ぶれた愛情論
 奥村と一晩過ごしたあの日から2週間と数日。高校時代と比べると長い長い夏季休暇が終わり、ついに秋学期が始まった。

「……ほんとに同じキャンパスだったんだね」
「どうも」

 手軽に食べられ値段もお手頃、種類豊富で毎日飽きない。そんな謳い文句で有名な我が大学の食堂は3階建構造と膨大な敷地面積を有しており、フロアごとに提供するメニューが異なるほどラインナップが豊富だ。和洋中から選べる定食セットをメインに展開する1階にて週替わりの和定食を注文し、まずは食物繊維の野菜からとサラダを口に運ぼうとした瞬間。視線を感じて顔を上げると、トレーを抱えながらわたしを見下ろしている奥村とばったり遭遇したのだった。

「苗字先輩、友達いないんですか?」
「そういう日もあるの!」

 8人掛けのテーブルの端、1人ぽつんと座るわたしを憐れみの目で見つめる奥村に憤慨し思わず声量がボリュームアップ。けれど時刻はお昼時。学生で賑わう賑やかな食堂では、わたしの叫び声など喧騒に混じって消えていく。ていうかそれを言うならアンタだってぼっちじゃん!人の事言えないじゃん!特大ブーメランとはまさにこの事。奥村の周囲に誰もいないことを確認しながらそう指摘してやるも、当の本人にはノーダメージのようだった。
 
「まぁ、座れば?」
「失礼します」

 空いていた正面の席を顎で示せば素直に着席する奥村。テーブルに置かれたトレーの中に目をやると白ごはん大盛りの中華の定食セットに加え、おにぎりが2つ乗った小皿があった。高校入学当初は食事に苦労してたけど、今はどうなんだろうか。まぁ、よく見れば身体の線も太くなってるし、それなりに食べられるようになってきたのかもしれないけれど。

「よく学食来てるの?」
「そうですね、苗字先輩が沢村先輩とお昼を食べてるところはたまに見かけてましたよ」
「げ、マジ……?」
「苗字先輩は沢村先輩のことしか見てませんから、俺になんて気付かなかったんでしょうね」

 やたら棘のある返事をしながら箸を進める様子に思わずカチン。またこれだ。先日の居酒屋の時もそうだった。何かにつけて沢村の名前を話題に挙げるのは、高校の頃から何一つ変わっていない。

「ねぇ、この間も思ったけどその言い方なんなの?いい加減しつこいんだけど」
「別に。本当のことを言っただけです」
「あっそ」

 あまりに清々しい態度に、わざと言ってるわけじゃなくこれがコイツの本音なんだと諦めた。手元に視線を落としてサラダを口に運び、控えめに湯気が立ち上る味噌汁をゆっくり啜る。定食のメインである鯖の味噌煮を箸でほぐし、柔らかくなった身と白米を一緒に口へ放り込む。咀嚼するたび、口の中が生姜の効いた甘辛さでいっぱいになった。

「……身体の方は、大丈夫なの」
「何がですか」
「あれから風邪引いてないよね?」

 あれから、というのはわたしが酔っ払って醜態を晒してしまったあの夜のこと。夏の終わりといえど、着衣したまましばらくずぶ濡れになっていたのだ。身体を冷やしてしまったかもしれない。今日の今日まで顔を合わせなかったものだから、その後の様子がずっと気がかりだった。

「もしかして心配してるんですか?」
「まぁ、一応」

 視線を上げずにそう尋ねると、少し驚いたような反応が返ってきた。いくら苦手な後輩だからって、あれだけの迷惑をかけたんだ。わたしだって反省もするし心配だってする。それに引退したとはいえ元マネージャーだ。選手の体調が気になるのは当然のことだ。

