はいくばくか安堵出来るのだ。

槍を構えた。再び男が向かってくる。直線的で技巧も何もないその攻撃をかわし、構えた槍を前に突き出す。過たず甲冑の隙間に穂先をねじ込み、相手の突進の勢いを利用して肉を貫く。

男の口から断末魔の息が漏れる。握った槍を鮮血が滴る。力を失いつつある男の腹に足をかけ、槍を思い切り抜き取った。

闘技場がどよめきと怒号に包まれる。闘技場お抱えの戦士が倒されたのだ。賭に負けた者も多かろう。怒りに顔を歪め、場内にごみやらを投げ込む観客も大勢いた。それを止めようと闘技場の支配人や関係者が躍起になっている様は実に滑稽だった。
観客を見渡すと、それはそれは大勢の人間が私利私欲の為に怒り、吠え、他人のことなど眼中になしと言わんばかりに互いを押し合いへし合い、まるでこの世の縮図を見ている気分になった。
それが堪らなく可笑しく、僕は久々に腹の底から声を上げて笑った。

「面白いか」

静かな声が僕に問うた。このような場所で聞くはずのない――否、このような場所だからこそいたのであろう――声の主を見上げる。観衆の叫びに掻き消されてもおかしくない呟きは、しかし僕の耳にしかと届き、その声の主は僕を見据えて首を傾げた。
魔王ガノンドロフが、鷹のような眼でこちらを見下ろしていた。

「“世界”に飽いたか」
「…ふふ」

笑って答える。魔王の機嫌が悪くなったのが分かったが、僕はあえて魔王の神経を逆撫でるように振る舞った。

「僕のこと、軽蔑したかい?」

視界の端に、奴隷の買い付け商人が雇った破落戸共がこちらに駆けてくるのが見えた。いつまでも引っ込まない僕を連れ戻しに来たのだろう。
魔王の返答は期待しなかった。面倒事を嫌う彼のことだ。黙して答えないだろう――。

「ふむ…いい金蔓にはなるな」

存外早く、魔王は返事を寄越した。返事があったこと自体と、また全く予想外の内容に、僕は唖然と魔王を見上げる。魔王はさっさと踵を返し、換金所の方へと歩いていった。



ちゃっかり僕に賭けてやがった。

なんだか酷く体の力が抜けていく気がした。

***

賭博は、数少ない娯楽の一つである。
無法者である自分にとって、それが法に抵触するか否かなど問題であるはずもない。闘技場は、その中でもよく足を運ぶ場所だった。

どこぞから連れてこられた奴隷が、僅かばかりの金の為に、自由を奪われ、命さえも奪われ、私欲にまみれた観客の一瞬の興奮の為だけに戦う。
技巧も何もなく、ただ生き延びる為に殺し合う剣闘士を眺めるのはいい暇潰しになったし、それを囃し立てる観客たちが醜く喚き散らす様は実に愉快であった。

世界は腐っている。
そう改めて確信させてくれる、この空間が気に入っていた。

そこに妙な男が紛れ込んでいた。剣闘士として現れた男は、貴族然とした普段の格好からは想像もつかぬ汚らしい襤褸に身を包み、穢らわしい奴隷の中にあって、しかしどこか満足げだ。
相手を殺し、観客たちの罵倒を聞き、男は腹を抱えて笑った。それを見て、嗚呼、この男もまた自分と同じ理由でこの場所にいるのだと気がついた。

常に確認せねば気が済まぬのだ。世界の醜悪さを、人間の愚かさを、そして自分自身にそれらが根強く存在することを。
この世界は平和だった。それこそ世界は美しいと感じるほどに。
人々は実直であった。彼らが仲間であると錯覚するほどに。

戻って来いと言ったところで素直に聞く男でもなし、そもそもそんなことを言ってやる義理もない。
軽蔑したかと聞かれたので、ただ金蔓になるとだけ答えた。珍しく、男はぽかんとして俺を見上げていた。

***

「色々聞き込んでみたのですが」

翌日、再び件のメンバーを集めてリンクが言った。それで、とロイが身を乗り出した。リンクが続ける。

「どうもマルスは、人買いに連れられていったようです」
「…想像つかないな」

それまでマルスを心配していた風のロイは、しかし真剣に首を傾げる。マリオ、フォックスも大同小異の反応で、リンクだけが淡々と更なる言葉を紡ぐ。

「ええ、私もマルスが大人しく捕まるようなヘマをするとは思いません。なら、きっとマルスは望んで付いていったのでしょう」
「なんでだ?人買いに付いていくなんて、正気の沙汰じゃない」

マリオが言う。リンクは押し黙ったが、代わりにロイが繋いだ。

「…闘技場」
「は?」
「闘技場に、奴隷剣闘士として売られたんだ。だから、帰ってこない」
「どういうことです?」
リンクが首を傾げる。ロイは眉尻を下げ、困ったように唸った。

「闘技場は、俺たちにとっていい思い出のある場所じゃないんだよ」
***
続きそうで続かなかった。

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