ようこそ、世界へ

*22

遠慮がちに、扉を叩く音がする。もしや、彼が戻ってきたのかも、と思わず表情が固くなるのをマルスは自覚した。元々ものが少ない部屋は、同居人がいないとことさら広く感じられる。マルスは溜息を吐いて立ち上がった。

「何を聞いても、僕の気持ちは変わらないんだから。僕にとって一番大事なのは…」
「…マルス…?」
「あれ」

アイクの声ではない。慌ててマルスが扉を押し開くと、戸口にはバツの悪そうな顔をしたロイとトキが立っていた。こわばっていた表情筋が、一気に緩む気がした。

「なんだ、君たちか。怪我の方はどうだった、ロイ?」

ロイの顔は半分近くを白いガーゼが覆っている。痛ましい限りだった。彼はぎこちなく笑って首を振る。

「怪我は、大したことないんだ、本当に…」

そのまま、ロイは押し黙った。言葉の通り、怪我は彼にとって大した問題を与えてはいないようだったが、それ以外のことで彼が――のみならず、トキもが心を痛めているらしいことは明白だった。どうかしたの?とマルスが問うと、二人は目を見合わせてから俯いた。

「その、えっと…部屋、どうしたんですか…?」

言いにくそうにトキが囁く。意図が汲めずに首を傾げると、彼は意を決したようにマルスを見つめた。

「あの人と、相部屋を解消したって」
「…アイクに会ったの?」

知らず、表情が険しくなっていたようで、ロイとトキが狼狽えた様子で言葉を続けるのでマルスはそれを知った。

「ぐ、偶然、この先の廊下ですれ違って、その時に」
「マルスの方から、切り出したって」

おろおろと目を泳がせる友人たちを、マルスは安心させるようにと笑顔を見せる。マルスの感情の変化にとても敏感な彼らに、マルスの不安や焦燥など悟らせてしまえば、いたずらに怯えさせることになりかねないのだから。

「うん、そう。だって、彼、ロイにひどいことしただろう?」
「それは…」

ロイが口ごもる。相部屋の解消の責は自分にあると思っているらしかった。君が心配しているようなことは思っちゃいないさ、とその肩を叩くと、ロイは不安げな表情ながらもしっかりとマルスの目を見据えて言った。

「大丈夫なのか?」

何が――とは、問い返せなかった。一人で大丈夫なのか。友人との仲を切ってしまって大丈夫なのか。お前は、大丈夫なのか。ロイの群青の瞳は確かにそう問うていた。
マルスはもう一度、念を押すように笑みを作った。

「…勿論、大丈夫だとも。最初は一人部屋だったし、元の状態に戻るだけ」

そう、元の状態に戻るだけだ。数々の神話を打ち立てて、救国の王子と褒めそやされたあの頃の英雄王に戻るだけ。誰かに泣いて縋って、情けなく助けを求めることがなくなるだけ。
普段通りに戻るだけ。
この二人を守るためには、それが一番確実なのだ。また、自分を庇って死んでしまったりすることのないよう、誰より近くで見守っていなければならない。彼らを守れる剣でいられるよう、何より強くあらねばならない。それをアイクが思い知らせてくれたのだ。マルスがしっかりしていなければ、彼らにはあっさり凶刃が届くということに。
アイクが何故ロイを殴ったか、マルスはしっかりと理解していた。それがマルスのためだということも、である。しかし、それはとんだお節介だ。アイクはマルスの心の平穏を案じていたが、マルスにとって一番大事なのは自分のことよりロイとトキの安寧なのだ。マルスの身を案じるがためにアイクがロイやトキを傷付けるならば、それはマルスへの敵対行為に他ならない。
アイクには、悪いことをしたと思う。彼はただ、マルスを心配してくれていただけだったのに、彼の気持ちを突っぱねて、部屋から追い出してしまった。でも、それさえも、アイクは理解してくれるだろうとマルスは信じている。亜空で助けにきてくれた時のように、失明で動けないマルスを迎えに来てくれた時のように、彼はいつだってマルスの我儘を聞いてくれるのだから。
それでもまだ心配そうにこちらを見ているロイとトキの顔を見て、自分も笑顔の作り方が下手になったのだな、とぼんやり思う。彼らの心配さえ払拭できないで、英雄王を名乗っているとはお笑い草だ。切り替えなければ、いつものなんでもできる王子に戻らなければ、とマルスはドアノブを握る手に力を込めた。

「…アイクったら、自分の荷物全部置いて出て行っちゃったんだ。ちょっと片付けるから、今日はもういいかな?」
「あ、ああ」
「…お邪魔しました」

暗に一人にして欲しいと言えば、あっさり引き下がってくれる。ああ、よかった、とひとまず安堵して、マルスは朗らかに別れを告げるとそのまま扉を閉めた。

翌朝、マルスがいつもより少し早く起きて朝食のために食堂へ行くと、既に集まっていた面々が身を乗り出して「アイクと喧嘩したんだって?」とマルスを問い質した。熱心にその話を聞きたがったのはピットで、誰かが不幸になれば、その分他の誰かが相対的に幸福になるのだから、これは喜ばしいことだと臆面もなく宣った。

「聞くところによると、アイクさんは赤毛の彼…ロイとも喧嘩をしたそうですね」

ピットは面白がるように未だにガーゼで顔を覆っているロイを見やる。ロイは朝食のスープを口に運びながら、気の無い返事を寄越した。

「…喧嘩じゃない」
「まぁ、なんだっていいんです。あなた方は元々仲が良くなかったし、いつかこうなると思っていました」
「え?」

驚いたように目を丸くするロイからは早々に体の向きを変え、ピットは慈しむようにマルスを見た。

「意外なのは、マルスさん、あなたです。アイクさんがいなくて、あなたは大丈夫なんですか?また、以前のように死にたがったり、僕たちに無関心になられては、多少困るのですけれど」
「ちょっと、あなた、マルスになんてこと言うんですか」

ピットの慇懃無礼な物言いに、トキが立ち上がって唸り声を上げた。おやおや、と肩を竦めるピットだったが、マルスは今にも飛び掛かりそうなトキを諫めた。

「いいんだよ、リンク。本当のことだ。でも、心配には及ばないよ、ピット。僕が死にたがる理由は、ロイたちが帰ってきてもうなくなったんだから」

マルスの返答に、ピットはつまらなさそうに「そうですか」とだけ答える。端の方に腰かけていたトワが、「アイクが報われないな」と呟いたが、それは聞き流してマルスは空いた席に腰を下ろす。そうして、まだ好奇心を損なわずにこちらを見ている面々を見返して、にっこりと微笑んだ。

「さて、もっと僕の話を聞きたい人はいるかな?今でもあの時のことを思い出すと腸が煮えくり返る思いなんだ。それを思い出しながら話をするんだから、それ相応の覚悟はしてもらうつもりだけど」

マルスの方を見ていた面々の表情が凍り付く。意図して放った殺気に反応してか、小刻みにコップの中の液面が揺れていた。特にロイとトキの狼狽え方が凄まじく、それまでピットに怒りさえ向けていたトキが彼の肩を抱いて、震える猫撫で声で「さ、さあピット、一緒に朝食を食べましょう!」と言い出す始末だった。
そう、これでいい、とマルスは自分に言い聞かせる。弱みなんてない、いつでも完璧で威風堂々とした英雄王でいればこそ、この力で大切な仲間たちを守れるのだから。


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