表裏一体

*29

静まった世界に響いたのは、低い勇者の悲鳴だった。

「――っああぁぁぁ!!」

勇者は慌てて突き刺した短刀から手を離す。その手には破壊神の鮮血がべっとりと付いているが、その血が付着した辺りが酷く焼けただれてしまっていた。
クレイジーははんなりと笑んで自らの体に刺さった短刀を引き抜いた。頓着の無い動作の何処にも痛みを感じさせる挙動はない。事実、彼女の胸に空いた風穴はあっという間に修復されていった。

「さすが王国を救った勇者サマね。一重二重に攻撃を重ねて、そのどれもが致命傷を与える為の容赦のないもの」

クレイジーはその銀の瞳に狂気を孕んで、己の鮮血の滴る短刀の刃を舐めた。

「――でも残念。そんな程度じゃアタシは倒せないし、アタシの中を流れる血はただの人間にとっては毒以外の何物でもないの」

言いながらクレイジーは短刀を握り直す。そうしてその刃で何の躊躇もなくリンクの首元を貫いた。彼は碧の瞳を見開いたまま、声も上げずに力なくその場に崩れ落ちた。

そんな勇者を見下ろし、そしてその他の倒れた戦士たちを見下ろし、唐突にクレイジーは肩を揺らして笑い始めた。押し殺したような笑いは、次第に狂ったような高笑いとなり、静まった屋敷に不気味な旋律を奏でる。

「ふふふ…ひゃはははははっ!遂に!倒したんだわ!忌々しい!あの創造神の手駒を!!」

部屋の外にいたガノンドロフですら、破壊神の声には背筋の凍る思いがした。――そう、リンクの後をのんびりと追ってきていたガノンドロフは、まさにこの瞬間、この部屋に到達したのだった。
そうして眼前に広がる光景にしばし言葉を失う。クレイジーがもたらした破壊の痕跡は、魔王でさえもが目を覆いたくなるような凄惨なものだったのだ。

ガノンドロフは部屋の扉のすぐ横に、取っ手が血に濡れた聖剣が無造作に放置してあるのを確認し、それから破壊神の足元に、聖剣の持ち主である己の宿敵が転がっているのを見た。

「殺したのか?」

何の感情も込めずに、破壊神に魔王は問う。クレイジーは笑い声を止めるが、しかし顔には隠し切れない笑みを残して答えた。

「そうよ…アタシが…壊してやったの」

クレイジーは僅かに眉尻を下げて申し訳なさそうに続けた。

「そういえば、この勇者サマはアンタの宿敵だったのよね…アタシが壊しちゃったわ」
「…構わん。その小僧に執着していた訳ではない」

ガノンドロフはぶっきらぼうに呟き、その場に屈んで血濡れた聖剣を取り上げた。それを持ってゆっくりと倒れる勇者の元に――ひいては破壊神の元に近付く。
クレイジーは「そう」とだけ答えてガノンドロフに背を向けた。当のガノンドロフはゆっくりと歩を進めながら、低い声でクレイジーに尋ねた。

「すぐさまこの世界を壊すのか」

「まだよ。もう少しマスターの無様な姿を眺めていたいし…仮にも世界一つを丸々壊すんだから、いくらアタシでもちょっとは休憩しないと出来ないわ」

「創造神も不死身なのだろう。しばらくすれば奴は起き上がってくるのではないか」

「さっき、アタシの一番殺傷力の高い攻撃を叩き込んどいたわ。他の奴らはそれで死んじゃったけど、さすがのマスターもすぐ復活するなんてことは有り得ない」

「…流石だな。あれだけの数の英雄が揃いながら、貴様には傷一つ作ることが出来ん」

「当たり前よ。アタシは神だもの。人間は勿論のこと、“仲間”だ何だとほざくようなマスターに、アタシが倒される訳が――」

唐突にクレイジーが言葉を切る。代わりにその血色の悪い唇から毒々しい鮮血が溢れ出た。銀の瞳が驚愕と困惑の色に満ち、破壊神は訳も分からずに己の体を見下ろす。

クレイジーのその体は、背後から青白い刀身に貫かれていた。

少し首をよじって背後を見やれば、無表情に自分を見つめ返す魔王の紅い瞳がそこにあった。

「な…にを、している…?!」

思わず痛みに顔をしかめながら、クレイジーは叫んだ。何とか己に刺さった刀身に手をかけ引き抜こうとするも、彼女が聖剣に触れることは出来なかった。青白い刀身は、それ自体が意思を持つように電流をほとばしらせ、破壊神が触れることを拒絶する。

「貴様は触れられまい。この退魔の剣は選ばれた者にしか扱えん」

ガノンドロフは低く呟き、更に聖剣を深くクレイジーに突き刺す。唖然としたクレイジーは切々に問うた。

「裏切る…って言うの…?…そもそも…なんでアンタは…この剣を使えて…」

「俺もこの剣には直接触れられないし、扱うなんてもっての他だ。――だが、勇者の血を媒介にすれば話は別だ」

そういえば、とクレイジーは自分の記憶を辿る。さっきガノンドロフが屈んで聖剣を拾い上げた時、聖剣は何故か血濡れていた。その時は特に気にもかけなかったが、まさかこんなことになろうとは。
しかし迂濶だった。あの魔王の性格なら、こうなることは多少は考慮に入れるべきだったのだ!あの魔王なら、この世界を手中に収めたいと思っていてもなんら不思議はないはずなのだ。

クレイジーは、込み上げる吐き気に任せて口から大量の血を吐く。生暖かい感触が口やら首やらを伝い、酷く気分が悪かった。心臓が異常なスピードで脈打ち、体の痛みを倍増させる。神と呼ばれる彼女の体も、同じく神の力を宿す聖剣の前には人並みにしか保てないようだ。
しかし依然として彼女は笑みを崩さない。吐き捨てるように言葉を紡いだ。

「なかなか…考えたわね。確かにその剣でなら、アタシを一時的には倒すことが出来るでしょうよ…でも結局はその場凌ぎにしか過ぎないのよ。アンタ一人ぐらい、アタシがその気になれば何時だって殺して――」

「俺は一人ではない」

ガノンドロフは淡々と答える。一方クレイジーはきょとんとして言葉を失った。

「いつまで寝ている。お前演技上手すぎるぞ、一瞬本当に死んだかと思っただろうが」

魔王は足元に倒れる勇者に声をかけた。破壊神は嫌な予感と共に勇者を見つめる。

彼女の嫌な予感は、すぐさま現実のものとなった。

殺したはずの勇者はピクリと体を動かすと、大義そうに上半身を起こしてガノンドロフとクレイジーを見上げた。首に刺さった短刀を面倒臭そうに引き抜くが、すでに首には傷跡はない。

「いやぁ、何せ距離が近いもので…久々に本気で死んだ振りしてみましたよ」

にっこりと笑う勇者は、まるで何事もなかったかのように立ち上がった。

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