「この通りピンピンしてますよ」
「なら、良かった……けど」
「……まだ何か?」
「や、野球は?楽しい?」

 本当はずっと気になっていたこと。奥村がこの大学にいるということは、沢村と同じように大学側から声が掛かったのかもしれない。かつてバッテリーを組んでいた沢村の後を追うようにこの大学に入ったのなら、まだ、彼の野球への情熱は消えていないのだろうか。
 青道を卒業以来、母校へ顔を出さなかったわたしは奥村がどんな気持ちで高校野球を引退したのかを知らない。ただでさえシニア時代に辛い経験があったのだ。面白そうな投手がいると目を付けた青道高校で、心の底から野球を楽しめる瞬間があるのか確かめたい。そんな理由で青道に入学したはいいが、沢村と降谷が引退してからの最後の1年をどう過ごしていたのだろう。その上、2年前の夏にはマネージャーであるわたしと関係が拗れてしまった。そのせいで野球を嫌いになってしまっていたら。そんな懸念が拭えなかった。
 今はどんな気持ちで野球を続けているのだろう、それが知りたい。箸を止めて顔を上げると、目が合った。

「それなりに楽しいですよ、そうじゃないと続けてませんから」
「……そっか」

 相変わらずのポーカーフェイスだけど、間髪入れずに返答するその言葉に嘘偽りはないと思った。そうだよ、だって沢村がいるんだから。きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせながらコップの水でごくりと喉を潤すと「ご馳走様でした」と奥村が立ち上がった。嘘でしょ、もう食べたの。あれだけ食に苦戦してたのに、本当に成長したんだな。

「ま、待って」
「なんですか」
「連絡先、教えて」
「は?」

 同じ大学で同じマンションに住む元チームメイトの後輩。一度は繋がりが切れかけたが、これも何かの縁だ。トレーを持ってこの場を立ち去ろうとする奥村のポロシャツの裾を掴み引き留めるも、見上げた先の金髪頭は怪訝な表情を浮かべていた。

「高校の時交換しましたよね?」
「いや〜〜それが奥村と拗れた時にさ、あまりにも腹が立って消しちゃったんだよね」
「へぇ」
「ははは……」

 蔑んだ目で見つめられながら2度目の連絡先交換を行う。だけどこの時は、まさかこんなにも早く電話をかける羽目になるとは思ってもみなかった。
 


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「奥村!ねぇいま家!?」
『そうですけど』
「出た!部屋にGが出た!助けて!!!」

 連絡先を交換した翌日の夜、一人暮らしを始めて初の緊急事態に直面。その名を呼ぶことすら恐ろしい、羽根の生えた黒いアイツが出現したのだ。高校時代「鬼の苗字」と一部の野球部に恐れられていたわたしにだって苦手なものはある。いくら鬼でもコイツは無理だ。戦いたくないし、戦えない。パニック状態の頭で導き出した答えは、へっぴり腰になりながらスマホを操作しヘルプコールを掛けることだった。

『Gって何ですか』
「ゴキブリだよぉ〜なんで伝わんないの!おぞましい名を言わせるなよぉ!」
『無理です。沢村先輩を呼んでください、家近いんですよね?』
「予定あるからってさっき断られた!」
『チッ、俺は二番目ですか』

 目の前で黒光りしている対象物を見失わないようメンチを切っていると、ヤツは音もなくいそいそと動き出した。右手でスマホを耳に当て会話しながら、左手に対ゴキブリ用の噴射器を構える。思い切って攻撃すればいいのだろうが、噴射した薬に反応してこちらへとんでくることを想像するとどうしてもレバーを握れないでいた。

「お願い!なんでもするから急いで!!!ぎゃあ動いた!」
『……なんでも?』
「なんでも!早く!」

 涙目になりながらスマホに向かって叫ぶと交換条件を飲んだ奥村が『言質取りましたよ』と呟いて電話を切った。それから1分と経たずして、マスクとゴム手袋を装着した奥村が我が家に到着。やや逃げ腰で悪戦苦闘しながらも某ジェットと言う名の現代科学の力を借り、なんとかヤツの息の根を止めたのであった。

