日記42(紋章)

「…身に余るお言葉。謹んで拝命いたしましょう」

青年は、言って彼女の足元に深く叩頭する。十七になったばかりというまだあどけなさの残る容姿は、しかし続く戦乱の中で確かに鋭く洗練されていた。時々、見ているこちらがぞくりとするような表情をすることもある。
しかし、その男の心が自分にないことを彼女は知っていた。嫉妬心や憎しみはない。同様に、自分にも別に想う男がいるのである。
王女ニーナは、床に額をこすりつけ、頑なに面を上げようとしない若き王子マルスを、複雑な心境で見下ろした。

アカネイア復興の為には、王が必要であった。ところが先の戦乱で王家の者は死に絶え、残るは王女ニーナ一人。ニーナが夫に迎えた者が、戦乱に荒れたアカネイアを導く新王となる。
更なる権力を欲する有力貴族たちがこぞってニーナに言い寄った。しかし、この未曾有の危機に下手な人物を王に据えればアカネイアは崩壊の一途を辿る。困り果てたニーナに、司祭ボアは告げた。先の戦乱の英雄、オレルアン王弟ハーディン、アリティアの王子マルス、そのどちらかを夫に迎えられよ、と。

「貴女はカミュ将軍を愛しておられたのでは」

広く豪奢な調度品の散りばめられた部屋で、長椅子に腰掛けるニーナと、その傍らで立ち尽くす青年が向き合う。憔悴した風の青年が囁くようにニーナに問うと、ニーナは微笑した。

「彼は…死にました。貴方と戦って」

「そうですね」

非難がましくすらあるニーナの言葉に、青年は眉一つ動かさず答えた。

「ニーナ様はそのことを恨んでおいでで?」

「いいえ。けれど、嫉ましくはありました。いつでも愛する方とお会い出来るシーダ姫が」

青年はぴくりと肩を揺らす。少しく怒りを込めた口調で、彼は唸る。

「…シーダへのあてつけと言う訳ですか」

「勿論違いますわ」

白々しくニーナは嘯く。青年は険しい表情でニーナを見下ろした。
ニーナは続けた。

「この未曾有の危機に、アカネイア全土を引っ張って行けるのは、貴方しかいませんわ、マルス様。ハーディンも素晴らしい方だけれど、それでも人並み以上という程度。傑物ではありません」

「…買い被って下さるのは嬉しいのですが」

「事実です」

きっぱりと言い切り、ニーナは微笑む。さながら女神アルテミスの再来である。英雄アンリの子孫である王子は、煮え切らない様子で口を引き結んだ。

「国民はきっと大いに納得するでしょう。かつて大陸を救いながら、愛する女と結ばれなかった英雄アンリが、時を超えてアルテミスと結ばれるのですから。そうでなくても貴方にはカリスマ性がある。その容姿、声、所作…王となるべくして育っただけはありますわ」

「貴女も王家の女としてしたたかに育たれたのですね。これだけ先見の力があれば、アカネイアは安泰でしょう」

「あら、誉めて下さってありがとう」

熾烈な皮肉の応酬が繰り広げられ、とても今し方夫婦の誓いを交わした二人とは思えぬ空気を醸し出す。青年は諦めたように肩を落とし、ニーナの座る長椅子の端に腰を下ろした。ニーナは満足げに笑った。
ふと思い出したようにニーナが青年に問う。

「それにしても、もっと躊躇されるかと思っていました。何故こうも早くご決断なされたのかしら」

楽しげなニーナとは打って変わり、青年は氷の如く冷ややかに言った。

「僕が断れば、貴女はシーダに手を出すでしょう。それが分からないとでも?」

「…ふふふ、私がそんなことをすると?」

「貴女は変わってしまわれた」

まるで仇でも見るような目で妻を睨み据え、青年は言った。ニーナは首を傾げ、にこやかに微笑んだ。

「分かっているのならいいのです。今後、貴方が可愛いシーダ姫に会えることはないとお思いなさい」



「…様、マルス様」

月は一番高い所を過ぎて、夜もますます更けていこうとする頃、アカネイアの王マルスは懐かしい声に目を覚ました。暫く聞いていなかったが、聞き間違えようはずもない。彼は飛び起きて寝台から転がり落ち、声の主の名を囁いた。

