∵ 君には背負わせない
床だけ焼け焦げたのを元通りにする(どうやったのかは結局教えてくれなかった)と六○二号室とは別の部屋に移動して休んでいた名前に雪男は何も言わず一緒にいた。 やがて身体の震えが止まり、落ち着いてきたところで軽く抱き寄せると「もう大丈夫みたいだね」と微笑む。 そんな動作に思わず赤面し、やっぱりこの男スケコマシだ……!と思うと同時に急に不安になってきた。 目の前にいる未来から来た雪男は燐を救うためにわざわざ未来からやって来た、その目的はもう終わったのだ。 じゃあここにいる雪男はこれからどうするのだろう。 そんなことを考えているとまるでタイミングを図ったかのように雪男が口を開く。
「名前さん、兄さんを守るために協力してくれてありがとう。僕はそろそろ帰らないと」 「帰るって……未来に?」 「そう、同じ時代に二人も奥村雪男がいるわけにはいかないからね」
俯いていた顔をバッと上げると雪男の表情はとても穏やかだった。
「名前さん、未来っていうのは一つの過去から平行に何本も生じているんだ。だから過去を変えたとしても僕のいた未来で兄さんと名前さんが亡くなったことは変わらない」
ただ別の二人が無事に生きているパラレルワールドにこの世界が向かうだけ。 結局はただの自己満足なのだ。
「それに僕がこの世界にいることは兄さんや過去の僕にマイナスにしかならないんだ」
騎士團に双子の弟の方の悪魔落ちを色濃く突きつけてしまう、現在兄が祓魔師の試験に受かれば処刑見送りなんて条件に落ち着いたのはメフィスト・フェレスの話術のお陰も一部はあるが雪男が天才と称される有能な祓魔師だからだ。 最悪の場合兄を殺せる(雪男にとってそんなことは有り得ないが騎士團はそう見ている)、そんな雪男の立場が揺らぐことになる。 最悪双子揃って処刑なんてことにもなりかねない。 雪男はこの世界の自分には幸せになって欲しかった、自分が得られなかったものを得た自分がいる、自分がこれまでやってきたことは無駄じゃないと思えるから。
「今更幸せなんて望んでないよ」
悪魔へと身を落とした日から。 もし仮に時間というのが過去から未来へと枝分かれしているのではなく、一直線に繋がっていたら過去を変えた瞬間悪魔である奥村雪男の存在は有り得ないものとなり、おそらく消えただろう。 そこにはタイムパラドックスという矛盾は残るものの、消えてしまった方がどれだけ良かったか。 だけどこれはおそらく罰なのだ、いかなることがあっても運命は悪魔に幸福など与えない。
「帰るって……燐がいない、絶望しかない未来に戻るっていうの?」 「うん、最初から目的を達成したらそのつもりだったから」 「そんなの……っ」
それからもう一つ、今目の前にいる過去の名前から一刻も早く離れなければ自分が何をするかわからなかった。 自分のせいで死んだ彼女、失ったものを再び取り戻せるかもしれないという甘言が頭の中で囁く。 悪いことに名前は多分好意と同情がない交ぜになって、一緒にいてくれないかと言えば首を縦に振ってしまうだろう。 自慢じゃないが数々の女性から好意を寄せられてきた雪男はわかる、今の名前の気持ちは奥村雪男そのものよりも自分に寄せられていると。
「戻ったら正十字騎士團との追いかけっこが再開されるだろうね、でもいいや久しぶりに兄さんの食事にもありつけたし」
それはきっと現代の雪男があとで食べるために燐が用意しておいたものだろうが勝手に食べさせてもらった。 懐かしいその味に涙が出そうになったが、自分に涙を流す価値などない。 丁寧に手を合わせてご馳走様でしたと言って、片付けもきちんとした。
「そんな、雪男のお陰で燐は死なずに済んだんだよ!?どうしてそんな……」 「それが悪魔になるということなんだ」
ポタリと滴が床に落ちる、彼女は涙を流していた。
「泣かないで」 「雪男が泣かないからよ馬鹿!」
怒られた。 指で頬を流れる涙を拭ってやればキッと睨まれる。
「ずっとここにいていいから、幸せならなきゃ駄目なの」 「ありがとう、僕の我が儘に付き合ってくれて」
話が噛み合っていない。 それでもこれ以上彼女の側にいたら気持ちが揺らいでしまう、幸せを求めてしまう。
「最初に会ったときから、っていうのはちょっと言いすぎだったかもしれないけどさ。ずっと好きだったんだ」
立ち上がり、部屋を出て廊下を歩く。 名前が慌ててついてきた。 階段を上がり行き着いたのは屋上だった。
「最後に、あと一つだけ我が儘言ってもいい?」 「最後なんて……言わないで」 「抱き締めてもいいかな」
そう言うや否や答えを聞く前にその身体を強く抱き締めた。 少ししてゆっくり身体を離すと視線が絡み合う。 そして名前の頭の後ろに手を回すと、顔が近づき唇が重なり合った。 触れるだけだが随分と長い。
「ファーストキスもセカンドキスも僕が貰っちゃったね」 「……うん」
長いキスが終わり顔が離れる。 瞳に膜が張っているものの、もう涙は流れていなかった。
「これから過去の僕と色々あると思う、講師や祓魔師の仕事とか勉強を理由にすれ違うかもしれないし、兄さんを優先することもあるかもしれない。それでも名前さんを愛してる、それだけは真実だから」
ゆっくりと頷いてくれた。 大丈夫、過去の自分ならきっと貴女を幸せにしてくれる……自分とは違って。
「私も、雪男のことが大好きだから!」 「それは過去の僕に言ってあげて」
でも、ありがとう。 最後のそれは口に出さずに名前から離れると屋上から飛び降りた。 ―――これが僕の未来へと戻る方法。
「雪男!!」
すぐさま駆け出し雪男が消えた場所を覗き込む。 しかしそこにはもう雪男の姿はなかった。
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