忘却の彼方に
*29
「…顔を上げて下さい」
暫くして、ゼルダが私に向かって言った。その言葉には何の感情もこもらない。まだ怒っているのかと不安に思ったが、見上げた彼女はそういった感情は表していなかった。
「さっきは…勝手なことを言って…すみませんでした」
そんなことを思っていた矢先、ゼルダは私の足元を見ながらぽつりと呟く。至極申し訳なさそうな調子に、私は安堵と共に若干の居心地の悪さを覚えた。
「貴方は私を守る為に戦ってみえたのに…怒っておいでですか?」
「滅相もない!」
ゼルダが今度は遠慮がちに上目遣いに尋ねてくるので、即答した。力強い否定にゼルダは少々唖然としていたが、私は苦笑して続ける。
「実を言うと、あの時は止めて頂けて助かりました」
「…助かる?貴方が?」
「はい」
頷きながら、小さく微笑む。それでもゼルダはまだ腑に落ちないという表情をしていた。
「あの時は完全に理性が無くなっておりまして…無駄に人を殺すところを止めて頂き、ゼルダ様には感謝しております」
「…本当ですか?」
「えぇ」
私がそう答えると、ゼルダは大きく息を吐いた。どうしたのかと不思議に思って首を傾げると、ゼルダは私に微笑みかけた。
「良かった…そう言って頂けてだいぶ気が楽になりました。――私、貴方に嫌われていたらどうしようと思って…」
「そんな――…」
どうして最愛の貴方のことを嫌いになんかなれようか。こんなにも、こんなにも、私は貴方を想ってやまないのに。
思わず喉まで出かかった台詞を何とか呑み込む。しかし代わりに言うべき言葉が見付からず、今は何を言っても彼女への告白になってしまいそうな私の思考回路を憎んだ。
「っ…とりあえず、この者たちの処分をしましょう。発煙筒でも焚いて、人を呼びましょうか」
なんとか全てを言ってしまいたい誘惑を断ち切り、無理矢理話題を変える。そう言って指差したのは、先程私がこてんぱんにのした浪藉者たち。唯一意識のある男も、私に殺されかけた恐怖故か抵抗の意思はなかった。
「そうですわね、いつまでもここにいる訳には…」
「ちょいと待ちな!今は人を呼ぶんじゃないよ」
ゼルダも首肯しかけたその時、低く艶やかな声が頭上に降り注いだ。些か急ぐ風なその聞き覚えのある声に、紺碧の空を振り仰ぐ。そこには箒に跨る独特のシルエットが浮かび上がっていた。
「ツインローバ」
褐色の肌に金色の瞳、年齢を思わせない張りのある肢体がひらりと箒から飛び下りる。体つきの良いインパよりまた幾分背の高いツインローバは、それこそ私が見上げなければならないほどであった。
しかし私は――ひいてはゼルダも――ツインローバの登場には驚きはしなかった。ゲルドの魔導士たる彼女が箒に乗って現れることなどしょっちゅうあるし、大概の奇抜な登場方法は全て実践され尽くしていたのだ。寧ろ驚いたのはそのタイミング。まさか私がゼルダを城下に連れ出したのがバレた…?
しかしツインローバは私には一瞥もくれず、ゼルダの前に立って彼女を眼を覗き込んだ。
「アンタは何にも思い出していないのかい?」
唐突な問いかけにゼルダは訳も分からず首を傾げる。それは私も同様で、ツインローバがどんな答えを期待しているのか皆目検討も付かなかった。
思い出す?ゼルダが?一体何を?
「その様子じゃ、あの水晶はハズレだったみたいだね」
ゼルダが沈黙を守り続けていると、ツインローバは肩を落として溜め息を吐き、そう呟いた。――ますます訳が分からない。水晶がハズレだったと?水晶とは、先程私が壊した赤橙色の物のことであろう。しかし何をもってしてハズレ云々を定めているのだろうか。
説明を求めて見つめた先のツインローバは、私の視線に気付くと「ガノンさんが帰って来たら詳しく話してやるさ」とだけ告げ、どこからともなく取り出した縄(恐らく魔法の賜と思われる)で力なく地に伏す浪藉者たちを縛り上げた。
それからふいと私たちを振り返る。
「何やってんだい、さっさと王宮に戻らなきゃアンタらがいないことがバレちまうよ」
呆れた様子で私を見やる。言わずとも全てを見透かすツインローバに感心しつつ、事の重大さを思い出した私は慌ててゼルダの方へ振り向いた。ゼルダはきょとんとしているが、確かに彼女が長時間失踪したままなのはマズイ。非常にマズイ。
「ゼルダ様!急ぎましょう、王宮までご案内致します!」
「え…あ、リンク!」
私はその場をツインローバに任せ、ゼルダの手を引いて走り出した。ゼルダは動揺の色濃い声を上げるが、しかしおとなしく付いてくる。狭い小道を王宮に向けて遠ざかってゆく中、「いつの間に名前で呼び合うようになったのかねぇ」というツインローバの呟きが風に乗って私の耳に届いた。
「リンク!こっちからでは王宮の入口には入れませんわ。玄関へ行くにはあちらの道を行かないと!」
私に手を引かれながら、ゼルダが叫ぶ。しかしそれには委細構わず私は王宮の裏側へと回る道を選んで駆け抜けた。王宮の裏側は入口らしい入口もなく、白壁の遥か高みに幾つかの窓があるのみである。
「問題ありませんよ」
ふと足を止め、不敵に笑んでみせる。
「玄関から入る気など、毛頭ございませんから」
ゼルダが物問いたげな目線で見上げるのに構わず、フックショットを取り出す。――どこにしまってあったのか、とかいう野暮なことは聞かないで欲しい。
そうして何の前触れもなくゼルダを片手で抱き寄せると、もう片方の手でフックショットの照準を最上階の窓枠に合わせて放った。最上階のその部屋は、ゼルダのものだ。
突然のことにゼルダは一瞬細い悲鳴を上げたが、フックショットが私たちの体を持ち上げて上昇し始めると「すごいですわ!」と歓声を上げ、一層強く私にしがみついたのだった。
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