八万企画
優しい侵蝕






「名前」

不意に背後から名を呼ぶ声に、身体がビクッと跳ねた。いつの間に後ろに立っていたのだろうか、見つからないように細心の注意を払ってこの場所を選んだのに。震えそうな身体を、怯えをどうにか隠して振り返るとN先輩が微笑んでいた。

「ど、どうかしました?」
「いや、名前がいなかったから。多分ここにいるのだろうと思って」

そんなはずがない、ここは生徒の立ち入りが禁止されている屋上で。私自身訪れたのは初めてだったのだから。そして勿論私がここにいることは誰にもも告げていない。知るはずがないのだ―――ここへ向かう私の姿を見ていたりしない限り。
ゾワッと悪寒が身体を襲う。逃げられない、本能的にそう感じた。

「名前」

呼びかけてくる声は酷く優しい。しかしその瞳の奥に見える確かな狂気。けれど私に彼を拒絶することは出来ない。拒絶させない。逃げることを許さない。




最初からこんな風ではなかった。というか面識があるというわけではなく、私が一方的に知っているだけだった。理事長の息子であるN先輩は、その整った容姿とずば抜けた頭脳、ちょっと……いやかなり変わった性格で校内で知らぬ者はいなかった。
知り合いになったのも、特にきっかけがあったわけではなくやたらとエンカウント率が高く、ああまた会ったね的な感じで先輩の印象に残っていったのだと思う。エンカウント率というのも、私もN先輩もどちらかといえば騒がしいのが苦手で静かな場所が好きだからそういう場所でやたら会うのだ。例えば図書館だとか、近所の植物園だとか。一つ例外があるとすれば、割と近くにある遊園地に友達と出かけて、でも友達は用事があるからと遊ぶのを早めに切り上げて、一足先に帰った友人同様私も帰ろうとしていたところで何故か観覧車の前に佇む先輩と遭遇した。時間の関係で観覧車には乗れずじまいだったなあなんて思っていれば、どういうわけか先輩に引かれて二人で乗っていた。円形に回るものが好きらしく、色々と数学的な小難しい話をしていたが残念ながらさっぱりわからなかった。でも先輩が楽しそうに話すものだから、こちらも嬉しくなった。



先輩の様子がおかしくなったのは、委員会が一緒のクラスメイト、トウヤと話している時に会って以来だったと思う。そんなことで、とは思うが今にしてみればあれがきっかけというべきなのだろう。外を出歩いているとき、妙に人に見られているような気配を感じた。最初は気のせいだろうかとも思ったが、テスト勉強で結構遅くまで図書館にいてすっかり暗くなった夜道を歩いているとき、自分の足音と同じ速度だけど微妙にずれるそれと、背後から感じる視線に怖くなった。どうしよう、どうしよう。不安で恐ろしくてどうしようもなくなっていたところに、不意にN先輩が現れて「大丈夫?」と声をかけてきた。このときは本当に救世主だと思った、あまりに安心して腕にしがみついてしまった覚えもある。だから先輩の登場と同時に、気配も足音も視線もなくなっていたことに気づく余裕はなかった。
それから先輩は私の行く先々どこにでも現れた。明らかにおかしい、と思うのに時間はかからなかった。
出来るだけ先輩に会わないように、避けるように努めるが私よりもはるかに頭がいい先輩をかわすことなんて出来なかった。
彼にとっては予定調和なのに、私を見つけて嬉しそうな顔をする先輩が怖い。





その日は空き教室にN先輩と二人で残ってテスト勉強をしていた……と言っても、分からなくなったところを先輩に教えてもらうくらいで、先輩は殆んど勉強なんてしていない。それでいつもほぼ満点近い点数を量産するのだから、神様は随分と不公平だ。本当は図書館で一人でやって、わからないところはチェレンに聞こうと思っていたのだが先輩に却下された。
しばらくしてようやく勉強に一区切りついたところで、先輩が自販機で飲み物を買ってくるよと先輩が教室を出た。ハァと息を吐いて伸びをする、とその時N先輩の鞄からはみ出ている小さな手帳のようなものが目に入った。先輩も手帳をつけたりするのだろうかと少し意外に思った、天才だしこういうのは書かなそうだ。興味が湧いた。人の手帳の中身なんて勝手に見てはいけないとわかっているのに、鞄へと手が伸びる。少しだけ、と自分に言い聞かせてそれを開き、適当なページに書かれた内容を見て私は凍りついた。
そこに書かれていたのは日記というにはいささか語弊があるものだった。日付と、私の一日の様子、それから私と接触した異性の名前。そしてそれに対するコメント……途中で見るのをやめたくなるほどのものだった。
なんだこれは。
ここ暫く感じていた視線や気配が全て彼のものであると理解したと同時に、ゾッと寒気が身体を襲った。普通じゃない、だってこんな人を監視するような。生徒だけじゃなくて教師にまで僕の名前に触れるな、だとか話しかけるなおこがましいだとか。
震える手で手帳を先輩の鞄に戻すと、自分の道具をかき集めて逃げるように教室を出た。今は一刻も早くここから離れなければ、N先輩から離れなければ。
早く早く早く。
放課後、テスト前で部活停止中のためか人の気配が感じられない廊下をひたすら走る。もうすぐ玄関だ、そしたら出来るだけ大通りを通って帰ろう。そして両親にこのことを相談しようと、ようやく平静を取り戻してきたその時。

「どこ行くんだい?名前」

いつの間にか前にに立ちふさがっていたのはN先輩だった。血の気が引いていくとはまさにこのことで、自分の顔が青ざめていくのが分かった。挨拶も無しに勝手に帰ろうとしたことを怒ってる表情ではなかった、寧ろその瞳は狂って歪んだ笑みを浮かべていた。

「どう…して…」

生徒玄関と自販機がある食堂は、校内で正反対の場所に位置している。だから普通に考えてまっすぐ玄関に向かった私を、食堂に向かった先輩が私のいないことに気づいても先回りなんて出来る筈がない。
―――まさか、最初から私がこちらへ来ることをわかっていたとでもいうのか。
ゆっくりと一歩一歩近づいてくる先輩に、凍りついたように足が動かない。ボトリと持っていたバッグが床に落ちた。

「僕は君の事なら何でも知っているんだよ」

やがて目と鼻の先についた先輩は腕を私の背中に回し、優しく抱き締めた。先輩が私に危害を加えるわけではないのに、怖くて、申し訳なくて目頭が熱くなった。先輩をおかしくしてしまったのは私だ。私のせいで先輩は。

「何も怖くない。名前、君に降りかかる災厄や危害を及ぼす人間、全てから君を守るから」

先輩の声は優しかった。





ハイスペックストーカーN先輩でした。頭いいから全部先回りするんでしょうかね。
アリシア様大変遅くなってしまいましてすみません!お待たせいたしました。
リクエストありがとうございました。
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