共食い狂想曲
*10
子リンは何処へともなく屋敷の廊下を歩いていた。あの時は流れでマルスと別れてきたが、特に他に用事があった訳でもなく、早い話が手持ちぶさたであったのである。
「珍しいですね、貴方が他人に手を貸すなど」
そこへ唐突にかけられた低い声。聞き慣れたはずのその声は、子リンが一番避けたい人物のものであった。振り返ると、予想通りの遠慮がちな笑顔が彼を迎える。
「…何の用だよ、“僕”」
「おやおや、分かっているくせにシラを切るおつもりで、“私”?」
そこにいたのはリンクであった。普段滅多に出会うことのない――会ってもお互いに干渉することのない二人であるが、この時は何故かリンクの方から話しかけたのだった。
しかしリンクの言う通り、子リンは何故リンクが自分に話しかけてきたのか大体予想出来ていた。
「…これは僕の問題だ。アンタに口出しされるいわれはないよ」
つっけんどんに答える子リンに、リンクは僅かに肩をすくめた。そんなことは分かっている、とでも言いたげな様子に子リンは首を傾げる。リンクは碧の双眸を細めて笑うと「元より貴方がどうしようと口出しする気はありません」と答えた。
「ただ二言三言、貴方に伝えておこうと思いましてね」
「…下らないことだったら殴る」
「過去の自分を貶めても何にもなりませんよ。…まぁ、貴方も分かっていることだとは思いますが」
リンクは一度呼吸を置いた。
「誰も貴方を拒絶したりはしない」
「…なん…」
「――少なくとも、この屋敷の住人はね」
悪戯っぽく最後に付け足すと、リンクは子リンに背を向けた。彼としても長らく子リンと時を過ごす気はないようである。
その背を見上げながら、子リンは唇を噛んだ。悔しくて、もどかしくて、それでいて安堵して、そんな自分にまた自己嫌悪する。
「…やっぱり自分に隠し事は出来ないってことか」
諦めたようにぽつりと呟き、子リンはリンクと反対方向に歩き出した。
結局その日は夜になっても雨は止まなかった。夕食の席に着いても子供たちは幽霊屋敷での出来事を一切語らず、また他のメンバーもそんな子供たちの挙動にさしたる疑問を挟まず時を過ごした。子供たちも初めは大きな衝撃に放心していたが、ようやく温かな部屋と温かな食事に囲まれて、そんなことは忘却の彼方に押しやったのであった。
ネス自身、彼が自室のベッドに潜り込むまで自分は恐怖とは無縁であると信じてやまなかった。しかしいざベッドに入ると一層強まる雨がばたばたと窓を叩く音に妙に目が冴え、一向に眠る気になれない。何度も寝返りを打ち、雨音から逃れるように布団を頭から被るもそれはほとんど意味をなさなかった。
そうだ――羊を数えよう。気休めだって構わない。何かを考えなければならないならば、このいいしれない不安もしばし忘れることが出来るだろう。
そんなネスの努力の甲斐あって、ようやく彼がとろとろと浅くまどろみ始めた頃に、それは起こった。
カタカタ。
飛び起きる。枕元の明かりをともす。沈黙。辺りを見渡すも、部屋には自分以外誰もいない。
が、絶対に何か物音がした。ネスはそれが自分の思い過ごしや気のせいでないことを確信していた。激しく動悸がする。勿論その事実に一気に眠気は吹き飛んだ。
だがそれ以降いくら待てども待てども、不可解な現象は一切起こらない。先程までは強く確信していたものも、やはり疲れているせいなのかと自信をなくす。おかしいと首を傾げつつ、しかし適切な処置も思い浮かばず再び枕に頭を沈め、天井を見上げる。
そして気付いた。
この異変の正体に。
ネスが見上げた先に、物理的法則を無視して浮遊する少年の暗い瞳があった。青白い肌の少年は、既にこの世の住人にあらず、淀み窪んだ瞳でネスの瞳を覗き込む。
マーティンである。
思わずネスは叫び声を上げた――否、上げようとした。しかし彼は声を出すことはおろかまばたきすら出来なかった。身体がぴくりとも動かないのだ。激しく動揺しながら、ネスは妙に冷静に、金縛りにあったのだと認識した。
「逃がさないよ」
その暗い瞳を細め、少年は口の端を吊り上げる。徐々に高度を下げ、ベッドに横たわるネスに覆い被さる。ネスは何とか逃げ出そうと全身全霊を注いだが、無防備に少年の暗い瞳を見続けるしかなかった。
「もう…逃がさない。ずっと待ってたんだ…長い間…やっと…」
急な寒気が襲う。同時に吐き気がした。もう手が届く距離に彼はいる。はるか遠いところにいると思っていたのに、まさかこんなところまで追ってきていたとは。嗚呼、彼の瞳に怯えた自分の姿が映る。これでは僕は彼に――。
しかしふと暗い瞳は揺らいだ。何かに気付いたように顔をしかめ、次の瞬間後方に飛び退る。その残像を追うように飛来した金色の光を、ネスは動けない身体のままに見た。
「ネスに手を出すな!」
短い怒号と共に緑衣の少年がクローゼットの中から飛び出した。唐突に金縛りから解放されたネスは声のした方を見やる。そこには弓を構えた子リンと、長い手足を無理矢理クローゼットに押し込んだせいで脱出に苦労していたマルスがいた。いつからそんなところにいたのだと疑問が沸いたが、それも苦々しげなマーティンの溜め息によって消し飛ぶ。マーティンは己に向かって放たれた矢が突き刺さった柱を見つめていた。
「…聖なる矢…僕たち“魔”にとって致命的という訳だ」
「そうだね、おまけにここは僕たちのホームグラウンドだから…ね!」
子リンが最後の一言と同時に弓に三本の矢をつがえ、一度に放つ。それに触れる前にマーティンはもやのように掻き消え、光の矢は幾多の筋を残しながら空を切った。
そして訪れる完全な静寂。少し遅れてマルスがどさりとクローゼットの上層部から落ちた。
「逃げたか」
悔しげに舌打ちし、弓をしまう子リン。それからベッドに蹲るネスの元に駆け寄った。その顔にもう緊張の色はない。
「大丈夫?具合悪くない?」
「まぁ、何とか…って、今の何!?どうしてマーティンがこんなところまで…」
突然今までの緊張が蒸し返したようで、ネスは不安げに尋ねる。子リンは曖昧に笑って「落ち着いて聞いて」とネスの肩に手を置いた。
「彼…マーティン君って言うんだ?…アレね、かなりヤバい上級霊なんだ」
「そういえば…他の幽霊を従えてるカンジだったかも…でも、なんで僕のところに」
「うー…ん、言いにくいんだけど」
微妙な反応の子リンに「話して」とせがむネス。子リンはそれならとばかりに短く答えた。
「君、魂半分食べられてるよ」
…間。
「早く取り返さないと残り半分も消滅しちゃうね」
…再び間。
「…ぅえええぇぇぇ!?」
時計の針は夜中の三時を指している。あらん限りの声で叫ぶ少年の悲鳴は、しかし窓を叩く雨の音に掻き消された。
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