ようこそ、世界へ

*29

転送装置からよろめき出たマルスは、自分の足に躓いて無様に膝から転げ落ちた。しかし落ちた先は既に祖国アリティア。柔らかな土の積もる明るい森に、しばしマルスは目を瞬かせた。その目は確かに木漏れ日を認識していたし、豊かな緑を映していた。
目が見えている。
しかし、マルスの胸中に溢れたのは安堵でも喜びでもない。ただただ焦燥感が募る。背後の転送装置から、今に仲間たちがやってきて追い付くだろう。仲間たちのことは大好きだし、疎ましいとは思わない。けれど、今はどんな顔をして会えばいいのか分からない。あれだけ心を許して迎え入れる準備があると伝えてくれた友人たちの制止を振り切って逃げ出してきたのは他ならない自分だ。謝らねばならない。しかし、今はそれができる気がしない…。
目印になるもののない森の中で、しかしマルスは通い慣れた獣道を見つけ出すとそれに沿って歩き出した。目指すは生まれ育ったアリティア城。あの屋敷に帰れない以上、マルスが逃げ込める唯一の場所はそこしかなかった。
街道を通らず、森の中を最短距離で突っ切って、ほどなくしてマルスはアリティア城の門扉をくぐっていた。城の者たちは主の帰還を喜び、その報はすぐさま彼の妻であるシーダへと伝えられる。マルスが城内をいくらも歩かないうちに、息を切らしたシーダが彼を出迎えた。

「マルス様…!」

彼女は酷く困惑した様子でマルスの肩を掴む。城の者たちはマルスの身に振りかかった災難など知らないし、一見明るく振る舞う彼の不調など気付く由もなかったが、シーダはそうではない。尋常ならざる様子で息切って帰ってきたマルスの顔を見るや、彼女はその手を引いて踵を返した。

「長旅でお疲れでしょう、どうぞお部屋へ」

暗に人払いをせよと城の者に聞こえるようにそう告げて、シーダはそれ以上何も言わずマルスを伴って早足に彼の自室へと向かった。

「どうされたのですか、何かあったのですか」

部屋に入るなり、シーダは酷く心配そうな表情を隠そうともせずそう尋ねた。マルスもまた、今にも泣きそうな顔でシーダの腕に縋り、おろおろと目を泳がせた。

「僕にも、分からない。僕はどうすべきだったのだろう?何が正しかったのだろう?分からない、分からないよ、シーダ!」
「マルス様…」

あやすようにマルスの背中を撫でさすり、シーダは穏やかな声で問う。

「ご友人と何かあったのですか?」

マルスは答えず、ただシーダの腕の中でこくりと頷いた。相当堪えている様子だ、とシーダは思う。大概のことはのらりくらりとはぐらかして切り抜けてくる温厚な王が、友人と不和になることなどそもそも考えられないことだし、それを理由にシーダの元まで逃げ帰ってくることもあり得ないことだ。そもそも、シーダの知るマルスの友人は、彼をここまで追い詰めるような酷いことをしないだろう。人を見る目は確かな方だと自負しているシーダである。この確信は疑わない。

「シーダに教えてくださいませ」

囁くように懇願すると、マルスはようやくシーダに縋る腕の力を抜いて、視線だけは彼女の爪先を見ながら言った。

「我儘を…」
「はい」
「我儘を言っていいと。なりたい僕になればいいと。英雄王でいてもいなくてもいいと…」
「まぁ」
「皆の望む僕が、僕のなりたい姿だ。でも、彼らは、僕の好きにしたらいいと。僕はどうしたらいい?」

マルスが心底困り果てた様子でシーダを見上げるので、シーダもこれは深刻そうな顔をせねばならないと思ったが、しかしどうしてもその頬は緩んでしまう。拍子抜けというか安堵というか、そうしてどこか腑に落ちる。なるほど、あの友人たちにしてみれば当然の帰結。それだけこの王が愛されていることの証左。
シーダは緩む口元を引き結ぼうと一度は頬に力を入れたが、結局それも諦めて小さく微笑んだ。そうして渇き切った目で今にも泣きそうな顔をしているマルスの髪を撫でるように梳く。

「…このように、頼り縋って差し上げればよいのです」

きっと彼らもそれを望んでいるだろうから。

「本当は、マルス様ももう分かっていらっしゃるんでしょう?でも、貴方は人に頼るのが少し下手ですから、動揺してしまっただけ」
「……」

マルスは眉尻を下げてシーダを見返す。ひとつずつシーダの言葉を噛み砕いて咀嚼するように、彼は何度か頷いた。王という立場故に、向けられる親切や敬意には慣れている王子である。しかし、同時にマルス個人に向けられる好意や優しさにはひどく対応が下手くそである。
落ち着いた頃合いを見計らって、シーダは敢えてもう一度尋ねた。

