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薄暗い廃屋の黴臭い空気に顔をしかめつつ、ネスは足元に散乱した廃材を慎重に踏み越えた。辺りはしんとして喧噪すら聞こえず、ここが普段から人気のない場所であることがうかがえる。――棲み処とするには申し分ないと思われた。
ひび割れた床を踏みしめる音と、仲間の息遣いさえはっきりと聞きとれる静寂は、それだけ敵に気付かれやすくなる危険性を孕んでいる。それ故、ネスは可能な限り足音を忍ばせていた訳だが、先頭を警戒しながら歩いていたフォックスが片手を上げて一行に制止するよう指示を出したのでネスは慌ててその場で息を潜めた。廃屋の、更に奥、傾きかけた鉄製の扉のその奥に、彼らの探す「それ」はあった。
部屋全体を埋め尽くす巨大な球状のそれは、目玉のような薄気味悪いマーブル模様で覆われて、大きさの差こそあれ彼らのよく知る「蜂の巣」である。
視認できる距離まで近づけば、それまでの静寂もいつの間にやらぶぶぶと翅をこすり合わせる威嚇音へと様変わりしていた。既に相手には気付かれている。ならば遠慮することはない――そう告げるように、フォックスは上げていた腕を真っ直ぐ振り下ろした。
それを合図に、マリオは背負っていたポンプから殺虫剤を噴霧する。今日の為に中身を入れ替えてきたのだ。いまやマリオは配管工でもなくスポーツ選手でもなく、立派な蜂の巣駆除業者である。とはいえ、殺虫剤が即座に効いてくるわけではない。その動きが鈍ったとて、巣穴から這い出してくる巨大なハチたちはいまだ活動の余力を十分残しているように見えた。既に巣穴から飛び出して襲い掛かってくる尖兵たちは、殺虫剤を逃れた個体であるらしかった。しかし、それも計算通り。単騎で向ってくる分には、トワ、マルス、フォックスがそれぞれ迎え撃つことができる。
こうして、目まぐるしく変わる状況をただ傍観しているネスの仕事は、彼らに守られながら、必殺の一撃を叩き込むことだった。
ネスは、その隣で同じく守られ役に徹しているルフレを見上げる。彼は戦況の一切を見ることなく、片手で開いた魔導書に意識を集中させて魔力を練り上げていた。それだけ彼が前衛である仲間たちの実力を信頼している証だろう。ふと、そのルフレが顔を上げてネスを見た。彼は人好きのする笑みで首を傾げる。

「待たせてごめんね。僕の準備はもう大丈夫。君はどうかな、ネス」
「うん、平気。いつでもいけるよ」
それなら、とルフレが合図を出すと、それに気付いた仲間たちが一斉に後方へと下がる。今度は無防備に前衛となったネスとルフレに、怒り心頭の巨大なハチの群れが襲い掛かる。ハチはネスよりも大きく、大の大人さえ軽々と抱え上げてしまいそうな強靭な脚と、力強い顎、そしてだらだらと毒液を滴らせながらこちらを狙う尻の先端に光る巨大な針が眼前まで迫っていた。虫がさほど苦手でないネスでさえ、ハチが嫌いになりそうな光景であるが、今はそんなことを言ってはいられない。ネスはかねてから決めてあった通り、ハチの群れをぎりぎりまで引きつけて、引きつけて、そうしてもう避けようがない――というところまで来たときに、渾身の一撃を見舞った。

「PKファイヤー!!」
「ボルガノン!」

襲い来るハチたちの前に、炎の壁が立ちはだかる。それだけにとどまらず、炎の渦は殺到するモンスターを次々と飲み込んで、その巣までもを呑み込もうとした。それは、あわてて炎と巣との間に割り込んだマリオのスーパーマントで跳ね返される。

「こらこら!巣は無傷で回収するって話だろうが!」
「これ以上火力を下げたら、僕たちそれこそ“蜂の巣”だからね」

絶え間なく地獄の業火を召喚し続け、しかし涼しい顔でルフレは答える。事実、炎の中で苦しむハチ型の怪物たちは、炎の勢いさえ弱まればこちらに飛び掛からんと未だ闘志を燃やしているのがネスの目にも明らかだった。
こうなってからは、持久戦である。ネスらの体力が尽き果てるのが先か、ハチたちが死に耐えるのが先か――軍配は、勿論ネスらに上がった。
全ての怪物たちの動きがなくなる頃には、小さな廃屋は蒸し風呂状態で、ネスたちは汗だくになって肩で息をしていた。
それまでフォックスは油断なく耳を前後左右に動かし、周囲を警戒していたが、とうとう最後の一匹が黒焦げになって床に転がった姿を確認すると、ふっと肩の力を抜いて構えていた銃を下ろした。