「ハァ……疲れた」
「うぅ、ありがとう、ほんとにありがとう……!」

 約10分に渡る死闘の果てに勝利を手にした奥村はまさに満身創痍。壁に背中を預けて床に座り込み、既視感満載の燃え尽きたボクサーのようにぐったりと首を垂れていた。動こうとしない様子が心配になり、思わず近付いて顔を覗き込むと顔が青ざめている。もしかしなくても、わたしと同じように苦手だったらしい。

「奥村、虫ダメだったんだね……ごめん」

 なのにわたしのためにこんなに身体を張ってくれるなんて……ありがとう。ちょっと見直したよ。心の中で手を合わせながらそう語りかけていると、奥村は溜息を吐きながらゆっくりと立ち上がった。

「じゃあ約束守って貰います」
「は?」
「なんでもするって、言いましたよね?」

 今にも刺されそうな雰囲気でジリジリと距離を詰められ思わず後退り。ふくらはぎがベッドのマットレスにぶつかったはずみでバランスを崩し、そのまま後方へ尻餅をついてしまった。身の危険を感じて立ち上がろうとした瞬間、奥村がベッドに片膝をつきながらわたしを見下ろす。もちろん目は笑っていない。思わず恐怖で戦慄した。なに、わたし今から殺されるのか?

「い、言っとくけど、わたしに出来ることだけだからね……?臓器売れとか言われても無理だからね!」
「目を閉じてください」
「な、なんで」
「早くしてください、臓器売られたいんですか」

 有無を言わせない不穏な圧に耐えきれず、しぶしぶ瞼を閉じてみせる。見えないことに恐怖を覚え、視覚以外の五感が研ぎ澄まされるこの感覚は苦手だ。普段どれだけ視覚情報に頼って生活しているのか、それを痛感する。素直に応じたわたしの肩に奥村の右手が置かれ、距離がぐっと近くなる気配がした。
 ……ちょっと待てよ。このシチュエーション、まさかとは思うがキスされるんじゃないだろうな。奥村に限ってそんなことはしないだろうけど、可能性はゼロではない。そう考えると途端に怖くなった。思わず唇を硬く結び、ぐっと顎を引いた瞬間。バチン!という音と共に、額に激痛が走ったのだった。

「いったぁ!」
「これでチャラです」
「はぁ?」

 何、今の。デコピン?じんじんと痛む額をおさえながら奥村を睨むと「いい間抜けヅラが見れました」なんて言いながら離れていく。

「もしかしてキスされるとでも思いました?」
「な、なんっ、」
「本当におめでたい頭ですね」

 いや、確かにちょっと思ったけど。思ったけど!そんな言い方されたら、まるでわたしがキスを待ってたみたいじゃないか。羞恥と憤怒が混じり合って小さく震えていると「そうだ、コレお借りしていた服です」とビニール袋を渡された。中を覗くと相変わらず目に悪い色のTシャツと柄のうるさいハーフパンツ、それからボクサーパンツが一枚。ふわりと香ってくる柔軟剤の香りから、わざわざ洗って綺麗に畳んでくれたことが分かった。これから捨てようとしているというのに、律儀だな。

「……ご丁寧にどうも」
「先輩の元彼、趣味悪いですね」
「うるさいな!」

 一言余計なんだよ!と文句をぶつけるも、気にも留めない奥村は先日と同じようにくるりと踵を返して玄関に向かって行く。去り際に「次はないですよ」と言い捨て、ドアを閉める様子を呆然と見つめるわたしだったが、そんなこと言われてもなんやかんやで迷惑をかけてしまったのはこれが2度目の事実。2度あることは何とやら。そんな慣用句が頭をよぎり、まだ見ぬ3度目の事件を想像して頭を抱えるのであった。


(20210319)
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