忘却の彼方に

*31

「おやおや、君はいつかの…」

白々しくそんなことを言ってみせるナオフォード。声自体は温かみすら感じられる程だが、その焦茶色の瞳には親しみの色など微塵もなかった。

「もう城での生活には慣れたかね?」

「おかげ様で」

「最近は姫君の身辺警護役に昇進したんだろう?」

「誠に光栄なことに存じます」

「若いのに大変だねぇ」

ナオフォードは最後に声を上げて豪快に笑う。何だか馬鹿にされている気がしてならなかった。
が、ひとしきり笑い終えると、ふと辺りを窺うようにきょろきょろと見渡し、声のトーンを落として私に近付いた。

「時に若き衛兵よ、今日は一日ゼルダ姫の姿が見えなかったが…どこにおいでだったか知らないかね?」

――何と!そんなことを聞く為に私に接近してきたのか。しかし馬鹿にするのも大概にして欲しい。私が姫君の日常生活をどうして口外などしようか。まして今日なんかは城まで抜け出してしまっている――誰にも知られる訳にはいかない。

「公爵にはお教えすることが出来ません」

「――どうしてかな?」

猫撫で声が低く尋ねる。勿論眼は笑っていない。その焦茶の瞳は無言のうちに「公爵たる自分の言うことが聞けないのか」と言っていた。――眼は口ほどに物を言うとは、よく言ったものだ。
しかし私も引き下がるつもりは毛頭ない。

「どうしても、です」

私がそう答えると、薄ら笑いが微かに歪んだ。公爵はそれを誤魔化すように一つ咳払いをし、再び人好きのするような笑みを浮かべて諭すように聞いた。

「妙な意地は張らないことだ…もう一度聞くが、今日ゼルダ姫はどちらへおいでだった?」

「ゼルダ様のお気に召すままに」

「…だから…」

呆れたように溜め息を吐く公爵。生憎だが、私と口喧嘩をしようなど十年早い。

「…質問を変えよう」

ふと調子を変え、公爵は再び笑顔を浮かべた。一方私はだんだんと公爵とのやり取りに嫌気が差してきていた。私は一刻も早くゼルダの元へ向かいたいというのに。

「つい先刻、私の部下が君の姿を王家のみが通行を許可されている通路で見かけたと言っていたんだが…一体君はそこで何をしていた?」

「は――…」

一瞬この男が何を言っているのか分からず沈黙する。その沈黙に公爵はにんまりと口角を吊り上げた。
――迂濶だった!細心の注意を払って城下から王宮へと帰って来たはずだったのに、まさか王家専用の通路を使っているところを見られたとは。

いや、待て。王家専用の通路だというから私は隠れるような配慮もなさずにあの道を通ったのだ。ならば私以外の人間も、あの通路へ足を踏み入れなければ私の姿など確認出来ないはず。また仮に城の内部から遠目に私の姿が見えたとしても、あの暗がりでは(まして鎧も身につけていない状態の私が)誰であるのかなど識別出来まい。

ひとまず動揺する心を落ち着かせ、顔には焦りなど微塵も浮かばせず首を傾げてみせる。

「…全く身に覚えがございません。人違いでは?」

「そうかね?確かに君だと部下は言っていたんだが…」

眼を細めて意地の悪そうな笑みで私を見つめる公爵。早くここを立ち去ってしまいたいが、今逃げれば公爵の言を肯定してしまうことになる。私は唇を噛む思いで、しかし顔には些かの表情も浮かべず公爵を見つめ返した。

「あそこにいたのが君ではないと言うならば、その時君は何処にいたのかね?…もしかして、それも言えないのかね?」

そうきたか。ここで下手な発言をすれば、私は勿論ゼルダにも迷惑がかかる。だがいつまでも黙りこくっている訳にはいかない。そうなれば更に公爵を喜ばせるだけだ。

「それは――」

「リンク!」

何とか言葉を絞り出そうとした刹那、背後から鋭く名を呼ばれて私は飛び上がった。そのしっとりとした低い声は、ツインローバのものだった。
ツインローバは私と向かい合って立つ公爵に軽く会釈した後、ぎろりと私を睨んでから公爵に話しかけた。――どうやら喋るなとのことらしい。

「悪いねぇナオフォード公爵。今日この子は姫さんの警護で忙しいんだ。あんまり構ってやらないでおくれ」

言いながらさりげなく私と公爵の間に立つツインローバ。私は高身長のツインローバの影に隠れる形となった。
しかし公爵も引きはしない。薄ら笑いを浮かべてねっとりとした声で答える。

「いや、しかしだねツインローバ殿。彼は立ち入り禁止の王家専用の通路に立ち入った可能性が…」

ち、と面倒臭そうにツインローバが小さく舌打ちする。仕方がない。公爵の言っていることは紛れもない事実なのだから、突っ込まれたら否定のしようがないのだ。不幸中の幸いは、ゼルダがその場にいたことがバレていないことだ。やはり石コロのお面の効果は絶大だったらしい。
ツインローバは腰に手を当てて「だからねぇ」と続けた。

「…この子がそんなところに行ったって何のメリットもないだろう?第一この子は今日一日片時だって姫さんのそばを離れちゃいないよ」

「本当にそうなんですかねぇ?本人に聞いたところ、口を濁すばっかりできちんと答えてくれないんですが」

コイツ…言わせておけばいい気になって。
思わず口を開きそうになった私は、しかし頭にずっしりと圧力のかかるので喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。次いで聞こえる低い唸り声。

「俺の部下に何の言い掛かりかね、ナオフォード公爵」

突如私の背後に現れたのは、言わずと知れた魔王――ガノンドロフであった。ツインローバも私も「もう帰ったのか」と心中で呟きながら、しかし鷹のような鋭い眼付きで公爵を見下ろすガノンドロフに如何なる言葉もかけられなかった。それは公爵も同様のようで、口の中で「お早いお帰りで…」などと口ごもった後、愛想笑いを浮かべてそそくさとその場を立ち去っていく。その背を見守る間、私たちの誰もが沈黙を破らなかった。

完全に公爵の足音が聞こえなくなってから、ようやくガノンドロフが動いた。私の頭に乗せられた手を握ってから、垂直に私の脳天にげんこつを見舞う。
その衝撃でくらくらしながら恨めしげにガノンドロフを見上げると、ガノンドロフは呆れたように溜め息を漏らした。

「だから…奴には気をつけろと言っただろう」

「――…すみません」

初めは文句の一つも言ってやろうと思っていた私であったが、紅の瞳に睨まれるとそんな気持も萎え、結局魔王の足先を見つめながら謝るに止めておいた。

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