∵ 訪問者の目的
「兄さんどういうつもり?名前さんと未来から来たとかいう僕を二人にするなんて」
それでもしっかり夜食は食べるらしく、いただきますと手を合わせてから雪男は流し台で後片付けする燐に非難するような口調で言った。 チラリとしか見ていなかったが十年後の自分からは悪魔の気配がしたような気がした。 まさかという考えが頭を過る。 だがそれならば鈍感な兄はともかく名前が気づいているはずで、何かあれば自ら二人になるようなことは言い出さない。 何か考えがあるのだろうと結論づけて大人しく兄と一緒に厨房に来た。 だがやはり気にならない筈はなく、咀嚼しながらも意識は六○二号室の方へと集中させる。 念のためにクロを残したから一大事にも素早く反応出来るだろう。
(未来の雪男のやつ上手くやってんだろーな)
使い終わってつけ置きしておいた鍋やらフライパンを洗いながら、燐はチラリと横目で雪男を見つつ部屋に残してきた友人と未来から来た弟に思いを巡らした。 最初部屋に突然やってきた雪男によく似た、でも雪男より背が高く顔立ちも大人びていて、しかも眼鏡をしていない男が「兄さん!」と弟と同じ声で言うのだからそれはもう驚いた。 あまりのパニックに名前と雪男に電話をかける、まさかタイムスリップとは思わなかったので突然雪男が大きくなった!(冷静に考えれば今朝まで普通の見慣れた雪男だったのだからそんなことはありえない)と変なことを言ってしまったのだがそれくらい慌てていたのだ。 その様子を見ていた大人雪男が笑った。 こんな快活に楽しそうに笑う雪男は久し振りに見るので、ぱちくりと目を瞬かせるとごめんごめんとやはり笑いながら口を開く。
「久し振りだったから、つい」 「久し振り?十年後俺達って一緒にいないのか?」 「ううん、高校生の兄さんに会うのがだよ」
しかしよく考えてみると十年後の二十五歳になっても一緒に住んでいる兄弟ってどうよ、流石に大人なのだからそれぞれ別々の生活を営んでいると考えるのが自然である。 雪男は祓魔師のコートを着ているわけだから祓魔師を続けているのだろうけど、昔からの夢だった医師になるというのはどうなったのか、兼業しているのだろうか。 そしてもう一つ、燐には気になっていることがあった。
「そうだ、名前とはどうなったんだ?」 「……それ聞く?」
雪男は少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。 ビンゴ、常日頃から燐が感じていたことは当たっていた。 雪男と名前は両想いだが互いに告白することはない、雪男は今は勉強と仕事が忙しいし兄さんの世話がある(兄としては大変遺憾である)から女の子と付き合う余裕はないと突っぱねているし名前の方は雪男はしえみを好いている思っているのだ。 両方の気持ちを知っている燐としてはもどかしいことこの上ない。 しかしこの未来雪男の反応からしてきっと十年後の二人は無事に結ばれたのだ。
「雪男、お前に頼みがあるんだよ」 「頼み?」
未来雪男が不思議そうに首を傾げた。
「お前は今から名前のことが好きなんだろ?だったら大人になってからとはいわないで、今あいつに伝えるべきだ」 「いや、その……当時は名前さんが僕のこと好きだったなんて思ってもみなかったから」 「だったら尚更!名前に言ってやれって」
そう言うと雪男は少し悩んだような表情を見せたあと、ゆっくりと首を縦に振った。
「そうだね、兄さんの言う通りかもしれない」 「そーだそーだ、雪男は図体ばっかでかくなってるけどヘタレだもんな!」 「否定できないのが悔しいな」
兄さんには敵わないよ、という雪男の台詞に燐はご満悦だ。 そしてあとで名前が来てから、二人にするからちゃんと言うこと言うように!と言ったところでタイミングよく名前がやってきた。 未来雪男の存在に気づいた名前がまさにポカーンという表情で固まる。
(よし、俺が二人のキューピットになってやるからな!)
カチカチ、と時計の針の進む音だけが鳴り響く。 それはおそらく実際の時間にしたらそれほどの長さではなかったのだと思う。
「やっぱり貴女は聡いね……その通り、僕は悪魔だよ」
過去の僕もなんとなく気づいたみたいだけどまだ確証はなかったみたいだね、と苦笑する雪男に絶句した。 何故、どうして、雪男は人間だったはずだ。 悪魔落ちというフレーズが脳裏をよぎった。
「どうしても成し遂げなくてはならないことがあるんだ、己の尊厳を捨ててでも」 「……未来の私は知っていたの?雪男が悪魔落ちしたって」 「忘れた?僕が過去に来れたのは未来の貴女のおかげだ」
要するに未来の自分は彼が悪魔へと身を堕としたことを容認していたことになる。 一体どうして、と悔しさで無意識にぎゅうと掌を強く握った。
「僕が過去に来た目的、知りたい?」
首を縦に振った。 それを見た雪男はゆっくりと近づいてくると名前の髪の毛に手を触れる。 何をしているのかと怪訝そうにしていると雪男と目があった。
「……!」
その緑かかった青い瞳が悲しみの色に染められている。 一体何が、と言おうとしたがそれは素早く背中に手を回され雪男の口によって己のそれが塞がれたことにより叶わなかった。
「んんっ!?」
突然の出来事に何が起きたのか理解出来ずに、驚愕のあまり目を見開く。 少しして触れるだけの口づけは終わり、雪男の唇が離れていったかと思うとそれを今度は耳に寄せられた。
「―――明日の晩、兄さんが死ぬんだ。僕はそれを阻止するためにここへ来た」
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