「シーダ…シーダ!どこにいる?」

「外に。開けて下さいませ」

マルスは飛んで行ってバルコニーの扉を開け放つ。するとそこには、純白のペガサスと、それに跨るシーダの姿があった。驚きの余り声も出ないマルスに、シーダはペガサスから飛び降りて抱き付いた。

「嗚呼…マルス様!お会いしたかった…ずっと…っ」

「…シーダ?本当に、シーダ…」

恐る恐るといった風にマルスが問う。はい、と面を上げて破顔するシーダを前にして、ようやくマルスは泣き崩れるように彼女を抱き締めた。



「どうしてここに?」

ペガサスとシーダを部屋に引き入れ、扉に鍵をかけ、窓という窓にカーテンを引いてから、寝台の縁に腰を下ろしてマルスを待っていたシーダに尋ねる。シーダは気恥ずかしそうに肩を竦めた。

「どうしてもお会いしたくなって…」

「でも、ニーナは君を監視していると」

愛する少女に会えるのはいいが、それよりもシーダの身の安全の確保が先である。マルスはそわそわと落ち着かない。シーダは大丈夫、と自信に満ちた表情で頷いた。

「真心を込めて話せば、気持ちというのは伝わるものです」

「…それってつまり?」

「監視の為にタリスに来た者たちは懐柔済みです」

悪戯っぽく舌を出してみせるシーダに、マルスは肩透かしを食らったように目を丸くする。彼が脱力しきってへなへなとシーダの隣に腰を下ろすと、シーダは労るように彼の肩を抱いた。

「マルス様、私…」

「シーダ、早くタリスに帰ってくれ」

「え」

てっきり恋人のはにかんだ表情が見れるものと思っていたシーダは、堅いマルスの声にぎょっとする。しどろもどろになりつつ、シーダは言う。

「お…怒っておいでですか?勝手に会いにきたりして…」

今にも泣きそうなシーダを見て、今度はマルスが狼狽えた様子で首を振った。

「あ…嗚呼、違うんだ。君に会えて嬉しくない訳がないだろう。そうじゃなくて、もしこのことがニーナに知れれば、彼女はきっと君を生かしてはおかない」

大きな瞳を潤ませてマルスを見上げるシーダを、マルスは優しく諭す。それでシーダは納得したらしく、むしろマルスが己の身を案じてくれていたことに感じ入った様子で涙ぐんだ。
あまりにも短すぎる逢瀬に、しかし二人は落胆などしない。ただただ別れを惜しみ、お互いの無事を祈る。開け放たれたバルコニーにペガサスを出し、いざその背に乗ろうというときに、シーダはマルスに向き直った。

「もう一度だけ、抱き締めてもらえますか?」

「…帰したくなくなっちゃうじゃないか。おいで」

言ってマルスはシーダを抱き寄せる。暫く見ないうちにまた高くなったマルスの目を見上げ、シーダは微笑む。マルスもまた、柔らかな感触を楽しみつつ、このままずっといられたならば、と叶わない願いに思いを馳せた。――否、叶わぬ夢ではない。

「正直言って、君を連れてどこまでも逃げ切れる自信はあるのだけど」

大陸は広い。二人でならば隠れて暮らすことなど容易いはずだ。英雄マルスとファルコンナイトのシーダが揃えば、追っ手など物の数ではあるまい。或いは海を越えて別の大陸に渡ってしまうのも手である。
シーダはくすくすと笑い、しかし首を横に振った。

「魅力的なお誘いですわ…でも、それではマルス様のお心が救われないでしょう?アカネイア全土の民を、マルス様が放っておけるとは思いませんもの」

「君と民の暮らしを天秤にかけて、僕は君を見捨てた。本当に…すまない」

「謝らないで下さいませ。私はマルス様のそういったところに惚れたのですから」

しなやかな指でマルスの髪を撫でてシーダが囁く。マルスはその手を取って頬を擦り寄せ、心地良さそうに目を閉じた。

「君に悪い男が付かないか心配だよ」

「マルス様以上の殿方なんていやしませんわ」

「…道中気をつけて」

マルスはシーダの紺青の髪を一房手に取り、それに唇を寄せる。うっとりとそれを見つめながら、しかしシーダは名残惜しそうにマルスの腕から離れ、ペガサスに跨る。
それから彼女は一切振り返らず、またマルスも彼女を呼び止めなかった。ただペガサスが夜の帳に消えて久しく、マルスはバルコニーに立ち尽くして島国タリスのある西の空を眺め続けていた。

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