「落ち着きましたか?」
「ああ。…しかし、どうしよう。こんな情けない姿を見せて、どんな顔をして彼らの下に帰ればいいだろう?」

依然、困り顔のままのマルスではあるが、そこには先ほどまでの動揺はない。そうして、彼の気持ちは既にかの地へと向いている。それを嬉しく思うと同時にどこか寂しく感じながら、シーダは微笑んだ。

「待っていればよろしいかと。あのご友人たちでしたら、間もなくマルス様を迎えにきてくださるでしょうから」

*
ほどなくして、シーダの予想通りアリティア城の門扉を叩く者が「マルスを迎えにきた」と礼儀正しく告げてきた、との知らせがマルスの自室にもたらされた。出迎える踏ん切りが付かないでいるらしいマルスを見かねたシーダが、彼らをこの部屋まで通すように伝えると、しばらくして二人の騎士に付き添われてマルスの友人二人が姿を現す。一人は以前もここへ来たアイクという青年で、もう一人はシーダの知らない赤毛の少年だ。アイクが短くシーダを紹介すると、少年は畏まった様子で姿勢を正した。

「では、貴方がシーダ姫!お話は伺っております、僕はフェレ家嫡子のロイと申します、突然の来訪まことに申し訳なく…」
「そういうのはいい」

しかし、彼の礼儀正しい挨拶をアイクが遮る。彼は早く本題に入りたいのだろう。遮られたロイは落ち着いた口調から一転して「それを決めるのはマルスかシーダ姫であってお前じゃないだろ!!」と烈火のごとく怒ったが、マルスが慌てて「大丈夫だよ」と口を挟むと渋々といった様子で引き下がった。なんとなく、普段からこういった関係性なのだろうという印象をシーダに与えるには十分なやり取りだったらしく、彼女もまた彼らの小さな口論に不安を見せるようなことはなかった。
僅かに流れる沈黙を、即座に破ったのはアイクであった。

「すまなかった」

彼の謝罪は、シーダに向けられたものである。はてな、と首を傾げるシーダに、アイクは続ける。

「必ず守ると約束したのに、結局マルスがあんたを頼るような状況を作ってしまった」

次いで、アイクはマルスを見据える。怒っているのかそうでないのか、判別の付きづらい薄い表情の彼にマルスは狼狽えた様子で後ずさったが、それでも真っ直ぐな視線を逸らさない。

「マルス、俺たちのところに帰って来て欲しい」
「今じゃなくてもいいんだ。マルスが帰りたいと思ったその時に」
「俺は今すぐ連れて帰りたい」
「お前なぁ!話がややこしくなるだろ!」

ロイもまた、マルスに向けて帰還を待ち望む言葉を投げかけるが、それに反発するようなアイクの言にロイは噛み付かんばかりに吼える。その様子に思わずシーダが吹き出すと、我に返った様子のアイクとロイが顔を見合わせて居住まいを正した。シーダは自身の後ろに隠れるように立つマルスの手を引き、そんな彼らの方へと押し出しながら、シーダは言った。

「どうぞ、お連れくださいませ。マルス様もあなたたちと帰りたいと先ほどおっしゃっておりました」
「し、シーダ」
「正直に申しますと、少し嬉しいのです」

縋るように振り返るマルスの手を敢えて取らず、シーダは背中の後ろで手を組んだ。

「アイク様、ロイ様、ネスにムジュ…マルス様の新しいご友人はどなたもお優しい方ばかりで、身分に囚われない理解者に囲まれて、マルス様のお心はすっかりそちらの世界にあるのだと思っておりました」

こちらの世界が、いかにマルスにとって辛辣で過酷なものであったか、間近で見てきたシーダである。それ故に、彼が幸せに暮らせる世界があるなら、そちらの世界で幸せに生きてくれればこれ以上嬉しいことはない、そう思っている。それは間違いない。

「でも、マルス様は最後にここに逃げてきてくださった。私の心も、マルス様の世界の一部として、あなたがたと同じようにマルス様のおそばにあれるのだと。それが分かって、私は幸せです」
「シーダ」
「マルス様、お帰りください。そして、またいつでもこちらへいらしてください。シーダはいつでもこの城で待っております」

シーダが恭しく頭を下げる。既にマルスが帰るべきはこの城ではなく、彼の世界も、彼の未来も、この泡沫の幻にないことをシーダは知っている。
頭を上げないシーダを見、こちらを見つめるアイクとロイを見、ああ、帰る場所はあちらなのだなと再確認したマルスは脱力したように溜息を吐く。どれだけの遠回りをして、どれだけの人に迷惑をかけただろうか。分かっていたはずの、当然過ぎることに気付くまでに、とても長い時間をかけてしまった。

「…それじゃあ、帰ろうか」

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