底なし涙の溜池
 誰かが唱えた一文、明けない夜はない。よく出来た言葉だと思った。先の見えない長い闇夜だと思っていたはずが、いつの間にかベッドで眠りに落ち、気付いた時には既に朝を迎えていたから。
 何の言葉だったかなぁ、有名な悲劇のセリフが由来だったような。ええと、確か、シェイクスピアの………なんだっけ?寝起き特有の働かない頭でそんなことをぼんやり考えながら、重い瞼をごしごしと擦った。

 明けない夜はない。しつこいようだけどこれは名言だ。世界は自分を中心に回っているわけではない。どれだけ憂鬱になったとしても、悲劇のヒロインぶったとしても、この世で生きている限り必ず明日はやってくるのだ。
 地球は回ってるんだなぁ、なんて馬鹿みたいなことを呟きながら洗面所へ向かうと鏡に映る自分と目が合った。まるでこの世の終わりと言わんばかりの酷い顔だ。ハァ、と朝から重い溜息を吐いてみるが、そんな事をして何かが変わるわけでもない。

 大学へ向かっても気分は優れず、講義中はほぼ上の空。売店で買った紙パックのカフェオレ1つで昼食を済ませていると、わたしの様子を朝から見ていた友達が「……恋煩い?」なんて笑えない冗談をかましてきた。そんなわけあるか。
 そこからの記憶は朧げで、気付いた時には自宅マンションへ帰宅していた。ベッドに寝転がり、電気もつけず夕飯も食べず、ぼうっと時間を過ごしていると突如お腹の虫がぐぅと鳴る。呆れたことにこんな時でもお腹は空くらしい。さすがは人間の三大欲求の一つ。生きてる証拠だなと思った。

「……夕飯作ろう」

 重い腰を上げて廊下に面したキッチンへ向かい、材料を確認して献立を考える。今朝炊いたごはんが残ってるから、ごはんに合う和食がいいな。ジャガイモ、人参、玉ねぎ、豚肉というラインナップから導き出したのは糸蒟蒻無しの肉じゃがだった。
 油を軽く熱した鍋で一口大の豚肉を炒め、皮を剥いて乱切りにした人参とじゃがいも、くし切りにした玉ねぎを追加投入。砂糖と水を注いで合わせ調味料を加え、落とし蓋をしてぐつぐつ煮込んで一旦冷ます。冷えている間に味が染み込んで美味しくなるんだったよなぁ、なんて考えていると再びお腹の虫が鳴いた。どうやら空腹が限界らしい。悩んだ末に物は試しと味見をしてみるが、やはり野菜に味が染みていない。食べられないこともないが、この空腹を満たすには少々物足りないと思った。

「ん〜〜これは明日の夕飯にして買い出し行くか」

 誰に向かって言ってんだと脳内ツッコミを入れつつ部屋に戻って上着を羽織った。一人暮らしは独り言が多くなって困る。だけど声に出してしまえばなんとなく気持ちに整理がつく気がして、どうにもこれはやめられないのだ。
 少しだけ冷たい夜風に身を震わせながら街灯を頼りに夜道を歩く。昼間は暖かいけどやっぱり夜は冷えるなぁ。薄雲から覗く月を眺めながら、今の時期はまだ白くならないと分かっていながら濃紺の空に向かってはぁ、と息を吐いてみた。


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 近所のコンビニでサラダと鯖の味噌煮を買い、自宅マンションへ帰ったのは21時過ぎのこと。オートロックを解除してエレベーター前に足を進めると他の部屋の住人らしき人物の足元が目に入る。挨拶くらいしておこうか、そう思い顔を上げると、そこにあったのは見覚えのある金髪頭。

「げっ」
「……どうも」

 あからさまに嫌そうな声を発した自分に対し、奥村は相変わらずのポーカーフェイスでぺこりと頭を下げてみせた。昨日の今日でこの再会は最悪だ。気まずい。非常に気まずい。一刻も早くこの場から立ち去りたい。そうは思っても無言を貫く奥村に気圧されてしまい足が床のタイルに張り付いて動かない。
 どうする、逃げる?いや待て、エレベーターを使わず階段を登ってもいいが4階というのは微妙な階数だ。高校を卒業して2年、ゆるい大学生活を送っている運動不足の身には正直しんどい。それに3階に住んでる奥村がエレベーターに乗ろうとしてるのに4階に住んでるわたしが階段使うって変じゃない?っていうか奥村こそ階段使えばいいのでは?東京六大学の現役野球部だよね?運動も兼ねて階段使えよスポーツマンだろうが!………なんて言えないチキンはわたしです。
 ぐるぐる回る思考を停止させ、結果口にしたのは当たり障りのない言葉だった。

「い、いま帰り?」
「はい」
「へぇー……」

 薄っぺらい返事のあとに訪れたのはまたしても気まずい空気。あぁ嫌だ、この感じ。何でもいいから喋ってくれ。左手に持っていたビニール袋の中を覗いてみたりに右手に持ち替えてみたり。無駄な動きをしながら、エレベーターが1階に降りてくるまでの沈黙の時間をなんとかやり過ごそうと必死だった。
 なんで昨日の被害者かつ年上のわたしがこんなにも気を遣わなければならないのか。そうは思ってもこの重苦しい空気に耐えきれなかったらしい。次にわたしが口にしていたのは自分でも驚くほどマヌケな内容だった。

