忘却の彼方に
*24
栗毛色の馬の背に揺られながら、私はのんびりと城から町へ続く坂道を下りていく。今の私は最近着ている騎士の服装ではなく、以前着ていた緑衣の勇者ルックである。白銀の甲冑を身につけるよりも、こちらのほうが何倍も動きやすいし自分の体にしっくりくるものだ。
勿論私は一人で馬に乗っているのではない。同じ馬には、頭からマントを被った彼女――ゼルダが居る。
ゼルダは普段のきらびやかな装飾の一切を外し、おとなしめな色合いのドレスを着ている。城下でならよく見かける服装だ。なおかつ彼女はどこで仕入れたのか、メガネをかけていた。
城下で目立たないようにするための方策であるが、とりあえず門番を越えた辺りで私とゼルダは盛大なため息を吐いた。
「何とか通り越えましたね」
ゼルダがはるか後方に見える門番を振り返る。その顔には悪戯を成し遂げた達成感と、罪悪感とがないまぜになっていた。
「…本当は王家専用の出入口を使えば楽だったんでしょうが…それじゃつまりませんものね」
――前言撤回。彼女には反省の色など微塵もない。しかしそれすら心地よく思わせるゼルダの仕草一つ一つに、私はときめかずにはいられないのだった。
「あ」
その時唐突にゼルダが声を上げた。何か忘れ物でもしたか、と彼女を覗き込むと、彼女は真面目くさった様子で言った。
「私たち、城下で“様”とか“殿”とか付けて呼び合っていたらおかしいですわ。今ここでお互いの呼び名を決めておきましょうよ」
「…呼び名、ですか?」
「えぇ。リンク殿は…リンク、って呼び捨てにしても構わないかしら」
一瞬、彼女の口から出た名前にどきりとした。その名が彼女に呼ばれることなど、もうないと思っていたのに。それなのに、こうもあっさりと以前の呼び名でゼルダが私を呼ぶ日が――例えそれが今日一日限りでも――来るなんて。我知らず笑みをこぼしてしまう。
「気に入りませんでした?」
心配そうにゼルダが尋ねる。私はゼルダを安心させるようににっこりと笑んだ。
「滅相もございません。そのように親しげに呼んで頂けるなんてこの上なく光栄です」
出来ればこれからもそう呼んで欲しいぐらいだ。だがそんな厚かましい願いは口には出せない。いくら本能に従順な私でも、それぐらいの分別はある。
ゼルダは私がそう答えると、いかにも嬉しそうに微笑んで「良かった」と呟いた。それから再び私を見上げる。
「あの…出来れば私の呼び名を考えて頂きたいのですが。さすがに“ゼルダ”じゃ色々まずいと思うので」
「あぁ…そうですね。どうしましょう…」
二人で馬に揺られながら、しばし沈黙して考える。考えてはいたが、実際のところ、私は彼女を“ゼルダ”以外の名で呼ぶのなら、これしかないと私は決めていた。
「…シーク」
「え?」
「シークというのは、どうでしょうか」
シーク、とゼルダが口の中で繰り返す。それから私を見上げてにっこり笑んだ。
「不思議…初めて聞く名前なのに、とっても懐かしい響きですわ。何だか他人のような気がしませんもの」
それはそうだ。元々“シーク”とは貴方の名前なのだから。時代は違えど、同じ魂の貴方なら懐かしく思うのは当然だ。
「それじゃあ私は今から“シーク”、貴方は“リンク”。…どうかしら?」
「悪くありませんね」
お互いに気恥ずかしそうに微笑む。それから私は馬の手綱を握ると、彼女に小さく声をかけた。
「では、参りましょう。城下まで飛ばしますので、しっかり掴まっていて下さい、シーク」
「えぇ、リンク」
私の名をを呼ぶゼルダの声に禁じ得ない笑みを隠すように、私は馬にむち打ち、大きく掛け声を掛けた。
城下に着いたころには、日も高くなりかけ、私たちは遅い朝食――いわゆるブランチというやつ――を取ることにした。私は既に朝食を済ませていたが、ゼルダがしきりに美味しいと勧めるし、また彼女と二人きりで食事をするという甘美な響きにあっさりと私の心は折れていた。
馬は信用できる宿の厩に預け、二人で並んで城下を歩く。ゼルダは終始物珍しそうにきょろきょろと出店を眺めていた。
「こんなにたくさんの方が住んでいらっしゃるのですね」
ゼルダがしみじみと呟く。私は小さく笑って否定した。
「確かに城下は人が多いですが…半分は農村からの出稼ぎの者が開く店でしょう。夕方には途端に人がいなくなりますよ」
「そうなんですか?」
「えぇ。代わりに、と言っては何ですが、夜になると城下には犬がたくさん集まります」
「まぁ…私の知らないことばっかり。リンクはよく城下のことをご存知なのですね」
まただ。リンクと呼んでもらえるその度に、くすぐったいような感覚が私の中を駆け抜ける。なんとかその喜びをゼルダに伝えたいと思うが、そればかりは叶わぬ願いのようであった。
しかし私の返答の前に、目的の場所に到達したため、内心私はほっとしていた。
「ほら…ここですわ」
なるほど、若い男女二人が入るにはもってこいの雰囲気がある店だ。味のほどはともかく、見た目はそこそこ小綺麗な造りとなっており、そこかしこに見られる派手過ぎない装飾がセンスの良さを際立たせていた。
そこで、私たちは遅い朝食を取った。私はずっとゼルダの動きに目を奪われており、何を口にしたのか全く覚えていなかった。
彼女はそんな私の挙動にも全く気付く気配を見せず、食事中も楽しそうに宮中の出来事を私に喋って聞かせた。
「それでね、メルウェンったら可笑しいんですよ。一度焼いたパンを、まだ焼いてないと勘違いしてまた焼いて、お昼ご飯を丸焦げにしてしまったんですから」
「おや、それではその日のご昼食はどうなされたのです」
「慌てて作り直してパスタになりましたの」
普通の城下の娘と同じように、笑って、喋って、しばしば姫だということを忘れさせるゼルダを、私はひどくいとおしいと思ってしまう。
私がこの世で最も愛する存在である姫君。身分が違い過ぎる故に、許されない想いであることは重々承知している。しかしそれでも、せめて彼女と共に過ごせるこの刻を幸せだと感じるぐらいは、許して欲しい。
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