揺蕩う時間の中で
 ── 3年前、春。

「大京シニア出身、奥村光舟。希望ポジションは──」

 青道高校硬式野球部、新入生合流一日目。奥村光舟と名乗った彼は、どうやらキャッチャーを希望しているらしい。色素の薄い金色の髪に灰色がかった碧い瞳。その端正な顔立ちと日本人離れした風貌から高校球児のイメージと随分かけ離れてるなぁ、なんて勝手な偏見を押し付けていた。

( アレだな、わたしの苦手なタイプだな )

 見るもの全てを敵視するような、ナイフみたいに鋭い眼。クールぶってる割には野心家なのだろうか。毅然と振る舞う態度と物怖じしない口調が、ただ純粋に生意気そうだと思った。

「尊敬する選手は特にいません」

 バッサリと切り捨てるようにそう告げる態度に、やはり生意気だと心の中で悪態をついていた直後。その鋭い眼と視線がぶつかった。目を逸らした方が負けだ、なんて田舎のヤンキーみたいな対抗心で睨み合うこと数秒。しばらくして興味を失ったのか、ふいっとそっぽを向く彼に「勝った!」と謎の優越感を感じていた。まぁ当然だ、先月まで中学生だった奴なんかにわたしの眼力が負けるわけがない。マネ2年目ともなればわたしにもそれなりに威厳が身に付くってもんよ、なんて腹の中でほくそ笑みながらその場をやり過ごしていた。

「さっき、俺のこと睨んでましたよね」
「気のせいでしょ。ていうか睨んでたの君の方じゃない?」
「先輩ですよ」
「いや君だよ」
「……………」
「……………」

 新入生の体力テスト終了後、わたしの目の前に立ちはだかったのはあの眩しい金髪だった。まさかわざわざ文句を言いに来たのか?コイツ結構根に持つタイプだな、粘着質男め。そんな不満が顔に出ていたのか彼はバツが悪そうな顔で目を細め、まるで宣戦布告のように再び自分の名を告げた。

「奥村光舟です」
「さっき聞いた。キャッチャーなんでしょ?わたし2年のマネージャー苗字ね」

 どうにかしてこの場を収めようと「よろしく」と差し出した右手を無言で見つめられること数秒。腑に落ちないといった表情を向けられたものの、先輩に差し出された握手を断れるほどの度胸は持ち合わせていなかったらしい。素直に応じた彼に、とりあえず和解しようじゃないか。なんて、心の中で語りかけながら交わされた握手。初めて触れた彼の手は、大きくて骨張っていて、見た目に反して意外に男らしいんだな、なんて思ったわけで。
 そんなこんなで、この時のお互いの印象は決して良いとは言えなかったと思う。

 だけどそれからひと月と経たず、わたしたちの関係は目まぐるしく変わっていった。

「ねぇ、沢村の球受けたんでしょ?」
「そうですけど」
「どうだった?」
「なんでそんなこと聞くんですか」

 それは4月下旬。御幸先輩から聞いた話によれば、数日前の自主練時間に奥村が沢村のアップに付き合うと言い、結果キャッチボールだけに留まらずマスクを被ってナンバーズを受けたらしい。衝突していたはずの2人の歯車が噛み合って、何かが少しずつ動き始めている。そんな風に思えたのだ。選手を影で支えるマネージャーとして、こんなに面白いことは他にないだろう。

「沢村と奥村、いいバッテリーになると思うんだけどな」
「随分と分かったような口の利き方ですね」
「分かるよ、だって1年間ずっと沢村のこと傍で見てきたから」

 奥村のことを生意気だと散々文句を言っていたはずの沢村が、アイツは冷めてるように見えて心の中は熱い奴だと、目を輝かせて嬉しそうに語っていたのだ。これが期待せずにいられるだろうか。
 紅白戦での存在感、投手への寄り添い方と捕手へのこだわり。それから、偶然知ってしまったシニア時代の過去と、青道を選んだ理由。かつてはわたしも彼を生意気そうだと睨んでいたけれど、奥村のことを知れば知るほど、いつの間にか目が離せなくなっていた。

「ふふ、楽しみにしてるから」
「その顔ムカつくんでやめて下さい」
「なんだと!?」

 奥村からすればわたしも口が悪い生意気なマネージャーだったと思うけど、わたしたちはそれなりに上手くやっていた。そう思っていた。

 だから尚更悔しかった。引退目前の最後の夏、わたしと奥村は些細な口論で衝突した。その結果、引退までの期間は必要最低限の会話を交わすのみとなり、当時沢村には随分心配をかけた気がする。それから引退後、わたしは逃げるようにして野球部と距離を置き、卒業後は何度か集合の声が掛かったものの、どうしても青道に顔を出す気にはなれなかった。
 
 あれから2年。どうやら奥村とわたしは切っても切れない縁だったらしい。驚くべきことに、何の因果か変な巡り合わせで再会することになり、いつの間にやら元の関係に戻りつつある今日この頃。近頃やたら高校時代の夢を見る機会が増えたのは、きっとそのせいだと思うのだ。


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 在籍するキャンパスの最寄り駅から電車で約25分、さらに徒歩で約15分。そこに存在するのが、我が明神大学が有する鶴島ボールパーク。かつて東京選抜で御幸先輩と結城先輩が相見えたその場所に、大学2年目になった今、自分が足を運ぶ事になるとは考えてもみなかった。