「……あのさぁ」
「なんですか」
「に、肉じゃが作りすぎたんだけど、いる?」

 しまった。話題がないとはいえ何を言ってるんだ自分。我に返って手元のビニール袋から奥村に視線を移すと、返ってきたのはたっぷりと間を置いたあとの「……は?」だった。

「いや、一人分にしては多く作りすぎちゃって……あ、でもお裾分けは明日ね。さっき作ったばっかりだから今はまだ味が薄いんだけど、明日なら味も染みてるだろうし美味しいかな〜〜………って、何、その顔は」

 こちらへ向けられたのは昨晩と同じ、まるでゴミでも見るような目。いや、確かにいきなりなんだって話だけど、そこまで引かなくてもよくないか?わたしだって自炊くらいするし。プロじゃないけどそれなりに食べられるものだし。
 ていうか高校時代の合宿中、わたしの握ったおにぎり散々食べてたじゃん。なんちゃってクリスマスパーティーに出した料理もケーキも食べてたじゃん。今更そんな顔しなくてもいいんじゃない!?なんて、次から次へと湧いて出る不満をどれから浴びせてやろうか。そう思っていたのだが。

「昨日襲われた相手に夕飯のお裾分けですか……呑気ですね。もしかして誰とでもああいうことするの慣れてるんですか?」
「は……ハァァァ〜〜〜!?」

 鈍器でガツンと頭を殴られたような衝撃に一瞬意識が飛んだ。が、現実世界に引き戻されると同時に口から漏れたのはこれ以上無いほどの怒りの感嘆詞。
 何言ってんの?そりゃこっちのセリフなんですけど!?事が終わると同時にさっさと身支度済ませちゃってさ。涼しい顔して「帰ります」なんて言っちゃってさ。どう考えてもアンタの方がよっぽど手慣れてる遊び人じゃないか。そもそも2年前みたいなことを繰り返したくないから嫌々話しかけたっていうのに。こっちだって色々と譲歩してるんだよ。なのにその言い方は一体全体なんなんだ。
 怒りで震えているとやっとのことでエレベーターの扉が開く。隣に立つ奥村より先に乗り込み、くるりと向きを変えて腹の底から声を張った。

「アンタねぇ、人をコケにすんのも大概に」

 しろよ。と言いかけたところで降ってきた影、視界が暗くなるのと同時に塞がれた唇。相変わらず冷たい眼差しで離れていく奥村に釘付けになりながらも、それがキスだと分かるまでに時間はかからなかった。

「な、何し、」
「警戒心持ってくださいって言いましたよね」
「い、言われた……けど!」
「あとこれは余計なお世話ですけど、きちんとした下着を着けないと胸が垂れるそうですよ」
「む……垂れ……っ!?」
「それと肉じゃがでしたっけ?お裾分けしてくれるんだったら明日の晩俺の部屋に持ってきてください。では」
「ちょっと!」

 早口で捲し立てる奥村の視線の先は常にわたしの胸元。情報量が多すぎて混乱している中、エレベーターはあっという間に3階に着いてしまう。颯爽と降りていく彼に怒号を浴びせるも、静かに閉まるドアに阻まれわたしの怒りは届かなかった。
 なんでキスしたの。胸が垂れるって何、昨日のブラトップ姿のことを言ってんの?本当に余計なお世話だ!ていうかちゃっかり肉じゃが貰うつもりなんじゃないか。しかも部屋に持ってこい………って、

「〜〜〜っ!何様だ!」

 4階の自宅に帰るや否や階下に向かって叫びながらクッションをフローリングの床に投げつけてやった。奥村に聞こえたかな。聞こえなかったかな。でもどっちでもいいや、もう知らない。
 怒りの矛先をどこへ向ければいいのだろう。ベッドにダイブし顔を埋め唸り声を上げるも、布団に吸収されて消えていくだけだ。ハァ、と小さな溜息を一つ。仰向けになって白い天井を仰ぐと昨日の記憶がフラッシュバックした。
 頬を染めながら余裕のない表情でわたしを抱いた生意気な後輩。奥村もわたしなんかに欲情するんだな。あんな顔するんだなぁ……なんて。そこまで思い出すと途端に恥ずかしくなった。頬をベチンと叩いて冷静になると、今度は「詰めが甘い」「隙がないフリして隙だらけ」そんな奥村の言葉が頭に浮かぶ。怒ってたなぁ。そう考えながら、たまらず両腕で顔を覆った。

「いつの話をしてんだよぉ……」

 あの戒めの言葉はきっと過去の自分へ向けられたものだ。高校時代わたしはそんなにダメ人間だったのか。陰で鬼だと揶揄されていたあの日々は何だったんだ。なんて悔やまれるわけだけれど、今更どうすることもできないのが事実。マネージャーをやると決めた時から部員にも己にも厳しくしてきたつもりだったのに、少なくとも奥村にはそう見えていたということだ。
 悔しくて情けない。瞼を閉じると目尻に涙が滲む。ここからどう軌道修正すればいいんだ、あの狼小僧を攻略するなんて無理がある。そこまで考えたところで、奥村の世話役、赤毛混じりの彼が目に浮かんだ。

「セトえもん〜〜」

 まるで某猫型ロボットに助けを乞うように嘆きながら、気付けばカバンの中のスマホに手を伸ばしていた。電話帳を開いて画面をスクロールし、涙で滲む視界の端に「瀬戸拓馬」を見つける。神様仏様セトタク様。心の中でそう呟きながら、最後の砦に縋る思いでその名をタップした。


(20210413)
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