世界よ、愛しています

*45

自棄になったとも、一か八かの賭けに出たとも、感じていなかった。
勝利の確信があった。仲間の支援を信じて疑わなかった。故の行動である。

「…何か見えるのか」

なんとはなしに甲板に残り、鉄柵にもたれて過ぎゆく雲を眺めていると、がやがやと仲間たちの喧騒が離れていったのちに、アイクの静かな声が真横から聞こえた。見れば、アイクも同じように鉄柵に頬杖を付いてマルスをじっと見ていた。

「いや。…ごめんね、僕を待っていてくれたのかい?」
「待っていた。お前は目を離すとどこかに消えてしまいそうだ」

存外真面目な表情でアイクが真っすぐにこちらを見つめる。その視線に怒りにも似たものを感じとって、マルスは肩を竦めた。

「…怒っているのかい?僕が無茶をしたと?」
「違う」

ようやくアイクはバツが悪そうに目を逸らした。珍しく、彼は口ごもるように俯きながら続けた。

「俺の手はいつもお前に届かない。…俺はお前を守れているか?助けて欲しいと言ったお前に、応えられているか?」
「…そんなこと!」

マルスは勢いよくアイクの手を掴んだ。驚いたように目を瞬かせるアイクの前で、その手を固く握って見せる。

「僕がこうして生きていられるのも、君が絶えず僕に手を差し伸べてくれたからだ!僕は君に嫌われても仕方ない態度を取り続けた、なのに君は僕を見捨てなかった!君がいなくては、僕は――…」
「マ、ルス」
「アイク、言わせてくれ。君には本当に感謝している。君がいるから、今の僕がいる。僕はこの世界で生きていられる。…この世界を、愛せる」

祈るように、握った手に額を寄せて、マルスは俯く。
アイクの困惑の表情が、次第に薄れて消えていく。マルスの手を握り返し、ぽつぽつとアイクは口を開いた。

「…お前は…覚えてないだろうが…」

マルスが顔を上げてアイクの表情を窺うと、彼は遠いものを見つめるように目を細めた。

「この世界にお前が来た時のことだ。屋敷の前の丘の、中腹辺りでお前は倒れていた。…俺が最初にマルスを見つけた」

初耳だった。アイクに会ったのは医務室で目が覚めたときが最初だと思っていたし、勿論マルスにはそんな些細なことを確認する心の余裕もなかった。日々はただ苦痛のままに過ぎ、喪失感だけが重くのしかかる。自分のことなど全て二の次だった。ただ、この世界に慣れ親しんだ仲間のいない事実だけが、心中を占めていた。アイクは続ける。

「血を吐いて、全身傷だらけで、俺のことも見えてなかったようだった。だがマルスは…お前は、真っ先に俺に頼んだ。“彼らを助けてくれ”と」
「…彼ら…」
「俺には、お前が言う“彼ら”が誰なのか分からなかった。分かったときには、手遅れだった。俺はお前の願いを聞いてやれなかった」

それは仕方のないことだと、マルスは喉まで出かかった言葉を呑み込む。アイクの様子は普段と明らかに違っていた。横槍を入れられるような雰囲気でない。ただ、その真摯な告白を黙って聞くことしかできなかった。
群青の瞳が真っすぐにマルスを見据える。奥底に蒼炎燃えるその瞳が、一体幾度マルスの本心を見透かし、追い詰め、そして救ってきただろう。
何故、見ず知らずの彼が、そこまで世話を焼いてくれるのか、不思議でなかったと言えば嘘になる。ただ、そこまで深く考えられるほどマルスに心の余裕はなかったし、単にお節介なのかと漠然と思っていた。確かに彼は余計なことに首を突っ込みたがる気質なのだろう。そうしてマルスの心の深淵に触れ、抗いようのない無力感を噛み締め、今までマルスを助けようと――ひいてはマルスが救いたかった世界までもを助けようと――過ごしてきたのかもしれない。

「今度こそ、俺はマルスの願いに応えたい。お前を含め、お前が愛する全てのものを守りたい。俺の手には余る仕事かもしれんが、それでも」
「ど、どうしてそこまで」
「…さぁ…惚れているのかもな、お前に」

マルスの問いに被せるように、アイクが真顔で答える。対するマルスは見事に固まり、続く言葉は何もかも衝撃の為に脳内から弾きだされて消えていった。それでもなんとか平静を装おうと懸命にアイクの様子を観察したが、冗談なのか本気なのか、マルスには判別の付かない態度である。結局、マルスの口からはしどろもどろな上擦った声しか出てこない。

「え、そ、それって、どっ、どういう…意味…」
「それより、いつまでもこんなところにいるな。風邪をひく」
「そ、そうだけど、でも」

アイクに背を押され、マルスは抗議の言葉を呑み込まざるを得ない。仕方なく振り返って操舵室に向かおうと一歩を踏み出すと、しかし想定外の人物―――かどうかは定かでないが――が、行く手を阻んだ。
深緑のローブに全身を包んだ、空飛ぶ円盤に乗る謎の存在。エインシャント卿である。いつからそこにいたのか、それはマルスらの背後で興味深げに二人を観察していた。

「貴様ッ」

即座にアイクがマルスを庇うように体を入れて剣を構える。同様にマルスも剣の柄に手をかけたが、言いようのない違和感にその動きを止める。何も言わずにただ佇んでいるそれからは、何故だか敵意を感じなかった。
とはいえ、エインシャント卿は相変わらずの無機質な声で言った。

「まさカ…本当にこれだけのことを成し遂げてしまうとハ」
「この戦艦を取り返しにでも来たか。一人でのこのこ現れるとは随分舐められたものだな」

視線だけで人を殺しそうな勢いでアイクが唸る。放たれる殺気で彼の群青の髪が逆立つ。しかし、そんな殺気を向けられてなお、エインシャント卿は怯みもしなかった。

「私は貴方たちと争いに来たのではありまセン」
「それじゃあ何を」
「マルスさん、貴方に私と共に来ていただきたク」

エインシャント卿は、僅かに頭を下げるような仕草をして見せた。が、マルスの隣に立つアイクは怒りを突きぬけて脱力してしまったのか、言葉にならない憤りを吐き出すように浅く鼻で笑った。

「争わない代わりに――マルスを差し出せと言うのか?馬鹿にされたものだな」
「マルスさんが心配なラ、アイクさんも是非」
「…馬鹿にしてるのか?」

今にも剣を振りかぶってエインシャント卿に飛びかかりそうなアイクを、マルスは慌てて押しとどめた。

「待って、アイク」
「待てない」
「様子が変だ、話を――」

言い差したマルスの視界の端に、虹色の何かが過ぎる。喉まで出かかったはずの言葉は、声を忘れたように消えてなくなった。
蝶が、飛んでいた。ひらひらと、ゆらめくように、不可思議な色合いに翅を輝かせ、ちょうどエインシャント卿の頭上を旋回するように飛んでいる。
あの、虹色だった。


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