「どーした、珍しいな!」
「あー……ちょっと覗くつもりで来たんだけど、マネージャー希望と勘違いされて中に案内されちゃったんだよね」

 練習の邪魔にならないようメインスタンドからグラウンドを眺めていると、どうやら一息ついていたらしい沢村に見つかってしまった。練習用ユニフォームの袖で汗を拭いながらスタンドを見上げる姿。今となっては懐かしいと感じるまでになってしまったその光景が、高校時代の記憶を呼び覚まして思わず胸が震えた。
 ブルペンで騒ぐ度に周りからうるさいと怒られていたのに、いつの間にかマウンドでの口上を心待ちにされるまでに成長したんだったっけな。『バックの皆さんよろしくお願いしやす!』そんな決まり文句を思い出していると「奥村から聞いたぞー。苗字、色々やらかしたんだって?」なんて言いながら沢村が笑った。どうやらあの日のことを蒸し返されているらしい。

「アンタだって途中潰れてたじゃん!どうせ誰かに送ってもらったんでしょ!」
「わはは!俺には春市と東条がいるからな!」

 そこは金丸じゃないのか、癒し系コンビも災難だな。なんて自分のことは棚に上げてそんな事を考えたが、呆れ顔の奥村が頭をよぎって口を噤んだ。そうだ、人のことは言えない。もうあんな思いは御免だ、しばらくお酒は控えよう。そう決意するけれど、結局また飲んでしまうのが人間なんだよなぁ、なんて思ったりするわけで。痛い目見ても誘惑に負けてしまうアルコールとはつくづく恐ろしいものなのだと、あの夜を思い出して頭が痛くなった。

「奥村が気になる?」
「べ、別にそういうわけじゃ……」

 無意識に目が探していたのだろうか。慌てて視線を足元に落とすも、沢村の反応が気になって様子を伺うと案の定意地が悪そうにニヤついていた。こういう所は本当にムカつく。だけど奥村が絡むといつもこの男には叶わないということも、また事実。

「あっちで先輩の球受けてるよ」

 左手で示す先、一塁側のブルペンに目を凝らしてみると3組ほどのバッテリーが投球練習を行っている中に奥村の姿を見つけた。ほんとに、野球続けてたんだ。そう思いながらしばらく眺めていると、奥村は立ち上がって先輩投手の傍へ歩み寄り、ピッチングについて何か話しているようだった。今でも変わらず、積極的にコミュニケーションを取っているらしい。それが分かっただけでじわりと胸が温かくなった。

「心配しなくても大丈夫だぞ」
「うん……そうだね」

 ふふん、と得意げに笑う沢村に胸を撫で下ろしてグラウンドに視線を移す。体格のいい部員が練習に励む様子を懐かしむように眺めていると、ふわりと吹いた風が頬を嬲った。少しだけ秋の匂いを含んだそれがわたしの髪を揺らし、視界が遮られないよう髪を耳にかけて目を細める。微かに香る乾いた風のほろ苦い匂いに夏の終わりと秋の訪れを感じながら、過去の自分を思い出していた。

「うちの大学野球の女子マネージャーは高校と違って広報活動がメインみたいだけど……」
「うん?」
「またやる気になった?」

 白い歯を覗かせて笑う様子に思わず面食らう。まさかここでこの男に、そんな勧誘まがいの問いかけをされるとは思ってもみなかったから。

「いや、それはない」
「わはは!いっそ清々しいな!」

 迷う素振りが一ミリもないわたしの態度に沢村は高笑いしてみせた。本気で言ってるわけじゃないのは分かってる。だからこそ首を縦になんて振れなかった。

「でもさ、」
「ん?」
「り、リーグ戦の応援……行ってもいい?」

 ずっと目を背けていたくせに今更なんだ。そう言われても仕方がないが、それでも確かめずにはいられなかった。言葉にすることがこんなにも恥ずかしいものなのかと、声に出してみて改めて思う。果たしてどんな反応をされるのだろう。そう不安になるも、沢村に視線を移すと相変わらず眩しい笑顔でわたしを見上げていた。

「ははっ、当たり前だろ!」

 だけど「奥村も喜ぶぞ!」という言葉にはどうにも同意できず、そうかなぁ……と眉を下げて苦笑するしかなかった。

「そうだ、今日ここにわたしが来たこと奥村には言わないでよ」
「ハァ?なんで」
「なんでもだよ、言ったら殺すから。二度とレポート手伝ってあげないからね……!」
「へーへー、分かりましたよ」

 かつて鬼マネージャーと恐れられていた頃のように、グラウンドを見下ろしながら殺気を放つ。だけどそんなことを気にも留めない沢村は、気の抜けた返事を返すのみだった。
 今一度ブルペンに向き合い、マスクを被ってミットを構える奥村の姿を目に映す。今からでも遅くない。2年間の空白を埋められるかもしれない、そう期待してしまう自分がいた。

「苗字」
「な、何」
「良かったな」
「……良かったって、何が」
「色々だよ!」

 ふっと笑う沢村の笑顔に自然と心が軽くなる。どこまでも真っ直ぐで天真爛漫。昔から何一つ変わらない沢村には、いつもこうして救われていた気がする。本当に不思議な力を持つ男だ。恋心とはまた違う、憧れや尊敬に近いこの感情。人を惹きつけ夢中にさせる沢村の才能は、まさに天性だと思った。


(20210321)
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