「とりあえず、戦況は落ち着いた。あとは巣に残って弱ったやつを駆除していこう」

その言葉を聞いて、は、とネスもまた溜息を吐く。ネスに与えられた一番の任務は終わった。あとは消化試合である。残ったハチたちもマリオの殺虫剤をたっぷりと浴びて、もはや虫の息だろうが。ネスの横に並んだマルスが、はははと耳障りのいい声で笑う。

「いやぁ、害虫駆除がこれほどスリリングになるとはね。分からないものだ」
「まったくだ。依頼書にはまるで軒先の蜂の巣のような書き方をしておいて、いざ来てみれば人食いモンスターの駆除とは堪らない」

やれやれと肩を竦めるのはマリオ。その横をずんずん進んで空の蜂の巣を覗くのはトワである。落ち着いたとはいえ、まだハチたちの残る巣穴をいきなり覗き込める勇気には嘆息するしかない。ネスはあとから知ったことだが、トワにとってハチは忌むべき害虫ではなく貴重なタンパク源だから――とのことらしいが、はいそうですかと納得できるほどネスは達観していない。
トワは中の様子を確認し、それから少し残念そうに眉を顰めた。

「…ハチノコがいないな」
「殺虫剤撒いてるからいたとしても食えないぞ」
「……残りを駆除する。引きずり出すぞ」

トワは剣を器用に巣穴に差し込んで、ハチの死骸を取り出していく。そもそも、何故巣の原型を留めて回収するのか――とネスは依頼主に純粋な好奇心から尋ねたが、この魔物の巣は持っているだけで縁起がいいと、観賞用として非常に人気の高い一品らしく、金持ちの道楽だな、とトワは吐き捨てていたが、まぁ依頼ならば受けない理由はない、とフォックス、ルフレの両名が中心となって今回の作戦が立てられたのだった。
巣の方は縁起物だとしても、家主たちは人を含めた大型の哺乳類を捕食する非常に好戦的な生物だった。巣ができていたのは人気のない廃屋だが、少し歩けば人通りのある往来に出るし、事実この人食い蜂に襲われて命を落とした人間もいるそうで、被害は深刻だったといえる。僅かながら、今回の蜂の巣駆除に罪悪感を覚えていたネスはしきりにこれらの被害状況を思い出して、戦う心を奮わせていたという訳だ。

「ぅおッ!?」

そんな最中、突如トワの悲鳴が上がって、彼は巣穴から仰け反るように後ろへ倒れ込んだ。同時に彼の鼻先を掠めて巨大なハチが姿を現す。生き残りがいたのだ。
それは飛び出すやいなや、一直線にネスの方へと向かって尻の針を突き出した。魔物の眷属であるそれが、多少なりとも戦況を読む思考力を有していたかは定かではないが、とにかくこの場で最も小さくか弱いネスを狙ったのは当然の帰結だろう。すっかり油断していたネスはろくに身構えることもできずにただその切っ先を見つめるしかなかった。

「…危ない!」

鋭く叫んでマルスがネスの前に躍り出る。咄嗟の反応にも関わらず、彼の神剣は正確無比に魔物の頭部を刺し貫いていた。しかし、巨大なハチの針は想定以上に射程が長く、頭部を潰されてもなお魔物の身体は動き続けてマルスの腹部に深々とその針を突き立てた。
だが、そこまでだった。ハチの身体はビクビクと痙攣したのち、こてんと床に落ちると丸まって動かなくなっていた。
一瞬の出来事だったが、我に返ったネスは顔を青くして叫んだ。

「マルス!大丈夫!?」
「っ、ぐぅ」

思わずネスがその名を呼ぶと、呼ばれた方は悲鳴をかみ殺してよろめきそうになる足を踏みしめ、振り向いた。

「あ、ああ、大丈夫。かすり傷だよ」

しっかりと腹を押さえているマルスの手の下で、じんわりと服が血を吸って赤く染みていた。更に青ざめそうになるネスの顔を見て、寧ろマルスの方が困った様子で眉尻を下げたが、それを見かねたルフレとトワが横から顔を覗かせて、なんでもなさそうに言った。

「そうそう、僕らの世界じゃこれくらいかすり傷さ」
「一応、医者に診せとくか?すぐそこにいるぞ」

トワがマリオを指さすと、マリオが苦笑しながら駆け寄ってくる。それなら、きっと大丈夫だろう、とネスが僅かに肩の力を抜いたのも束の間、話している間にマルスの顔色はみるみる青ざめていって、それまでの強がりで見せていた笑顔のまま、後ろ向きに倒れて失神した。
再度ネスの悲鳴が上がる。成り行きを見守っていたフォックスが、頭を掻きながらぽつりとつぶやいた。

「…まぁ、ハチだから、そりゃ毒もあるよな」



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