冬のベランダ

残業が多い生活をしていると、夜に洗濯物を取りこむことが増えて困る。もっともそれは自分だけに限らず、お隣さんも例に漏れないことは日々聞こえてくる生活音で実感していた。
せっかく外干ししたのに夜露で湿りかけてしまった洗濯物を取り込んで、エアコンの室外機に置いていたマグカップを手に取る。ベランダの柵に肘を乗せてまん丸に輝く月を見上げながらコーヒーをひとくち口に運んだところで、隣の気配に気付いた時には既に目が合っていた。

「あ」
「え」

しばらく物音が聞こえないからてっきりお隣さんは不在だと思っていたが、まさか先にベランダに滞在していたとは。板一枚で隔たれているマンションのベランダで鉢合わせるなんて気まずい以外の何物でもないが、こうして顔を合わせてしまっては仕方がない。今後の付き合いもあるのだから無視するわけにもいかない、かといって何と声を掛けるのが無難なんだろうか。なんて悩んでいるうちに、先に向こうから挨拶をされた。

「どうも、こんばんは」
「こ、こんばんは」
「それ、コーヒーですか?」
「あ…冬の空見ながらベランダで飲むのが好きなんです。ごめんなさい、臭いました?」
「大丈夫です、っていうか俺の方こそ激辛麻婆豆腐食べたばっかなんで臭ったらすいません」
「え、激辛!?苦手そうなのに、意外ですね」

わたしに遠慮して口を押さえる隣人さんは可愛い顔して照れ笑いする。仕事終わりなのだろう、ワイシャツにカーディガンを羽織ったままの格好は見たこともない昼間の姿を彷彿させた。
今まで喋ったことなんてほとんどなかったけど友好的な人だったんだなぁ、そう思いながらまたひとくちコーヒーを飲むと、空を見上げた隣人さんが再び口を開いた。

「月が、綺麗ですね」
「……え!?」
「えっ、満月綺麗じゃないですか?…って、ああ!!えっと!そういう意味じゃなくて!」

夏目漱石的なやつじゃないんで!慌てながら必死にそう弁解する様子がおかしくて、思わずわたしも同意した。

「ふふっ、はい、綺麗ですね」

有名な告白のセリフに反応してしまったわたしもわたしだが、すぐにそれに気付いた彼もまた、小説を好む知的な男性なのだろうか。
ワイシャツとベランダと夏目漱石。もしもまたここで鉢合うことがあったら、次は勇気を出して何の仕事をしているのか聞いてみようかな。


(20201209)


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